air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第14話

ゾウムシそして立ち葵の記憶

中元彩紀子

 裏のこんぴらさんからお囃子の音が聴こえる。祭りが近いらしい。さっきまで見ていたはずの夢の輪郭をとらえながら、私は寝返りをうつ。ガチャガチャいうのは同じアパートに住む大道芸人が中庭で練習しているからだろう。
  「きみは左利きなんだね…」
  不意に思い出した。今し方夢のなかで、誰かにそう言われたのだ。だから、それがどうしたっていうのだ。そんなことを考えたような気がする。
  左利き。子供の頃、隣に座っていた誰かに同じことを言われた気がする。男の子だ。学校で言われたのだろうか。幾度目かの転校で、すっかり気が滅入ってしまい、うつむいたままでノートに何か書いていたときかもしれない。書いていたのは、離ればなれになってしまった友達の名前、その兄弟の名前、近所にいた犬の名前、よく行った商店の屋号、そんな名前ばかりをただ書き続けていた。それが終わると、今度は思いつくかぎりの生き物の名前や花の名前を書いた。ショウリョウバッタ、オニヤンマ、ミヤマカラスアゲハ、カマドウマ、カマキリ、ゾウムシ…。ゾウムシなんて虫がいたかな。そう思うと同時に立ち葵の花が脳裏をよぎる。あの薄羽のような赤い花びら。
  ああ、花といえば、母である。自分で作り上げた花壇を見回して、「せっかくここまでにしたのに、転勤だなんて。お父さんだけ行ってくれないかしら」
  縁側に立ち、そんなことをぼやいていた。私は、そうだよそうしようよ、もう転校するのいやだもん…、そう言おうとしたけれど、言えなかった。近所の回覧板を持ったおばさんと長話が始まってしまったからだ。私は縁側で、友達になりかけたクラスメイトを思い浮かべて沈んでいた。確か、庭には立ち葵が背高く咲いていた気がする。そしてやっぱり、「ゾウムシ」という単語が記号のように頭の隅でじっと息を潜めていた。

 とりとめのない過去の記憶が次から次へ想起され、気づくと汗をびっしょりかいていた。タイマーにしていたエアコンはとっくに止まっていた。スイッチを入れると、シュイーと音がしたのを確認し、シャワーを浴びる。だんだん頭が冴えてくる。 
  深夜に仕事から帰り、カバンを置いたところまでは覚えている。確か帰りのタクシーのおじさんは、延々と息子の話をしていた。私は生返事や気のない相槌を打ちながら、その日の取材テープがちゃんと録音されているかをこっそり確認したのだ。
  バスルームから出て、冷えた部屋の隅に設えた椅子に腰掛ける。昨日の取材は小さなデイケアサービスの会社の所長さんだった。その五十くらいのおばさんは、自身の姑の介護でいかに苦労したか、またいかに奉仕が人を成長させるかなどを目に涙を溜めて切々と語り、そうかと思えば、社会福祉に対する行政の怠慢な姿勢や問題点を声高に批判したのだった。温度の違う話を延々と、思いつくままに話す人だった。ただでさえ骨の折れるテープ起こしの作業が、より面倒になる取材だった。
  テープを流しては書き取り、また巻き戻す作業を三十分くらい続けた時、ふと彼女の声の背後から、男性の声が聞こえた。スタッフが数人いたようだったから、そのうちの誰かの声だろう。聞き流すことは出来たが、なぜか気になって巻き戻した。音量を上げ、耳を近付ける。
  「…ああ彼処に移ったの。ダムのある…白樺の林道がきれいな。なんていったっけ病院の名前」
  白樺。病院。はっきりと聞き取れた。そして私はたぶんその病院の名を知っている。それなのに思い出すことが出来ない、不思議な感覚だった。

