air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第19話

金木犀

中元彩紀子

 窓辺においた鉢の底で金魚が二匹眠っている。時折、寝ぼけたように口を開ける。
  熱帯魚屋で彼らの餌を買ってきてから、鼻がむずむずする。店で嗅いだ強い花の匂いがまだ鼻の奥に残っているようだ。濃いめの紅茶を入れて飲む。誰かに聞いた紅茶の飲み方について思い出す。
  「紅茶をそんなに濃く入れるのは労働者階級の野卑な飲み方なんだってよ」
  野卑だろうがなんだろうが、濃い紅茶をこうして深夜に飲むのは、私の不眠症に対する、私なりの誠意と儀式なのだ。
  鼻の奥に残る花の匂いを消すように、アッサムの香りを吸い込む。
  「寝てないようで、実際は細かい睡眠をとってるものなんだよ。無意識にね」
  会社の同僚がそんなことを言っていた。そういうものだろうか。人にはよくぼんやりしていると指摘されるが、ひょっとしてそういうとき、私は眠っているのだろうか。自分では、いつでも覚醒しているようにしか思えないのだけれど。
  「ノリコ、」
  ふと誰かに呼ばれたような気がして顔を上げる。テレビだろうか。時計を見ると、紅茶を入れてから一時間経っていた。冷えた紅茶の表面に埃が少し浮いている。鉢の金魚たちは、まだ夢のなかにいるようだ。窓を開けると、ふんわりと金木犀の匂いがした。今年初めての秋の匂い。私にとっては母の匂いだ。母の枕の匂いだった。
 

 「不眠症になってから嗅覚が鋭くなったみたい」
  同僚はパスタの皿から顔を上げぬまま、上目遣いでこちらを見る。口をもごもごさせながら、へーそうなの、と興味のなさそうな返事をした。
  「もともと鼻炎気味だったから、正確には普通になっただけなのかも」
  「不眠症で鼻炎が治ったなんて話、聞いたことないけど」
  同僚は、蟹と海老のパスタを食べながら、クランベリージュースを飲んでいる。気持悪くないのかな。そう思いながら、私は紅茶を口に含む。色のついた湯のようで不味かった。
  「たとえばね、コンビニに入ったとき。さっきまで中学生がいたな、って分かるのよ。で、すかさず店の外に目を戻すと、部活帰りの男の子たちが集団で歩いてたりする」
  「やだ、汗臭いわけ」
  「あとは、雨が降る前の空気の匂い。さっきまで地下鉄に乗ってた人の背広の匂い」
  「なんか、いい匂いじゃないね。…でも、鼻が通るようになると食べ物が美味しくなるのよ」
  同僚が遠慮がちに言う。
  「大丈夫。最近、少しは食べるようになったし。今日は朝ちゃんと食べたから」
  「そう、ならいいけどさ。…今日、早びけなんでしょ。何処行くの、」
  「おばあちゃんのところ。週末顔出せなかったから、今日は行かないと」
 

 人と一緒に部屋で過ごすのは、母が亡くなって以来のことだった。
  二年前の秋、母は倒れ、そのまま息を引き取った。祖母はすでに痴呆の症状が出ていてホームで暮らしていたし、母は一人娘だったから私には叔父とか叔母とか従兄弟というものもいない。父はずっと前、幼稚園の頃に亡くなっていたから、私は実質的に天涯孤独の身となった。
  誰も頼れる人がいないという状況に気を張っていたからか、それとも気弱になっていたからか、出会ったばかりの男が部屋に住みつくのを私は半ば歓迎していた。天涯孤独になって一年が過ぎようとていた。
  一週間に一度も顔を出さない日もあれば、十日連続して泊まっていくこともあった。仕事はコンピューター関係の仕事だとは聞いていたが、実際のところは、それを作っているのかそれとも売っているのか、彼の説明ではよく分からなかった。田舎は東北だと言っていたけれど、南の方の方言がときどき混じる。ヒップホップが好きで、酔っぱらうと妙なステップを踏んでいた。
  「これはさ、敵対してるギャングをヤッちまったときに、こうやってそいつの血を踏んで道に文字を書いてるわけ。“平和に眠れ”みたいな意味のさ」
  アメリカのギャング達の話を得意げに話すのだけれど、私にはちんぷんかんぷんだった。彼もまた本当のところは分っていなかったに違いない。背景にはどんな思想があるの、と尋ねたら、めんどくさそうな顔をして、なんだか辻褄の合わないことをしゃべっていた。
  「まあ、俺はピースフルな部類だから」
  そのピースフルな男の足代を、階下で待つタクシーに払いに降りた時のことだった。
  「ノリちゃん、」
  振り向くと、隣の部屋のおじいちゃんだった。葬儀の手配を憔悴する私に代わってしてくれた人だ。
  「ノリちゃん、アイツまた来てんのかい。金なんか払ってやるんじゃないよ」
  「いつもうるさくしてすみません」
  「そんなことはいいんだよ、おれは耳が遠いからね。だけどノリちゃん、余計なお世話だろうけど…」
  「わかってます、だいじょうぶ」
  わかってはいたけれど、この頃の私にとって彼は大事だった。時々やってきては、あまり頭を使わなくていい会話をし、適度に笑い肌を温めあう。そういう人間は彼以外誰もいなかった。恋人なのか、それとも知り合いなのか、そんなことにはどうでもいい。母の死について、孤独について、愛について。そういう面倒でやっかいな事を考えなくてもいいところが重要だった。同情的で優しい人たちといると、かろうじて支えていた軸がぽっきりと折れてしまう。彼は、居間の仏壇を見ても、何も言わない人間だった。線香をあげることもない。家族のことも聞かない。だから部屋に泊めるようになったのだ。彼と、からっぽの会話をくり返した日の夜はぐっすりと眠れた。
  一度だけ、言ってみたことがある。
  「お墓参りに行くけど、一緒に行く、」
  寝そべっていた上体をひねってこちらを見、彼は「は?」という顔をして言った。
  「なんで俺が。ってか、誰の、」
  「いや、いい」
  ほっとした。もし、行くなんて言われたらどうしようかと思った。そうなったら、いつ彼との間に、母のことや私の人生のことが入り込んでしまうかしれない。私にとって彼は、金魚だった。餌をやれば反応し、余計なことを考えず、眺めていると眠くなる。干渉もしないし同情もしない。一緒に過ごすのは、そういう人でなければならなかった。
 
