第15話
マボロヨ池のカルガモ
中元彩紀子 |
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「ああ…そうだよ。この森は不思議なことだらけさ。昔は化けるといやあタヌキだったけど、ここいらじゃあなんでもありだ。蛇だとか鳥だとか昆虫だって、用心するに越したこたないよ。そういえば、森の奥にマボロヨ池ってのがあるって聞いたことがあるなぁ。なんでも、酔狂な神さんがいて、気紛れに願いを叶えてくれるとか、かと思えばおどかしたりするんだとよ。まあ、あんたも気をつけなよね」
職場である療養所は森に囲まれている。舗装された車道沿いには白樺の木々が夏の日射しを透かして揺れている。車道を越えて、森のなかへ入ると細い小さな道があり、時々療養所から抜け出して遊びに来てしまう子供がいる。彼らを探して呼び戻すのも仕事のうちだった。そういう比較的元気な子供のうちのひとりであるナツキ君がこっそり教えてくれたのは、森の奥にある小さな池の存在だ。
「ダムなら知ってるけど」
「違うよ。ダムのことじゃない。池なんだ。秘密の小路のずっと奥」
院長先生から叱られたばかりだというのに、ナツキ君は得意げに鼻を膨らませる。
「危ないじゃないの、池なんて。落ちたらどうするの。助けを呼んだって聞こえやしないよ」
するとナツキ君はつまらなそうな顔をして、「もっと気のきいたこと言えないの、おねえさん」と言う。むっとしていると、彼は表情をくるりと変え、何か企むように口の端を上げた。
「その池はさ、見える人にしか見えないんだ」
療養所の子供達は往々にして想像力が逞しい。普通の子供たちのように学校へ通えない寂しさからなのかどうかは分からないが。こういう場合、私たちはその想像の世界につきあうことにしている。
「どういうことなの、」
「嘘だと思ってるね」
勘のいいのもまたここの子供達の特徴だった。
「そんなことないよ。教えてよ」
今度は見透かされないように真剣な顔で聞く。
「絶対言わないって約束できるなら教えてもいい」
私が頷くと、彼は辺りをきょろきょろと見回して、ひと気のない隅のベンチへ手招きした。
「その池はマボロヨ池っていうんだ。そこには、主がいるんだよ。その主が、こいつは、と思った人間にだけ見える池なわけ」
「主ってどんな人なの、」
「人とは限らないよ。鳥だったり虫だったりさ。人によって見え方はいろいろ。だけど、ルールは決まってる」
「ルール、」
「そう、ルール。絶対に嘘ついちゃだめなんだ。主は嘘つくとすぐに見抜いちゃうからね。嘘ついたら、もう二度と主には会えないんだ。池は見つかっても、主は現れないんだって。でも、嘘をつかないでいると、主は願いごとを一つだけ叶えてくれるんだ」
「それは神様なのかしら。だとしたら一つだけなんてケチな神様ね」
するとナツキ君は呆れたような顔をして、私を見た。
「あのね、おねえさん。一つに絞るからこそ、自分にとって本当に大事なものが分かるってもんじゃないの、」
子供だと思ってうっかり軽口を叩くと、こういう鋭い言葉が返ってくるから侮れない。
「本当に聞く気あんの、」
「あるある。ちゃんと聞くから。…で、ナツキ君はその池はもう見つけたわけ、」
彼の目がくるりと動く。
「うん、まあね」
「願いごと、聞いてもらえたの、」
「それはまだ。だけど、ダメかもな」
とたんに顔が曇る。
「どうしてよ」
「今日さ、僕うっかり嘘ついちゃったんだ。牛乳なんかもう平気で飲めるって言っちゃったんだよね」
「あれれ。残念だね。でも、飲めるようになってから、もういっぺん言ってみたら案外出て来てくれるかもよ。神様もそんなに心狭くないでしょ」
そう言い終わらないうちに、彼は「慰めはいいよ。もう諦めた」とため息を吐くもんだから、こちらはかなわない。
「何池だっけ」
「マボロヨ池だよ」
「見える人にしか見えない池ねぇ」
「そう。主に嘘はいけない」
「秘密の小路の奥の奥だっけ」
「うん。お願いしてお給料上げてもらえば、」
「大きなお世話。でも、なんであたしに教えてくれたの、」
ナツキ君は少し考えてから言った。
「だって、おねえさん、いつも僕のこと探しにきてくれるしさ」
森の療養所から歩いて数分のところに、寮がある。近代的な療養所とは違って、白いペンキがはげた古臭いモルタルの建物だった。タヌキが化けて出ると言われれば、信じてしまいそうな佇まい。賃料が安いだけのことはある。
