第17話
カエルの贈り物
中元彩紀子 |
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タカシが寝息を立てて寝ている。日盛りは過ぎても外はまだ蝉の鳴き声が盛んだ。座敷きに敷いた小さな布団の上で、タカシの丸いお腹が緩やかに上下している。額の汗に柔らかな前髪がくっついて、おかしな形を描いていた。私は、パーマのあて過ぎで傷んだ自分の毛先をさわりながら、ちいさくため息をついた。
「子供とふたりってのはねぇ。もう帰っておいでよ。タカちゃんだってその方がいいだろう。あんたも少しは余裕ができるんだし。子供の環境を考えてやるのは親の務めですよ」
叔母にそう諭されたのは花火大会から帰ってきた日のことだ。
あちらさんにももう十分、義理は立ったろう。電話を切る直前に言った叔母の言葉があれからずっと頭を巡っている。
「義理ってなによ」
そうひとりごちたとき、タカシが目を覚ました。
「起きちゃったのね」
目を擦りながら頷く。脇腹をくすぐると、ケタケタと笑った。盛り上がった頬をつつくと、タカシの小さな指が私の顔に向かって伸びてくる。
「あ、タカちゃん、爪切らないと」
「やだ」
やだじゃないでしょ。やだ。そしてまたくすぐっては笑い合う。
二人でこうしてケタケタ笑って過ごせれば、それで私は十分なのに。
夫の三回忌法要のとき、義母は珊瑚の数珠を両手で揉みながら言った。
「里美さん、今年で三十だったかしらね」
頷いた私の目をまっすぐに見て、早いわねぇ、とつぶやいた。
「まだ人生あきらめるには早いわ」
夫の兄嫁が息子たちと戯れる声が、遠くから聞こえる。振り返ると、額のなかで夫が笑っていた。
あなたまで何よ…。そう思った。
園田の家から籍を抜けば、名前は旧姓に戻る。タカシが幼稚園に上がる前になんとかしなさい、と父は言った。おおかた、園田の家とは話がついているのだろう。法要の帰りに、父が義母と何か話し込んでいるのを見た。
自分の知らないところで、何もかもが決められてゆくのを、私はただ黙って眺めていた。誰もかれもが腫れ物に触るように私を取り囲み、投げかけられるのは、すでに用意された言葉ばかりだった。
「あのね、里美」
母が電話口で何かしゃべっている。
「聞いてるの、」
「聞いてるわよ」
「だからね、幼稚園に通わせるのなら、うちから通ったらいいじゃないの。二人で生活しながらじゃ、お金なんてあっという間でしょうに」
適当に相槌を打つ私に、母は深いため息をついた。
「保育園へ入れて、あなたが働くっていうのなら分かるけど、いくら孝彦さんと決めたことだからって、もう前とは事情が違うのよ。どうしても幼稚園がいいのなら、こっちへ帰ってきなさい」
夫の死後も、私はそれまで暮らしていた夫の実家近くのアパートから出ようとはしなかった。夫の実家には、義兄の息子が二人いる。義母も義兄たちもみな、私が顔を出すと、それなりに優しく応対してくれたが、年を追うごとに成長するタカシに亡くなった身内の面影を見るのがつらそうだった。
まだ若いのだから籍を戻してもう一度生き直せ。跡継ぎはいるのだし、遠慮はするな。最初にそう言ったのは義兄だった。皆が私とタカシの事を考えている。本当なら感謝すべきことなのは分っていても、私は勝手にどんどん進んでしまう時間についていくことが出来なかった。当たり前の時間に戻ろうとする人達のなかで、私は彼らのしゃべる言葉をぼんやりと聞くだけで精一杯だった。平たんなはずの道を彼らは汗ふきながら懸命に歩き、私はとうに諦め立ち止まり、軽やかに歩を進めているのはタカシだけだった。
