第18話
月子の月下美人
中元彩紀子 |
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店のシャッターを閉めようと表へ出ると、小雨が降っていた。出したままの空の水槽に雫が垂れている。そいつを庇の下へ移動して拭いていると、店の中から電話が鳴る音がした。部屋の電話の子機の音だ。おおかた叔母だろう。独りになってもう大分たつというのに、彼女は週に一度電話をかけてきては僕の近況を聞きたがる。心配だ、とは言わないが、どうでもいい世間話の合間に「それはそうと、最近はどうなの。手は足りてるの」と、用意していたせりふを判で押したように言う。「別に、どうということもないよ。快適だね」。そんな会話がなされるのは、なぜか決まって雨の夜だった。
いつか叔母は言っていた。
「雨っていうのはね、時間を止めるのよ。そういうとき人は決まって、面倒なことを考えたりするものなの」
面倒なことを考える時期などとうに過ぎた。
「麻衣子さん、どうしてるかしらねぇ」
甥を案じる叔母の声は、年を追うごとに死んだ母に似てくる。
鳴り続ける電話に幾分うんざりしながら、子機を持ち上げ耳に当てると、それはすでに無機質な電子音に変わっていた。心配して、飛んでこられたらかなわない。すぐに、折り返しの電話をかける。だいぶコールしてから、叔母が出た。
「電話? かけてないわよ。お客さんじゃないの」
「いや、店の電話じゃなくてうちの電話の方。…かけてないならいいんだ、じゃ」
何か言おうとする叔母を遮って、僕は受話器を置いた。
奇妙な電話がかかるようになったのは、この日からだ。ちょうど月子の命日だった。
月子は新月の夜に生まれた。
保育器の中で、たくさんのチューブに繋がれた月子は、まるでほぐれた毛糸玉のように見えた。指を差し入れると、彼女は僕の小指を力強くつかんだ。そして、心室に異常があると告げる医師の苦悩に満ちた表情とは裏腹に、月子の胸は確実に鼓動を打っていた。月子が小さくリズムを刻む。僕はそれに合わせて指を鳴らす。スウィングする二人のリズムに、近くを通る看護婦が悲しく微笑みかける。
麻衣子はただ黙って医師の話を聞いていた。医師が出て行った後も、彼女は何も言わなかった。
「毎日、僕らは親子セッションしてるんだ」
麻衣子はゆっくりとこちらを見る。
「彼女、なかなかの音楽センスだよ。思いもよらないところで、シンコペーションが入ったりするんだ」
麻衣子は黙ったままだった。
どうしてそんな悲しい顔をする。僕らの娘には、音楽の才能があるかもしれないんだぜ。
麻衣子は僕の目をじっと見つめ、そして目を閉じた。九月の蝉時雨が遠くに聞こえていた。
僕と月子のセッションは、たった一週間で終わってしまった。幾年も待ってやっと会えたわが子だのに、それこそ蝉のように逝ってしまった。
会話の途切れた瞬間、部屋のそこここ、匂いや音のすべてに、僕らは月子を見つけた。たった七日間しか存在しなかった月子を夢だったと錯覚しないよう、二人は無言で確認し続けた。そして疲れてしまったのだと思う。
互いを思いやる方法を間違えたのだろうか。季節が一巡りする頃、僕らは一緒に役所へ出向き、届けを提出した。
「月子のことだけど…」
麻衣子がその名を口にするのは何ヶ月ぶりだろう。
「あの子、きっと生まれ変わるわ」
「そうだといいな」
役所の喫茶店で煮詰まったコーヒーを飲みながら、僕らは向かいあっていた。
「月子が生まれた日、うちの月下美人が咲いたんですって。ほら、準備やら何やらで、母が手伝いに来ててくれたでしょう。病院へ行こうとしたときにね、何か胸騒ぎがして、振り向いたらベランダで咲いてたんだって」
月下美人。その大きな鉢と一緒に麻衣子は僕のところにやってきたのだった。それもこの時はすでに、ベランダの隅にぽつんと置かれたままになっていた。
「月下美人はね、一年に一度、新月の夜に咲くと言われているの。たった一晩だけ、白くてとっても綺麗な花を咲かせるのよ。そして目に沁みるほどの香りを漂わせるの。儚い命を知ってるみたいに。…月子は、月下美人と一緒に生まれたのね」
僕は、僕らのマンションでひっそりと咲いた白い花を想像した。
「あの月下美人、株分けして持っていってもいい、」
「ああ、いいよ」
それから僕らはマンションへ戻り、月下美人の株を持って、麻衣子だけが出て行った。ドアが閉まるとき、彼女は振り返って言った。
「ねえ、いっちゃん。また咲くわよね」
僕は曖昧に頷くことしか出来なかった。
それから僕はマンションを引き払い、経営する熱帯魚ショップの二階に越してきた。一人暮しにはちょうどいい、六畳一間の狭いアパートだ。親父の遺した店で、一人熱帯魚たちとのんびり暮らす日々のなか、月下美人はずっと裏庭の隅に放っておいた。時折、目の端にそれが入ると、僕はいたたまれない気持になった。だから、冬だけは店のなかに入れた。
ある日、様子を見に訪ねてきた叔母が裏庭から僕を呼んだ。
「いっちゃん、これ月下美人じゃないの。なんでこんなとこに置いておくのよ。まだ咲くわよ、これ」
「もうだめだろ。ずっと放ってあるんだ」
「だって、新しい芽が出そうよ、ここ」
