air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第20話

秋桜の庭で

中元彩紀子

 考えてみれば、私が見たのは白昼夢だったのかもしれない。でなければ、神様がほんの気まぐれで見せてくれた奇跡としか思えないほど、あれは私にとって不確かでそして特別な光景だった。
 
 
  三連休の初日、久しぶりに実家へ帰ると家には誰もいなかった。いつもなら居間で婦人雑誌などをめくっているはずの母が、どこへ行ったか姿が見えない。台所へゆくと、母が拵えていたのだろう、五目寿司がお櫃に入ったままテーブルに置かれている。静まりかえった家のなか、耳もとで雨音がしているような錯覚に陥る。雨は降っていない。このところは晴天続きだ。そういえば同僚が、急に嗅覚が敏感になったと言っていたっけ。匂うはずもない場所で金木犀の匂いを嗅いでいた。私の場合は聴覚なのかしら、と、そんなことを考えながら目を閉じ、しばらくその感覚に集中していると、庭から物音が聞こえた。
  縁側から庭を覗くと、ジャックがコスモスの花を見上げていた。彼は相当な老犬で、この頃では散歩にも出ず、そのくたびれた茶色の老体を小屋に横たえていることが多いと母から聞いていた。見知らぬ人にも、もう前のようには吠えなくなっていた。それがめずらしく表へ出ている。四肢もしっかりとし、コスモスの揺れる様をじっと見ていた。
  「なんだ、あんただったの。散歩でも行く、」
  さっきの音は、門と垣根の間から小さなジャックが外へ行かぬようにと、昔、父が取りつけたトタンの音だった。不器用な父の仕事だからすぐにガタがきて、散歩に行きたがるジャックが蹴ったり引っ掻いたりするたびに、それはカシカシと音をたてた。近頃では歩行もあやしいはずなのに、と私が訝しんでいると、ジャックは縁側の私のところまでテテテテ、とやってきた。差し出した手の匂いを嗅いで鼻をならしている。
 
  彼は私が小学生の頃に、近所からもらわれてきた雑種犬だ。大通りの家具店のエスが産んだ六匹の仔犬のうちいちばん器量が悪く、最後までもらい手がつかなかったやつだ。それを半ば押し付けられるような形で母がもらってきたのだった。名付け親は兄で、「賢く、理知的であるように」とトランプのジャックからその名をつけた。それを知ってか知らずか、ジャックはとても殊勝な態度で、家族の手を焼かせるようなことはなかった。やがて自分の庇護者でないのは子供の私だけであるとさとったのか、私に対してだけは暴君のように振る舞ったものだ。ジャックが私のふくらはぎにかみつき、私が尻尾をひっつかんで応酬している様子を、口の悪い父は「恵里子はがさつだから、さしずめ猿だわな。犬猿の仲というのはこういうのを言うんだ」と言って笑い、私をさらにふくれさせた。しかし、仲の悪いのも仔犬の頃だけのことで、私が高校に入学して忙しくなると、相手も承知したものかどうかは分からないが、あまりちょっかいを出さなくなった。
  犬のくせにネズミを捕まえてきたり、いつだったかはうろついていた不審人物を追い払ったとかで、ジャックは近所からも評判がよかった。ただ、帽子を被った人物には見境いなく吠えるので、知っている人はうちの前を通るときには、みな一様に帽子を脱いで苦笑いしながら通ったものだ。子供にだけは吠えなかった。ジャックは賢い犬になっていた。
  短大を卒業して就職し、一人暮らしをはじめる日の朝、家を出る私に向かって餞別だとでも言わんばかりに、尻尾をぶんぶん振ったのが遠い昔のように思える。たった小一時間の距離を惜しんで、実家にはあまり帰らなかった。その間に、彼もずいぶん年をとったようだった。
  「ジャックももうお迎えが近いから、あなたもたまには顔出しなさいよ。この頃じゃね、夜はお父さんといっしょに寝てるのよ。朝、起こしに行くと、同じ顔した年寄りがふたり」
  いつだか、母はそう言って電話口で笑っていた。

 「ちょっと待ってなよ」
  鼻をならす彼にそう声をかけると、嬉しそうに尻尾を振る。一緒に散歩に出るなど何年ぶりだろう。支度をしようとリードを持って庭に出ると、コスモスを背景にジャックは背筋を伸ばし、こちらをじっと見ていた。風にゆっくりと揺れるコスモスとジャックの尻尾が同調している。一瞬だけ、元気な若犬だった頃の姿に見えた。まだしっかりしてるじゃない。そうつぶやきながら、首にリードをつけ、門のかんぬきを外した。どこかで電話が鳴ったような気がした。

