air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第22話

木立で友の声を聴く

中元彩紀子

 生前の祖母の口癖に「秒速四千キロで膨張する宇宙の片隅で…」というのがある。
  「で、あんたは秒速四千キロで膨張する宇宙の片隅で、そのお友達とどうすれば仲直りできるかどうか考えてるわけだね」
  祖母は私を描きながら鼻歌まじりで幼い私に訊く。祖母のお気に入りの安楽椅子に腰掛け、膝の上に顎をのせた姿勢で私は目だけで頷く。祖母は新しい絵の具を絞りながら、ちらりとこちらを見てさらに続ける。
  「だとすると、その子もきっと同じことを考えているだろうね」
  「なんで分かるの、」
  「だってそりゃああんた、人が有事の際に考えることなんてのに大した違いはないんだよ」
  「そうかなぁ…」不安げに椅子を揺らす私に祖母は言う。
  「明日その子が突然いなくなってしまったら、どうする」
  唐突な質問に私は戸惑う。
  「あんたは仲直りできなかったことを一生幾度となく思い出すだろうね。そのたびに謝ればよかったって思うんだろうね」
  私はどんどん膨らむ宇宙のなかに、針で刺したより小さな自分を想像した。ジタバタと苦悩する私を宇宙は構いもせずにどんどん膨張していくのだ。そのうち私は時がきてパチンと弾けて消える。そしてやっぱり宇宙は猛スピードで広がり続ける。
  「しなかったことで苦しむのはばかばかしいことだよ。考えてる間に謝っちゃえばいいの」
  そして祖母の絵が出来上がる頃、私とその友達と仲直りした。仲違いの原因は思い出せないが、宇宙が膨らんでいるという話をしたときのその子の驚いた顔はよく覚えている。
 

 安達は私の話を聞くともなしに聞いている。茫洋としたところのある男だけれど、それがポーズであることは分っている。ことさらに興味を示すわけでもなく、かといって拒否するわけでもなくただそこにいる。そしてとりとめもない話が一区切りついたところで彼はいつも核心をついてくる。
  「つまり敬介はまだ帰ってこない、というわけだ」
  祖母のことを語っていた私は一瞬虚をつかれるたようになる。が、これもいつものことだ。安達は私の話の内容よりも、それを話そうとした源泉の方を見ているのだ。
  「帰ってこないからこちらから出向いてみようかどうしようか迷っている。宇宙はものすごいスピードで膨張しているというのに、自分はここでちまちまと悩んでいる。しなかったことで苦しむことになる未来に怯えている。だけど、してしまったらそれはそれで後悔するのではないか。と、こんなところだろ」
  いやな男だと思う。だが図星だ。
  「もう半月になるわ。半月と一日」
  安達は姿勢を崩さぬまま足を組み換える。喫茶店の二階の窓から見える駅前では、暇そうなタクシーの運転手が外で出て伸びをしている。
  「探すあてもないし」
  安達の心持ち歪んだ口もとが、探そうともしてないくせに、と言っていた。
  「あんたは、いつでもじっと考えてばかりだ。動かない。考えることで暇つぶししてるのさ」
  「あたしにだって仕事はあるの」
  「お絵かきだろ? 発行部数たった十万かそこらの弱小誌、それと幼稚園児の絵のせんせい。でも、それと敬介から連絡がないことは関係ない。関係なく、あんたはちまちま悩んでいる」
  返す言葉が見つからず、私は煙草に火をつける。
  店内にはパッヘルベルのカノンが静かに流れている。壁際のテーブルにいる青年がウエイトレスに曲名を尋ねたようだが、茶髪の彼女は首を傾げるだけだった。教えてあげようかと腰を浮かせたが、なんとなく億劫になりやめてしまった。とたんに吹き出してしまう。安達の言うとおりだ。
  「何がおかしいのさ」
  すでに冷めてしまったマンデリンを一口飲んで私は答える。
  「やっぱりあたしは考えるだけの人だってことよ」
  安達は再び窓の外へとつまらなそうに目を向ける。
  「男は二つのことを同時にはできないんだよ。テレビを見ながら電話したり、話をしながら絵を書いたりするのは女のすることだ。あいつも今ごろひとつことに夢中になってるのさ」
  慰めのつもりだろうか。訝る私に彼は続ける。
  「欲しいものってのはね、じりじりしながら待ってるうちは来ない。こちらから出向くか、きっぱり忘れちまうかのどちらかだ」
  気づくと煙草の灰がテーブルに落ち、今し方聞いたはずの安達の声はタイスの瞑想曲に代わっていた。向かいの座面は最初から誰もいなかったかのようにきれいに整えられていた。
  また彼を引っぱりだしてしまった。安達などもうとっくにこの世にはいないというのに、私はまだ彼の気配と会話しながら生きている。私はひとり分のコーヒー代金を払い、喫茶店を出た。