駅前の単身者用マンションにでも住めば良かった、と後悔したのは入居してすぐのことだった。共用スペースの使用ルールとか、その他の注意事項を聞き終えた時だった。
「あ、あとね、たまに蛇様が出るけど、殺しちゃいかんよ」
こともなげにあっさりと管理人のおばさんは言った。蛇、と聞いてこちらはすくみ上がったけれど、彼女はなんでもないというふうに手を振り、「ここの蛇様は死に神だけど、うちらには何もせんから」と言った。なんでも、昔から住んでいるというその蛇が出ると、療養所で死者が出るらしい。
「死に神、ですか」
「そ、死に神。だけど、蛇様は苦しまないように逝かせてくれるんだから」
きょろきょろと床や庭に目をやる私を、彼女は可笑しそうに見ていた。
「あんた、そのくらいで怖がってるようじゃあ、先がおもいやられるね」
「他にも何か、」
彼女は少し肩をすくめて、「いや、だいじょぶ。怖いもんはないない」と言っただけで背中を向けた。その後ろ姿は田舎のウシガエルを思わせた。
彼女とは引っ越し当日にこんな会話を交わしただけで、それ以来顔を見ない。時折、階下の管理人室から物音が聞こえるくらいだ。
夜勤明けの午後、部屋でうとうとしていると、ドアをノックする音がした。隣室の人かと思って、ドアを開けると、そこに立っていたのは管理人のおばさんだった。
「ゴミの出し方変わったの知ってる、あんた」
それなら数日前に回覧で見て知っている。そう伝えると、彼女は、「あ、そ」と短く頷いた。
「他に、なんか聞いとくことないかい、」
「いえ、特には…」
おばさんがつまらなそうな顔をして、ドアを閉めようとした時、ふとナツキ君の言っていたことを思い出して呼び止めた。
「森の奥にある池ってご存知ですか、」
すると、とたんにおばさんの目の色が変わる。こういう話が好きなのだろう。嬉しそうに手を揉んでいる。
「マボロヨ池のことだね。あんたよく知ってるねぇ。誰に聞いたか知らないけど、やたらに探さない方がいいよ。あそこの神さんは、気紛れなくせにいたずら好きらしいからね。だけど、願い事を叶えてくれるってんだから、いっぺんは拝みたいもんだけどねぇ。…あんた池を見たのかい、」
「いえ。でも、ほんとにあるんですか、そんな池」
「さあ、どうだかねぇ。…昔、あすこで神さんに嘘ついたら尻っぺたを思いきりつねられたって言ってた人がいたねぇ。かと思えば、おかげで縁談が決まったって人もいたらしいしねぇ」
ちらりとこちらを見る目が笑う。止めてるのか行かせたいのか、どっちなのだ。適当に話を切り上げてドアを閉めると、私は顔を洗い、身支度を整えた。
森の入り口は夕刻近くなっても案外明るかった。
ナツキ君が言っていた小路はすぐに分った。通り道とはいえないほどに細い細い筋だった。先へ進むほどに空気はひんやりとする。それに欅が生茂っているせいか、だんだん暗くなってくる。
見えたり見えなかったりする池。現れるたびに姿を変える神様。そんなものを半ば信じてここに来ている自分と、疑いながらも少し怯えている自分がおかしくて、自嘲の笑みが浮かぶ。
数分歩いたところで、先にキラキラと光が見えた。水に反射した陽光だ。一瞬足が竦んだが、そのまま進んだ。茂った雑草や枝を分け入って進むと、見えてきたのはやはり池だった。
「マボロヨ池…」
茂みを抜け、池の畔まで来て辺りを見まわしたとたん、一気に力が抜ける。何せ、そこにはのんびり釣り糸を垂れる先客がいたのだ。
オレンジ色の長靴を履き、茶色のシャツを着たおじさんが、黄色い釣り竿を持って石に腰掛けている。
なんだ、ただの普通の池じゃないか。だが、よく考えてみれば当たり前だ。苦笑しつつ踵を返すと、不意に声をかけられた。
「あれ。よくこんなとこまで来たねえっ」
おじさんだった。
「なんでまた、あんたみたいな娘さんが。釣ってわけじゃあなさそうだなぁ」
「ええ、ちょっと…。何が釣れるんですか、」
まさか不思議な池を探しに来たなどと言うわけにはいかず、適当にはぐらかした。するとおじさんは、垂れた釣り糸をぼんやりと見下ろしてつぶやいた。
「さあねえ、何が釣れるんだか。釣れたらどうするんだか。それを釣りながら考えてるわけよ」
妙な返答に困惑していると、おじさんはさらに続けた。
「鯉が釣れれば浮き世は楽し、亀が釣れれば縁起よし、蛇が釣れたら罰当たり。でもなぁ、何が釣れるかよりも、何を釣りたいかってことなんだよなぁ。へっへっへ」