 公園を抜けて大通りへと通じる階段の手前で立ち止まる。脚が弱ってきているから階段を億劫がるのだと母が言っていたのを思い出す。迂回しようとする私の意に反して、ジャックはこともなげに階段を降り始めた。案外しっかりした足どりだ。母はいつもおおげさなのだ。
  大通りを右に曲ると、家具店が見えてきた。ジャックが生まれた場所だ。仔犬の頃には、散歩途中によく半地下の倉庫内で遊ばせてもらった。ひんやりとした倉庫のなかは、大きな家具で作られた迷路のようで、兄ともよくここでかくれんぼをしたものだ。
  心なしか足どりが早まったジャックに合わせ、先を進む。店の前を通り過ぎ、裏手に回ると駐車場を兼ねた敷地の隅で、店のおじさんが木材に塗料を塗っていた。立ち止まったジャックと私に気づき、おじさんがこちらを向いて額に手をかざした。
  「あれ、恵里ちゃんじゃないかい、」
  私が、おひさしぶりです、と会釈すると、おじさんは目を細めてジャックを見た。
  「あれぇ、ずいぶん元気になったじゃねえか、ジャック」
  ジャックはおじさんに近寄ると手をくんくんと嗅ぎ、そして半地下の倉庫の入り口に向かった。
  「中、入ったらだめですか」
  「昔はよく遊んでたっけなぁ、いいよ」