  だけどそれは続かなかった。
  ある日仕事から帰ってドアを開けると、かすかに線香の匂いがした。いやな予感を抱いたまま部屋に入り、抽き出しにしまっておいた翌月分の家賃がなくなっていることに気づいた。いやだな、と思いながら押し入れを開けると、母の小間物入れの扉が開いている。どきどきしながら内側の小さな抽き出しを開けた。寝るときもお風呂に入るときも、死ぬまで一度も外さなかった指輪。父から母への贈り物だ。私がお嫁に行くときにお守りとして持っていきなさい。よく、そう言っていた。透明の石のなかに色とりどりの光が揺れる、美しいオパールの指輪が、そこにあるはずだった。
  思わずへたりこんだ拍子に、仏壇にぶつかる。その瞬間、何か重たいものが畳に転がった。リンゴだった。
  許しを乞うために、ここで線香を上げたのだろうか。冷蔵庫のリンゴまで供えて。
  許せない、と思った。母の指輪がなくなったことより、その行為が許せなかった。彼は、母のことなどに頓着すべきじゃなかったのだ。良心がとがめるなんてルール違反だ。都合のいいときに来て、私の心に興味を持たず、からっぽの会話とからっぽの笑い声を交わし、プライドや思いやりなど持たずにいてさえくれれば、私はずっとただの生き物でいられたのに。
  ベッドに入り布団を被って、これまで心の澱に沈めていた感情に必死で抗っていると、玄関のドアがカチャリと音を立てた。かすかに人の気配がする。彼かもしれない。私は身を堅くしていた。押し入れを開ける音がする。私は布団をはいで、立ち上がり部屋の襖を開けた。
  彼はギョッとした表情でこちらを振り向く。
  「え、いたの、」
  「幾らになった、指輪」
  黙りこくる彼を前に、私は祈る。あんな安物だとは思わなかったよ、三千円だぜ、だからなんか他にないかなと思ってさ、そうそうおいしい話があってね、とりあえず軍資金が要るんだよ、うまくいったら色つけて返すからさ…。そんな言葉を待っていた。
  なのに、彼は沈黙のあと、小さな声で「ごめん」と言った。
  「返しに来たんだ。質屋の人がずいぶん古いタイプのデザインだって言うから、ひょっとしてあんたの母ちゃんのかと思って…」
  「黙って」
  「え、」
  「あなた誰、」
  「…何言ってんだよ」
  「軽くていいかげんで、冷酷などろぼうでしょ…お線香なんかあげたらいけないの。中途半端なことをしちゃいけないの」
  どう言っても通じないだろう。そういうことが通じないからこそ、今まで一緒にいられたのだ。彼は私を、まるで気味の悪いものでも見るかのような目で見つめ、テーブルの上に指輪を置くと、そのまま黙って出ていった。
  それきりだった。
  その晩から私は眠れなくなった。