ひょっとしたら少しおかしい人なのかもしれない、と思ったとたん、ここが森の奥であることを思い出して血の気がひいた。
足早にそこを立ち去ろうと背を向けた。その瞬間に聞こえたおじさんの言葉に、私は耳を疑った。
「マボロヨ池を探しにきたのかな」
振り向くと、おじさんが立ち上がって笑っていた。固まったまま、ただ黙って頷くと、彼は吹き出すように大笑いした。
「いやあ、笑って悪かったね。大人が探しにくるなんて、ずいぶん聞かない話だもんで。おとぎ話は子供の領分だと思ってたもんでねぇ」
私はむっとしながらも、ナツキ君の話をした。おじさんは、にこにこしながら聞いている。
「さて、その坊主は何をお願いしたかったんだろうねぇ」
「さあ…」
「あんたは、その坊主の話を信じたってわけだ」
「いえ、最初は作り話だと思いましたよ。だけど、その子がとても真剣で、私にだけ教えてくれたんです。信じない方が人非人って感じがするわ」
「で、あんたがその神さんに願うとするなら、一体何を願う」
私はしばらく考えてから答えた。
「もう一度、ナツキ君にチャンスを与えて下さい、かな」
なるほどね、と膝を叩き、おじさんは立ち上がった。オレンジ色の長靴に陽の光が反射して眩しかった。
「じゃあ、神さんに会ったら伝えておくよ。もう暗くなるから帰んな」
笑いながらそう言い、おじさんも帰り支度を始めた。
「あんたにひとつ言っておくがね、この森には昔っからいたずら好きな連中がいるから気をつけるんだよ。だけど、ひどい悪さはしないから、悪く思わないでやっとくれね」
翌日、私は再びナツキ君とベンチに腰掛けていた。このところ、森へ行かないせいか元気がない。
「池はあったんだけどねぇ、マボロヨ池じゃあなかったみたい」
「なんで本物見たことないのに、違うって分ったの。その池、どこらへんにあったの」
「あそこは子供にはちょっと遠いかもな。釣してるおじさんがいてさ、話したら笑われちゃった。…大人には見えないんだね、きっと」
ナツキ君の「そうかぁ」という残念そうなつぶやきに、なんだか申し訳なくなってしまった。
「でも、また探してみるよ。白鳥とか、きれいな蝶の姿で現れてくれると嬉しいな。ナツキ君の時は、池の主はどんな姿で見えたの、」
「カルガモ」
「カルガモってどんな鳥だっけ」
「知らないの? けっこう地味な鳥だけど、子連れで引っ越しするところテレビで毎年やるじゃん。茶色い体で、嘴の先が黄色くって、足はオレンジ色」
「へえ…」
茶色に黄色にオレンジ色…。茶色に黄色に、オレンジ色の長靴!
「おねえさん、なに、急に笑ってんの」
笑いが止まらない。白鳥どころか、おじさんだった。しかも長靴を履いた。
「ナツキ君、約束する。明日、もう一度、池まで行ってごらん。そのカルガモにきっとまた会えるから」
不思議がるナツキ君を部屋まで送り、私は寮の管理人室のドアをノックした。おばさんに事の顛末を聞かせたら、どんな顔をするだろう。
「はいよ」
顔を出したのは見たことのない初老の男性だった。
「あの、管理人さんは…」
「管理人は俺だけども、」
「じゃあ、あの奥さまはいらっしゃいますか」
「女房なんていないよ。俺、ひとり」
「え、」
聞けば、寮の管理人は通いでやってくる彼一人。他の部屋の住人は、皆顔を知っている。では、あのおばさんは誰だったというのか。太ったウシガエルに似たおしゃべりなあのおばさんは。混乱しながら説明すると、おじさんはあくびをしながらこう言った。
「それじゃ、たぶんウシガエルだったんだろ」
「はい?」
「だから、ウシガエルにからかわれたんだよ、あんた」
「カエルに、私が、からかわれた、」
「ああ…そうだよ。この森は不思議なことだらけさ。昔は化けるといやあタヌキだったけど、ここいらじゃあなんでもありだ。蛇だとか鳥だとか昆虫だって、用心するに越したこたないよ。そういえば、森の奥にマボロヨ池ってのがあるって聞いたことがあるなぁ。なんでも、酔狂な神さんがいて、気紛れに願いを叶えてくれるとか、かと思えばおどかしたりするんだとよ。まあ、あんたも気をつけなよね……」
にんまりと笑う管理人。
明日またここをノックしても、彼が顔を出すとはかぎらない。
「まあ、細かいことを気にしてちゃあ、ここでは暮らしていけないよ」
私は参ったな、と頭を掻くしかないのだった。 |