 翌日、原稿を編プロに送ると、五分もしないで連絡があった。
  「来週なんだけど、ちょっと飛んで欲しいとこがある」
  「どこですか」
  返ってきた地名は、ここからそう遠くはない隣接する県の山間部だった。
  「サナトリウムの取材。院長先生のインタビューも少し。詳しいことはまたファックスするから。じゃ」
  慌ただしく電話を切られ、私はベッドに倒れこんだ。
  私は、もうずっとこの仕事を請け負っている。インタビュー。そもそも人見知りをするうえに人嫌いな私には、客商売の次に縁のないはずの仕事だ。さして興味のない話を聞き、事前に想定した構成になるべく沿うよう話を引き出す。時折、相手の機嫌を損ねぬようお愛想も織りまぜながら、それでいて軽視されることのないよう、事前取材から得た知識をベースに適格な質問を最良のタイミングで入れる。興味を持とうとしない時点ですでに資格を逸しているのだが、周囲はそれと気づかない。
  もともと私はイラストレーターだった。とはいえ仕事は機関誌のちょっとした挿し絵や、知り合いがやっている小さな広告代理店からのチラシが主だった。それだけで食べていくのはきついからと始めたのが、インタビューや講演などを録音したテープ起こしだった。それがある日、急に人手が必要なったとき、適当なインタビュアーがおらず、たまたまそこにいた私が頼まれた。質問事項さえ漏らさなければなんとかなる軽い取材だと言われた。それでも私は緊張していて、何をどうしゃべったのか覚えていない。相手は確か、若いパティシエだった。必要なことだけを尋ね、淡々と答える。それを文字に起こして、記事を書くところまで担当することになった。
  「へぇ、けっこう盛り上がったみたいだね」
  原稿を読んだ社長はそう言ったが、実際は違っていた。文章になった段階で、インタビュアーは私ではなくなっていた。軸はあのパティシエの仕事への情熱であったけれど、その受け手である私は、文章のなかでは立派で世間慣れした、そつのないインタビュアーだった。
  先月、私は取材の対象者から言われた。
  「あなた、私に興味ないでしょ」
  「え、」
  「私に、というより、人に興味がないっていったらいいのかしら」
  バレた、と思った。
  しゃべると言ったら、同じアパートの住人に会ったときと、仕事関係の人との打ち合わせくらいで、その他はほとんど口を聞かない。そんなふうに過ごしていた私にとって、この仕事はリハビリのつもりで始めたのだが、私はちっとも変われていない。
  幼い頃から転校を繰り返してきた私にとって、人に興味を持つということは、やがてくる喪失感を増大させることでしかなかった。だから、興味を持たれないようにもしてきた。友情はまるで想像出来ない観念だ。もともと知らないことなのだから、欲するという気持も沸かない。だから親友と呼べる人もいない。幼馴染みもいない。いるのはただの知り合いだけだった。
  「きみは左利きなんだね」
  不意にまたあの記憶が蘇った。あれは誰だったろう。

 サナトリウムまでの道のりはちょっとした小旅行気分だった。知らない街の無人駅で降りた。カメラの電池の予備を買い、バスの時刻までを散策して過ごすことにした。
  商店がいくつか並ぶだけの通りに古い映画のリバイバル上映のポスターが出ている。映画館がどこにあるのかは分からないけれど、どこか知っている街を歩いているようで妙な心地だった。昔の映画に出て来るような古い喫茶店、その向こうは電器屋、空き地の向こうは乾物屋…。あまりにありふれた光景だからだろうか、まるで本当に昔ここに住んでいたような錯覚に陥る。空き地には立ち葵が群生していた。二メートル近くも伸びた茎に薄羽のような赤い花がらせんを描いている。
  「そしてその向こうは電器屋で、角を曲ると、カズくん…ち…」
  カズくんて誰だ。皮膚が粟立った。
  ひょっとして、本当にここで暮らしたことがあるのだろうか。しかし、その名前は記憶のどこを探しても見つからない。だけど、確かに知っている。光を見つめたあと、いくらその残像を追っても焦点が合わないもどかしさに似ていた。
  時計を見ると、バスの時刻が迫っていた。