夫は、仕事が終わると、会社の近くのペットショップへ寄るのが習慣だった。アパートでは犬猫は飼えないから、という理由で、夫がたまに買ってくるのは金魚やヤドカリだった。
「こんなのさ、昔はそこの川にけっこういたんだ」
そういって見せてくれたのは真っ黒くてお腹だけが赤いイモリだった。お腹の感触が気持いいのだと言っていたが、私はもっぱら餌をやるくらいで、触ることはなかった。
あの日、夫は電話で「いいものが手に入ったんだ」と言っていた。どうせまた生き物でしょ、と言うと彼はくすっと笑って、電話を切った。
そして夜、私は病院で血のついた夫のシャツを手に途方に暮れていた。うちと目と鼻の先、国道での単独事故だった。遠くで、義母の啜り泣く声がしていたように思う。渡された彼の持ち物の中に、蓋に小さな穴のあいたプラスチックケースが紛れていた。看護士に中身を問いただすと、さあ、と首を傾げるだけだった。公衆電話はどこですか、と尋ねる私を、彼女はいたわるような目で見つめた。
「ああ、カエルですよ」
ペットショップの店員は眠そうな声で答えた。
「カエル」
反復した自分の声が廊下に響く。義兄たちが振り返って、訝しそうにこちらを見ていた。
「あの人、カエルごといなくなっちゃった」
後のことは覚えていない。
葬儀や様々な後処理は義兄に頼りきりだった。私はそれまでの日々と同じように、タカシの世話をし、タカシと一緒に昼寝をし、そして時々少し泣いた。生活のほとんどをふわふわと夢のなかを歩くように茫洋と過ごした。夫の実家に呼ばれて食事をとっているとき、外で車の音がすると、うっかり腰を上げそうになる。ダイニングのテレビでは、難破して無事に救助された漁船の船長がインタビューされる様子が映っていた。そのときから、私は夫が漁師で、今は遠洋漁業に出ているのだ、と思うことにした。そうすると、不思議なもので、テレビの画面に大海原などが映るたびに、「ああ、あの人は今頃どこで何を釣っているかしら」などと自然に思え、網を引き上げる、陽に灼けた力強い夫の腕がありありと想像できた。
友達にでも会ってたまにはのんびりしなさい、という母にタカシを預けた帰り道。いつもなら駅から真直ぐアパートへ向かうところを、迂回して帰ることにした。本屋にでも寄って、何か買って帰ろう。タカシのいない夜はきっと長いに決まっている。
目抜き通りを抜けると、川が見えてくる。今はどぶ川だけれど、昔はイモリやゲンゴロウがいたのだと、夫はいつか言っていた。そんなことを思い出しながら川沿いを歩く。虫の聲に気づいた。昼間はあんなに暑いのに、夜になるともう秋の気配に満ちている。西の空に薄暮の光が消えたとき、涼しい風が吹いた。まとめた髪を下ろし、頭をふりながら歩いてゆく先に、青いネオンが見えた。あんなところに店があったろうか。
近くまで来て、それが熱帯魚ショップだと分った。蛍光灯の灯りが、道をぼぅっと照らしている。店の外には、ガラスケースや流木が積み上げられていた。店のなかを覗いたが、人の気配はなく、小さい魚がそれぞれの水槽のなかでたゆたっているだけだった。
扉を開け、なかに入る。モーターの音がジーっと鳴るだけでBGMは聞こえない。押し黙って泳ぐ魚たちを眺めながら細い通路をゆっくりと進む。奥の水槽には大きな魚が一匹、泳いでいた。ウロコの大きなピンク色の魚だった。値札にはおよそ魚の値段とは思えないような高額な数字が書き込まれていた。悠然と泳ぐ様をじっと見ていると、ガラス越しの背後に人影が映った。驚いて振り返ろうとした瞬間、その人物は私の隣に立っていた。
「すごいでしょ」
「…え、ええ。高いんですね」