見ると、葉の根元にそれらしきものがのぞいている。
「月下美人はね、一年にいっぺんしか咲かないって言われてるけど、栄養素の蓄積と体力を回復させるゆとりが成長期に十分あれば、もう一度咲くのよ。案外、生命力強いんだから」
その時から僕が手入れを始めて一年が経った。
今年、月下美人は蕾みをつけている。咲くのだろうか。咲いたらどんな匂いがするのだろう。麻衣子のところのは、もう咲いているのだろうか。そう考えて、僕は麻衣子の顔も声ももう思い出せなくなっていることに気づいた。それだけの月日が経っていた。
電話が鳴る。出ると切れる。一度だけ、鳴った瞬間に出てみたのだけれど、聞こえてくるのはやっぱり無機質な電子音だった。
あの雨の日から一日おきに一回。もう一週間続いている。
月子の心臓の鼓動と僕の指打ちのリズムみたいだ。
店の灯りを消し、シャッターを閉め、魚たちに餌をやる。蛍光灯にぼうっと照らされた水槽がいくつも並び、そのなかを物言わぬ同居人たちが悠々と泳ぎ回る。時折、弱った固体が水面に浮いているのを見つけ、僕は網で救って処分する。あの頃は、その死が月子を連想させて、僕は浮いた魚の前にしゃがみこんでしまったものだ。今はもう淡々とこなす。日薬とはよくいったものだ、と思う。
〈こいつらも生まれ変わるのかな〉
そんなことをふと考えた時だった。
電話が鳴る。
出ると切れる。
僕はカレンダーに印をつけ、あることに気づく。新月まで、あと二日だ。
その日、ひさしぶりに叔母が店に顔を出した。どうせろくなものを食べてないだろうからと、筑前煮だの胡麻和えだのを持ってきてくれた。いいと言うのに、彼女はエプロンを取り出して、狭いキッチンに立ち、吸い物を拵えている。
食事を終え、二人でお茶を飲むだんになると会話も途切れがちになる。親戚連中の近況はいつもの電話でとうに知っているし、僕は「それ、もう聞いたよ」を何度も繰り返した。
「あ、じゃあこれも言ったっけ」
「なに、」
叔母は少し言い淀んだあと、「別にだからどうってわけじゃあないんだけどね」と前置きをしてから早口で言った。
「麻衣子さん、まだ一人なんだってよ」
僕は、返事に窮し、一瞬黙ってしまう。
「もう彼女も三十越えてるし、てっきり再婚したんだろうって思ってたんだけどね。…まだ、だめなのかねぇ」
それだけ言うと、叔母は立ち上がり、脱衣所へ入って行った。
「これだからやもめ暮らしは、まったく」
洗濯機のなかでも覗いたのだろう、ぶつぶつ言う声が聞こえる。
僕は洗い物をしながら考える。あれから麻衣子はどんなふうに暮らしていたのだろう。お互いを見れば、そこにはあるはずだった月子の影が二人を苦しめると分っていた。だから、子供を失った夫婦が乗り越えねばならない痛みを避け、僕らは関所の前で引き返し、別々の道をゆくことにしたのだった。だのに、結局僕らは別々の場所で、それぞれに慟哭の日々を過ごしていたのか。忘れていたはずの麻衣子の顔が、脳裏に浮かぶ。
「あの子、きっと生まれ変わるわ」
そう言ったときの彼女のきっぱりとした目を思い出した。
叔母は、洗濯物を干し掃除を済ませると帰り支度を始めた。コンビニ弁当で済ませるのはいい加減にしなさいだの、ゴミの分別くらいきちんとやれだの、いつもの小言をひと通り言い終えると、玄関で一言、
「あんたたちは、似てるわね」
そう言ってため息をついて階段を降りていった。
新月の夜だった。
今夜は開きそうにないな。蕾みは膨らんでいたけれど、まだ幾分堅いようだった。店で仕事をしていると、常連客の一人が金魚用の餌と水草を買いにきた。ひとしきり談笑し、お釣を受け取って帰ろうとした彼女が戸口のところで振り向く。
「なんか、いい匂いがしますね、ここ」
「へ?」
「気のせいかしら」
僕は首を傾げ、曖昧に笑った。
電話が鳴ったのはその直後だった。
子機を取りあげ、通話ボタンを押す。
すると、聞こえるはずの電子音が聞こえない。だのに、電話はまだ鳴っている。鳴っていたのは店の電話の方だった。僕は苦笑し、受話器を上げ店の名を告げる。相手は何も言わない。
「もしもし、」
──……──
「もしもし、」
──いっちゃん?──
麻衣子の声だった。
──いっちゃん、月子の花が咲いたの。やっと咲いたのよ。あれからずっと世話して、今夜咲いたのよ。真っ白で、綺麗よ──
後の方は涙声でよく聞き取れなかった。
僕は、慌てて裏庭に続く戸を開けた。
開けたとたん、強い芳香が鼻をついた。
そこには白い大きな花がひとつ、こちらを向いて咲いていた。
闇夜にぼんやりと浮かぶ白い美しい花。
月子の月下美人だった。
──いっちゃん、聞いてる?──
「ああ。うちのも、今咲いてる」
──あの子、きっとどこかにまた生まれたわね──
「ああ」
──今度はきっと元気よね──
「そうさ。今度は大丈夫だ」
もう言葉にならなかった。泣くのは久しぶりだった。
僕らはそのまま、静かに月子の花を眺めていた。
──ねえ、いっちゃん。うちに不思議な電話がかかるの──
「え…」
──あなたなの?──
僕は一日置きの奇妙な電話のことを説明した。それが、今日はかかってこないのだ、と。
──きっと月子だわ──
「僕もそうだと思うよ…」
闇夜の白い花が、心持ち頷くように揺れた。 |