 緑色のカーペットはところどころに黒い染みが出来ているが、そこは昔のままだった。大小さまざまな家具が積まれ、ひんやりと静まりかえっている。子供時分に見た光景は大人になってから見ると、ずいぶんと小さく感じるものだけれど、ここは相変わらず広かった。懐かしさと物珍しさに辺りを見回していると、不意に手からリードがするりと抜けた。あっ、と思ったとき、大きな箪笥の後ろへとジャックの後ろ脚が消えていくのが見えた。
  「ジャック、」
  呼んだが姿を見せない。
  「どこなの、」
  家具の谷間を迷路のように這う通路を進むと、前方をジャックが横切るのが見えた。小走りに近寄り、彼が消えた角を曲ると、またも姿が見えない。床が柔らかいために爪の音もしない。静かな倉庫内にジャックの吐く息だけがかすかに聞こえる。応接セットや、クローゼット、螺鈿細工の施された黒い箪笥などを、一つひとつ眺めながら歩く。そういえば、小学校に上がったとき、父に連れられてここで勉強机を買ったのだったな、と思い出す。仔犬の頃のジャックがしきりに噛んで、ひじ掛けの柔らかいところがボロボロになった座椅子も、確かここで選んだものだった。恵里ちゃんの嫁入り道具はおじさんが作ってやっからよ、と言いながら、カンナをかけるおじさんの傍で、ジャックはカンナ屑にまみれて遊んでいた。懐かしい光景が、次々と目に浮かぶままに歩いていると、いつしかジャックの息づかいが聞こえなくなっていた。
  「ジャック、いいかげんにしてよ」とひとりごち、探そうと足を踏み出した瞬間、背中をつつかれた。短い叫び声が天井に響く。振り返ると、そこには男の子が立っていた。
  「びっくりしたじゃないの、」
  男の子はくすくす笑っている。小学校一年生くらいだろうか。そういえば、おじさんも孫くらいいてもおかしくない年だ。
  「ここんちのお孫さんなの、」
  尋ねてみたが返事はなく、彼は箪笥の引き出しや戸棚の扉を開けたり閉めたりしている。
  「犬がね、いなくなっちゃったのよ。一緒に探してくれないかな」
  すると彼は大人のような仕種で肩をすくめ、「いいよ」と言った。
  「恵里ちゃんでしょ」
  「それは私の名前よ。犬はジャックっていうの。年寄り犬だからすぐつかまるわ」
  「そうかなぁ、すぐつかまるかなぁ」
  彼は笑いながらそう言って、駆け出した。
  「ちょっと待ってよ」
  すぐに追いかけたが、狭い通路も小さな子供には走りやすいのかすぐに姿が見えなくなる。ぱたぱたと走る音の方向へ向かうと、背後から「こっちだよ」と言う声がする。振り返ると、彼がケラケラ笑っている。すぐにまた大きな家具の向こう側へ走っていってしまう。こうなるともう、ジャックを探しているのか、男の子を探しているのか分からない。げんなりしつつ探していると、食器戸棚の裏から「あっ、いた!」と声がした。
  「ジャック、いたの」と声をかけながら戸棚の裏へ回ってみると、観音扉が開かれ、そこに男の子が腰掛けて足をぶらぶらさせているだけだった。
  「いないじゃない」
  「ジャックはここで遊ぶのが好きなんだ。恵里ちゃんも好きでしょ、」
  「まあね、でもジャックが…」言いかける私を遮って男の子はたたみかける。
  「ボク、ここで生まれたんだよ」
  「あ、そう。ジャックもよ」ジャックの息遣いが聞こえないかと耳を済ませながら答える。
  「恵里ちゃんもここで遊ぶの、おもしろいでしょ?」
  「え、ええ。昔はよく遊んだわよ。今日はひさしぶりに来たの。でもジャックがいなくなって」
  「だいじょうぶだよ、さっきいたもん。それよりかくれんぼしようよ」
  男の子はピョンと棚から降りると、「恵里ちゃんの鬼ね」と言って再び駆け出してしまった。どこからか「まあだだよ」と声がする。仕方なく「もういいかい」と応じる。傍のソファに腰掛け、そんなやりとりを数回くり返すと、遠くから「もういいよ」の合図がかかった。ジャックもそのうち出てくるだろう。やれやれ、と立ち上がり声のした方へ向かう。扉という扉を片っ端から開けて歩いていると、倉庫の奥まったところにあるクローゼットでカタンと音がした。そっと近寄るとクローゼットの扉が細く開いている。こちらの様子を伺っているらしい。
  「みーつけた!」と扉を開けると、中はからっぽだった。そのとたん、背後でケタケタと笑う声がする。振り返ると、男の子が身をよじって笑っていた。
  「また恵里ちゃんの鬼だよ」
  そう言って、駆け出す。
  今度は応接セットの下で腹ばいになって息を潜めていたのを見つけた。今度は私が隠れる番だ。大人が隠れる場所となると限られてしまう。小さな茶箪笥が目に止まった。子供の頃はこの茶箪笥の引き戸のなかでもジャックと一緒に隠れられたのに。ジャックの息がくさくてつい戸を開けてしまったところで兄に見つかってしまった。そんなことを思い出しながら、ソファの後ろにしゃがみこむ。
  「もういいよ!」
  近くの家具の中を探しているのだろう、カタカタと音がする。どんどんと足音が近づいてくる。
  「あッ、みーつけた!」
  「あーあ見つかっちゃった」と言いながら立ち上がると、「背中が丸見えだもん」と笑う。
  ひとしきり笑った後で、男の子は「ボクもう行かなくちゃ」と言った。私の目をまっすぐに見て、そして「恵里ちゃん、ありがとう。とても楽しかった」と少し微笑んだ。
  「私もよ」そう言い終わらないうちに、彼は「じゃあね!」と叫んで、私の横をすり抜けてた。あっ、と思って振り返った瞬間、明かりとりからの逆光で目が眩む。
  「恵里ちゃん、茶箪笥の陰だよーっ」
  その声を最後に足音も消えた。
  果たしてジャックは本当に茶箪笥の陰で丸くなっていたのだった。
  「ここにいたの? ずっと?」
  ジャックは舌を出し、とぼけた表情でこちらを見上げた。

 

 表に出ると、もう陽も高くなっていた。おじさんの姿も見えない。
  来た道を引き返し、家へ戻るとまだ誰も帰ってきていないようだった。ジャックを小屋へ入れ、玄関を上がった時だった。電話が鳴る。出てみると兄だった。
  ジャックがたった今、病院で息を引き取ったという。朝、様子がおかしいのに気づき、皆で病院へ運んだらしい。
  「でも十八年も生きたんだ。大往生だったよ。恵里子、会えなくて残念だったな。おまえ電話、全然出ねえんだもん」
  ジャックの尻尾が最期に力強く揺れたのだと言って、兄は電話口で洟をすすった。
  「昔、おまえと遊んでたときみたいに元気よく尻尾振ってたよ。…これから連れて帰るから」
  切れた電話を持ったまま、しばらく私は呆然とそこに立ちつくしていた。どのくらい経ったろうか。やがて私はゆっくりと受話器を元に戻すと、そのまま庭へ出た。
  小屋にジャックの姿はなかった。
  耳の奥に、あの子の声が聴こえる。
  ──恵里ちゃん、ありがとう。とても楽しかった──
  「私もよ、ジャック」
  今朝、ジャックが見つめていたコスモスが風にゆらりと揺れた。もうすぐ、ジャックが帰ってくる。
  私はコスモスを摘んで待っていようと思う。

 
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