 山道を入ると、白い白樺の林道に入ったとき、私は目眩がした。木漏れ日が、バスのなかにまでチラチラと揺れながら射している。そして、ダム入り口で停車する頃には、かつて自分は本当にここに来たことがあるのではないか、と思い始めていた。匂いだ。病院が近い。土の匂いと草いきれのなかに、かすかに消毒液の匂いがする。
  やがて大きなカーブを曲ると、広い門と円柱に似た白い建物が見えた。バス停は『白樺療養所』といった。
  門を入ると、そこは広い芝生と、ところどころに白樺が植えられた美しい庭が広がっている。白い円柱の建物がサナトリウムだ。その奥に淡いレンガ色の建物が見えた。
  案内された院長室はこじんまりとし、それと同じくらい院長本人も小さい人だった。てっきり男性だとばかり思っていたが、おばあさんだった。
  ひと通りのインタビューを終え、サナトリウムのなかをスタッフの女性に案内されながら、写真撮影を済ませる。リノリウムの床はきれいに磨かれている。窓の大きいサロン、談笑する人々、清潔な食堂と他目的ホール。
  「ここが、子供たちのための部屋です」
  女性はそう言って、廊下の一番東側の扉を大きく開いた。
  窓からの強い日射しで、一瞬目が眩む。ゆっくりとまぶたをあけると、そこは半分が図書室、もう半分は開けた空間だった。本を読む少年、ボールを蹴る幼児、ぬいぐるみで遊ぶ少女たちが一斉にこちらを見る。無邪気な顔を一つひとつ見回した。知り合いがいるわけでもないのに、なぜかそうせずにはいられなかった。
  「私、ここを知ってます」
  「はい?」
  彼女は首を傾げている。
  「この隣のレンガ色の建物、あれは『ツキヨノサト病院』ですよね。ここの併設の」
  いかにも、といった面持ちで頷く。私は言った。
  「私、もう一度、院長先生に会わなければなりません」

 私はかつてここにいた。どうして今まで思い出さなかったのだろう。たぶん小学校に上がる年くらいまでのことだと思う。
  ツキヨノサト病院に入院していた私は、隣のサナトリウムをクリームソーダと呼んでいた。芝生の緑に白い建物。いつもきれいに芝が刈られていて、人々が穏やかな表情でのんびりと過ごしていた。
  サナトリウムにはカズくんという年上の男の子がいた。何の病気だったかは分からないけれど、長期の療養所なのだから重いものだったに違いない。けれど、そういうことを理解するにはまだ私は幼すぎた。彼は病人ではなく、いろんなことを教えてくれる優しいおにいちゃんだった。
  いつも綿のズボンにチェックのシャツを着たカズくんは、時々サナトリウムを抜け出して、裏の森に行く。そうして、戻ってくると何かしらお土産をくれた。鬼胡桃、黒すぐり、ゆすらうめ。トンボの翅は絵本の栞にした。
  危ないからついてきちゃダメだよ。ひとしきり遊んだ後、そう言って森へ行くカズくんだったが、ある日、わたしは約束を破って後をつけた。あんなに素敵なものを一体どうやって手に入れるのかを知りたくて、がまんできなかったのだ。