 
  店のドアを開けて外に出ると、ふわっと鼻をかすめる匂い。
  「金木犀の匂いだ。秋だね」
  同僚は「え、」という顔をして息を吸い込んだ。
  「金木犀の匂いってどんなんだっけ」
  「匂いを聞かれても説明のしようがないよ」
  「排気ガスの匂いしかしないけど。あとニンニクとか」
  「嘘よ」
  「しないわよ、金木犀の匂いなんて。こんな雑居ビルと車ばっかりのとこでするわけない」
  「そうかなぁ」
  「あ、でもノリちゃん嗅覚鋭くなってるんだよね。だから遠くに咲いてるのが匂うのかもよ」
  「犬みたいに言わないでよ」
  ひとしきり笑うと、彼女は「でもさ、」と真顔になった。
  「ノリちゃん笑うようになって良かった。別れた男のことなんかさっさと忘れて、普通にごはん食べられるようになったら合コンでもしよ」
  失恋して、夜なかなか寝つけず、食欲のない女。彼女には分かりやすい像を描かせてある。私は、この善意の人ににっこりと頷いた。
  「じゃあ、行くね。おばあちゃん、待たせちゃう」
  「おつかれさま」
  「おつかれさま」
  後ろ姿を見送ってふと思う。それにしても、この金木犀の匂い、本当に感じないのだろうか。だけど、彼女の言う通りこの辺りにはちいさな植え込みすらない。どこから匂ってくるのだろう。金木犀の匂いは、地下鉄のホームでも電車のなかでも、そして駅に降りたときも同じように漂っていた。

 「特に問題はないようですよ。お食事もしっかりされてますしね。折り紙やお歌の会にもいやがらずに参加されてます」
  職員からいつも通りの報告を受け、礼を言い、祖母のいる一階のラウンジへ向かう。
  西日の射す大きな窓のそばで、祖母は車椅子に座って庭を眺めている。膝にかけたブランケットのフリンジをいつものようにいじっていた。
  「おばあちゃん」
  声をかけても返事はない。ふだん通りだ。娘のことすら分からないのだから、私が孫であることなどとうてい分からない。それでも、母が生きていた頃はまだ身内の識別は出来ていた。どこかで、母の死を悟っていたのだろうか、母の死以降、症状の進行は早かった。
  正面へまわって、大きな声で呼ぶ。おばあちゃん、サトさん、ゴトウサトさん。
  やがてゆっくりと私の方を見、「はい」と言って視線を外す。私はお手玉を取り出し、半分を彼女に渡す。いつものように、お手玉を投げる。しかし、今日の祖母は少しものってこなかった。いつもなら、小さく何かを口ずさみながら一緒に投げるのに。
  「おばあちゃん、どうしたの。お手玉しようよ」
  祖母は何も言わずじっと庭の一点を見つめている。
  少し大きな声で呼んでみたが、反応がない。何か他に興味を引きそうなものはないか、と見回す。
  「…ルコ」
  「えっ」
  「ハルコ」
  母の名前だ。
  「おばあちゃん…ハルコ、お母さんのことね」
  祖母は私の顔を見て、微笑んでいる。
  「おばあちゃん、あたしノリコ。分かる? ハルコの娘のノリコ。おばあちゃんの孫」
  祖母は微笑んだまま何も言わない。私は苦笑した。よく考えれば、今までも娘の名前を口にすることくらいあったろう。たまたま、私がその場にいなかっただけのことだ。それに、ハルコはもう娘の名前というより、かつて何度も呼んで言い慣れている、いわば記号でしかないのだろう。
  「おばあちゃん、折り紙しようか、ね」
  そう言って、立ち上がりかけたときだった。
  祖母が突然、しゃべりはじめた。
 

 「ハルコ。いいかい、あんたはこれから何があっても、この子を守ってやらなきゃいかんのよ。あたしはあんたを守るから、あんたはこの子を」
  何が起きたのか一瞬分からなかった。
  祖母がふつうにしゃべっている。
  「おばあちゃん?」
  祖母は真顔で、小さいけれどしっかりとした声で話す。
  「あたしは、死んでもあんたを守る。あんたも、そうしなさいよ。死んでもあの世からずっと守ってやるんだよ。しっかりおしよ。ノリコにはもう、あんたしかいないんだよ。…そう、大丈夫、大丈夫。今だけ、たくさん泣きなさい。がまんしないで泣きなさい」
  祖母は再び微笑んで、私をじっと見つめた。
  「おばあちゃん、じゃあお母さんは私を守ってくれてるの。どこかでちゃんと見ていてくれてるの、」
  祖母は「大丈夫、大丈夫」とくり返す。
  「ほら、ハルコ、庭に金木犀が咲いてるよ。秋だねぇ」
  祖母が視線を移した先には、金木犀が咲いていた。
  西日の庭で、その木はちいさなオレンジ色の花を無数につけていた。
  ずっと私を包んでいた匂い。
  私は祖母の膝に顔をうずめ、二年ぶりに泣いた。
  「ノリコ」
  祖母の声に母の響きが重なった。

 
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