「値段じゃないよ。きれいでしょ」
「あぁ、すいません。なんて魚ですか、」
「アロワナ。ドラゴンフィッシュ、ともいうよね。もっと成長するよ。こんなもんじゃない」
私の顔も見ず、その人は満足そうにアロワナを眺めている。年は私より少し上くらいだろうか。顎髭がなければ、もっと若い感じにも見てとれる。
「今セール中なんだ。三割り引きでどう、」
苦笑しながら首を振ると、彼が残念そうに頭のニット帽に手を当てた。
「だよなぁ。あんた、金持ちには見えないし」
そう言って、彼は口笛を吹きながら床を掃除し始めた。
「アロワナって何を食べるんですか、」
相変わらず、私の方は見ずに彼は答える。
「人工飼料、金魚、ときたまカエル」
「カエル、」
「ああ、餌用の安いのが入ってきたらね」
ふぅん、と感心しながらアロワナを眺めていると、どこからか刺すような視線を感じた。何だろうと思い、辺りを見回すと、水槽の横に小さなケースが置いてあるのに気づいた。水は入っていない。腰を屈めて覗き込むと、そこには緑色のカエルが一匹、かしこまった様子でこちらを見上げていた。
「これも餌ですか、」
振り返った彼は、私の指差したケースを一目みるや、笑いながら首を振る。
「違う違う。そいつはちょっと大きすぎるよ」
あの日、夫が買ったというカエルも、こんな顔をしていたのだろうか。目がくりっとして、こころなしか口元はニッコリと笑っているように見える。
「なに、カエル好きなの」
「いえ、そういうわけじゃ。でもかわいいですね」
すると、彼は初めて私と目を合わせた。
「これさ、交番から預かってたんだけど、持ち主が現れなくてさ。もう二年もいるんだよ。日本のカエルじゃないから、誰かが飼ってたやつなんだろうな。ひでえことするよな。鼻擦れしてるからって捨てたんだぜ、きっと」
よくみると、鼻先がうっすらと桃色になっている。
「もうだいぶ治ったんだ。…あんた、良かったら連れてってよ」
「え、でも」
「頼むよ、こいつ大食漢だから困るんだ」
「何食べるんですか、」
「虫。うちじゃコオロギ。生きたやつじゃなきゃダメだけど、箸でつまんで揺らせば死んでても飛びつくね」
これサービスしとくからさ、と言いながら彼は、餌のコオロギを袋に詰め始めた。
「おまえ、良かったなぁ。下手すりゃ車にひかれるところだったのに、捨てる神ありゃなんとかだな」
一瞬、皮膚が粟立った。
「車にひかれるって、」
「ああ、こいつ、国道のそばの植え込みにいたらしいんだ」
本棚の上に置いたケースのなかで、カエルはおとなしく眠っている。私は、そっとそれをテーブルの上に移動させ、じっと眺める。
「あなたが、あの日のカエルさんだったらいいのになぁ」
店ではまんまるだった目が今は細い線になっていた。前脚の上に顎をのせ、やっぱり微笑んでいる。その愛らしい様をじっと見ていると、私まで眠くなってきた。音を小さくしたテレビの画面がゆらりと揺れる。
〈だいぶかかっちゃったよ〉
その声を聞いたのは夢のなかだったろうか。
おじさんをね、一目見たときから決めてたんだ。この人についてこうって。いつも魚とかクワガタばっかり見てるから、なかなか気づいてくれなかったんだけど、あの日はね、お店のセールだったんだよね。だからおじさん財布のヒモが弛んだんだ。最後のチャンスかもしれないから、ボクは必死にアピールしたよ。じぃっと見てたら、目が合った。おじさん、ボクと値段を見比べて、腕組みを始めた。寄り目になるくらい顔を近付けていつまでも見てるから、ボクは飽きてきちゃって、うっかり大きなアクビをしちゃった。そしたら、おじさんクスクス笑い始めて、店の人を呼んで言ったんだ。「これ下さい」。