 森の遊歩道からそれて、ずんずん入っていくカズくんを追い掛けるのは至難の技だった。時々立ち止まっては、木々を見上げたり、足元の何かを拾っている。私はそのたびに傍の木に隠れ、見守った。森の奥は、陽があまり射さないためかひんやりしていた。鳥が突然飛び立つ音や、不意に頭上から浴びせられる啼き声に、私は怖くなってきてしまった。引き返そうにも、道が分からない。半べそをかき、カズくんのほうを見ると、彼は背中を向けたまま肩を揺すっている。
  「もう、だから来ちゃだめだって言ったのにさ」
  振り返って笑ったカズくんの顔を見て、私は安心したからか泣き出してしまった。
  「泣きやまないと、面白いもの見せてあげないよ」
  彼が見せてくれたのは数々の昆虫だった。
  「見てごらん、ゴマダラカミキリ。黒い体に白い斑点がちょっと星空みたいだよね」
  手のなかを覗くと、それは本当に美しい虫だった。足の先がコバルトブルーで、チョウチョ以外にこんな鮮やかな昆虫がいるのだと、初めて知った。
  「つかまえると、頭と胸の間を伸び縮みさせて、キィキィ音を出しておどかすんだ。気が強いよね。…さ、放してやろう」
  カズくんが指を放すと、それは緑の奥に飛んでいった。
  「あ、こいつは一等かわいいやつなんだ」
  カズくんが指射す先の葉っぱに、何か黒いものがとまっている。
  「なあに、」
  そっと葉っぱを持ち上げて、その黒い虫を手の平に移した。すると、その虫は足を縮めてコロリと横になってしまった。
  「殺しちゃったの、」
  「大丈夫だよ」
  「なんか鳥のフンみたいだね」
  「はは、そうだね」
  「なんていう虫、」
  「もっと近くで見てごらん。口先が象の鼻みたいだろ。だからゾウムシっていうんだよ」
  「なんで動かないの、やっぱ死んじゃったんじゃないの、」
  「そうじゃないんだ、。こいつはね、少しでも危険だぞって感じると死んだフリするのさ」
  「へぇ…さっきのおどかす虫とは全然違うんだね」
  感心した私がそう言うと、カズくんはちょっと難しそうな顔をして、言った。
  「…でもさ、いやなことがあったらとりあえず死んだフリをしてみるんだ、僕。ジタバタしないで、そうしてると不思議と落ち着いてくるんだよ。ゾウムシはカミキリみたいにきれいじゃないし、咬みつかないし、気も弱いけど、賢いんだ」
  「死んだフリすんの、カズくんこわくないの、」
  しばらく考えたあとで、「全然へいき」と言ってカズくんは笑った。
  ひょっとしてこの日が、カズくんと遊んだ最後だったのかもしれない。彼は私にとって初めて出来た友達だった。色の白い細い少年だった。

 「覚えてますよ。一彦くんでしょう」
  院長は懐かしそうに、また私がかつて併設病院の入院患者だったと知って驚きながらそう言った。そして、彼があれからほんの数年でこの世を去ったことも、懐かしそうに告げた。まだ十三歳だった。私はどこかでそれを分っていたのかもしれない。驚かなかった。
  「昆虫が大好きでしたねぇ、あの子は」
  「カズくんの家って、駅の方でしたよね。近いのにどうして入院を」
  院長はちょっと間をおき、「ああ、あそこはお祖母様のおうちですよ。…あらっ」と慌てて、さっき渡した名刺を取り出した。
  「松田美奈さん…あなた、あのみぃちゃんだったのね!」
  「えっ、私をご存知なんですか、」
  院長はまじまじと私の顔を覗き込み、目を細めた。
  「覚えてますよ。カズくんと一緒に遊ぶんだって言って聞かなくて、外泊許可が下りた一彦くんといっしょにお祖母様のお宅へ行っちゃったんだもの、みぃちゃんは」
 
  そうだ。あの日、カズくんと一緒に寝転んだお祖母さんの家の縁側からは、真夏の赤い立ち葵が見えた。私は画用紙にカズくんの見せてくれた虫の絵を描いていた。それを見て、カズくんは言ったんだ。
  「あれ、みぃちゃん、きみは左利きなんだね」
  「うん、お母さんは直しなさいって。でも直せない」
  「器用だね。とっても上手に描けてるから、直さなくてもいいよ」
  「上手? 直さなくてもいいの、左利き」
  「みぃちゃんはそのまんまでいいじゃないか」
 
  あの夢も、テープに紛れ込んだ声も、この仕事も、カズくんの仕業なのだろうか。院長と並んで白樺の庭を眺める。芝生のうえで、笑い転げる女の子と少年が見えた。
  遠くで蝉の声がする。

 
air BE-PALに戻る