ボクは嬉しくなっちゃって、飛び跳ねたよ。おじさんは、ボクの入ったケースをダッシュボードの上に置いてくれた。車から景色を見るのは初めてだったからすごく楽しかった。
ボクはおじさんの心とずっと話をしてたんだ。おじさんは、奥さんと坊やの話をしてくれたよ。奥さんは、いつもおじさんが生き物を連れて帰るたびに呆れた顔をするって。だけど、おじさんの留守にはちゃんと世話をしてくれて、名前もつけてくれるんだって。あれはまんざらでもないんだよなぁ、っておじさん笑ってた。ボクはどんな名前になるのか、わくわくしたよ。でも、坊やは何でも口に入れちゃうから食べられないように気をつけろって。
おじさんは奥さんと坊やが大好きなんだね。信号で止まるたびに、ボクを手にとって「きっと喜ぶぞ」って言ってた。ボクはもっとわくわくしたよ。
その時だった。車の前を猫が横切ったんだ。猫は天敵だからね、ボクは身を縮めた。その瞬間、おっきな音がして、ボクは宙に浮かんだ。びっくりしたよ。おじさんは寝てるみたいだった。ボクは、おじさんの顔の上に着地して、一生懸命起こしたんだ。そしたら、おじさんは目を開けて辺りをきょろきょろ見回してため息をついた。車を降りて、さっきの猫を歩道に見つけると、今度はとほほ顔をしたんだ。
それからしばらく考え事をしてたみたいだった。真剣な顔をしてた。そしたらね、急に「よしッ」って言って、車の屋根に上ったかと思ったら、一度やってみたかったんだよなって言いながら、ぽんぽん飛び跳ねたんだ。ボクも一緒に飛び跳ねた。楽しかったよ。
いっぱい遊んで疲れちゃったから、ボクは車のなかに戻った。まだ寝たままの方のおじさんの肩の上で休んでたんだ。すると、おじさんは僕にこう言った。
「僕の奥さんに伝えておくれよ。僕はちっとも苦しくなかったよって。それとね、キミたちが強く元気に生きて、幸せになるのが僕の一番の願いだよって」
ボクが「分った」って言ったら、おじさんはにこっと笑ったんだ。そしてどんどん上に上がってったんだ。ボクが、もう遊べないのーっって叫んだら、いつか必ずまた会えるよって答えが返ってきた。ボクは早く伝えなきゃと思って、歩道に飛び出したんだよね。そしたらさっきの猫はくるわ、人は大勢くるわで、そばにあった木の影に隠れてたんだ。それからすぐに、人につかまってたらい回し。鼻は擦りむいちゃうし、疲れちゃったよ。
でも、あの店でおばさんを見たときはすぐに分ったんだ。おじさんとの約束、やっと果たせるよ。
遅くなっちゃって、ごめんね。
自分がいつから目覚めていたのか思い出せない。気づくと外はもう朝になっていた。頬を乗せていた腕が涙で湿っている。目の前のカエルは、まだぐっすり眠っていた。
「ホントにあなただったの、」
そう声をかけた時、開け放した窓から風が吹き、カーテンがゆっくりと大きく膨らんだ。
受話器を上げ、実家の母に電話する。
籍を抜き、タカシを保育園に入れ、働きに出る。引っ越しもしようと思う。そう告げると、母は何度も、それでいいの、と聞いた。
「いいの。自分で決めたの。強く生きていかないと、彼に叱られそう」
驚いた母が、そばにいるらしい父に何か言っている。
「里美、ほんとに大丈夫なのか、」父の声が聞こえる。
私はひと呼吸おいて、言った。
「私ね、これで案外幸せ者なのよ。夕方、タカシ迎えに行くわね」
振り向くと、カエルがこちらを見上げていた。
「あなたの名前は、そうね。にっこり笑ってるからニコちゃんね」
ニコは気に入ったのか、大きなアクビをひとつして、ケースのなかで飛び跳ねた。 |