 私たち三人は大学時代を一緒に過ごした。私は絵を書き、二人は音楽で結びついていた。安達も私も敬介に恋をしていた。安達はノンケと偽っていたけれど、私にはすぐに分った。明朗で率直で活動的な敬介に対して、私と安達はなんでも難しく考える人間だった。自分が欲してやまない性分を存分に持った敬介を、なかば神を見るかのように羨望していたのは敬介の方だった。私は女であることだけを武器に、安達との間に静かな戦線をはっていた。
  「敬介は聴覚的な人間なんだ。男ってのはふつう視覚的なものなんだけどね。見えるものに面倒な意味を与えない。存在するものの本質に耳をすませる男だ。物事を目で見るんじゃなくて、感じることでその瞬間と戯れることができる純粋さを持ってる。オレやあんたにはない部分だ」
  安達は理屈っぽいわりに分かりにくい表現で敬介を語った。
  「だったら、本当のことを敬介に言ったらいいじゃない。色眼鏡で見るような男じゃないんでしょ、彼は」
  いやな女だな、と自分でも思った。私はそんなふうに好きな男について評することが出来ない分だけ、安達に嫉妬していた。
  「分からないか。オレはあんたも好きなんだよ。惚れてはいないけどな」
  しれっとそう答えた安達の横顔を覚えている。あの頃、私は敬介と会うより、安達と一緒に、ふたりして惚れている男について語ることの方が多かった。
  大学を出てからも安達と敬介はいっしょに音楽関係の仕事をしていた。あるとき、環境音楽のCDを作るのだと言って、ふたりは信州へ音のサンプリングに出かけるようになった。木々の葉ずれ、鳥のついばみ、冬枯れの森の音、その日は季節毎のかすかな音を拾いに行く旅の大詰めだった。そこで安達は死んだ。滝の音をとるのだといって身を乗り出し、その瞬間に足を滑らせるという典型的な山の事故だった。
  もう二年も経つというのに、私はいまだにあの頃のままだ。いつしか敬介とつきあうようになり、結婚の約束めいた話もされた。それでもまだ私は、安達を越えられない。分かりやすくて奔放で自由な敬介が、いつしか自分から心をどこかに移してしまうのではないかと不安がる私は、あなたほど敬介のことをまだ理解できていない。私はそう安達に言いたかった。安達は死んで、惚れた男の中で完璧な存在になった。あなたはずるい。そうひとりごちたことも何度もある。
  「だからあんたはダメなんだ。相手をそのまま受け入れてしまえば、それが理解なんだよ。オレはただしち面倒くさい御託を並べてるだけさ。ソドムの男の悪あがきだと思え。真似しようとするな」
  あれは事故なんかじゃなかったでしょう?あなたは脚色のない音の世界と戯れながら、もう最期にしたかったんでしょう。そして惚れた男の肱(かいな)に抱かれたかったのでしょう。
  「だからただの悪あがきだって言っただろう。忘れろよ。宇宙はあんたの苦悶になどおかまいなしに膨張してるんだぜ」
  反復する問いかけに、安達のそんな言葉が胸のどこからか聴こえてくる。

 信州の山の麓にあるというその林を、私は幾度となく想像していた。そしてそこは私の想像とはまるで違っていた。気温の低い場所だから、もうとっくに木々は紅葉しているか、もしくは葉を落としているものとばかり思っていたのに、そこはまだ緑が残っていた。かなり深くまで進んでも明るい日射しが差し込んでいる。ここがあの“事故”の前日、彼らがキャンプした場所なのだった。ここで安達は人生最期の夜を敬介と過ごしたのだ。そして夜、鼾をかきながら眠る敬介の横で、ひとり静かに計画を企てたにちがいない。
  この場所へ来たのにはみっつ理由がある。ひとつは“しなかったことで苦しむな”という祖母の言葉を思い出したから。ふたつめは、あんたは考えてばかりで何もしないと言う安達の亡霊と訣別するためだ。そしてみっつめは、三週間前、敬介が言っていた言葉だ。もうじき安達の三回忌だという話題になったとき、敬介は言ったのだ。「安達は墓なんかにはいないな。こだわり屋だから、まだあそこで音拾ってるかもしれないぞ」
  今日がまさに安達の命日だった。パートナーの死によって頓挫したままだった企画に再び着手するのなら、きっと敬介はここに来たはずだと、そう考えた。安達、あなたまさか敬介のことそっちに引っぱり込んだりしてないでしょうね。そんな卑怯な真似は許さないわよ…。心の奥の安達は何も答えない。私は緊張していた。今までだって、突然連絡が取れなくなることなど何度もあった。思い立ったらすぐに行動に移してしまい、傍にいる者のことなどすっかり忘れてしまうような恋人なのだ。だけど、三回忌が近づくにつれ頻繁に心に現れるようになった恋敵に導かれ、ここまで来てしまった。このままなだらかな道を進むと、あの日ふたりが分け入った山へ入ることになる。今ごろになって軽装で来たことを後悔した。電波の具合を確認しようと、バッグからケータイを取り出したとたん着信音が鳴り、私は驚いて落としそうになる。慌てて出てみると、聞こえてきたのは敬介の声だった。
  「何やってるの? おじょうさん」
  両の耳から声が重なって聞こえる。はっとして顔を上げると、山の方向から大荷物を背負って降りて来る青いヤッケの人物が見えた。
  敬介だ。
  私は崩れ落ちそうになりながら、敬介の足元を見る。ちゃんと足がある。良かった。そう思ったとたん、涙が出そうになり、私はうつむく。
  「びっくりしたよー、誰かいると思ったら亜佐美なんだもんな。ここがよく分ったね」
  肩をバンバン叩いて驚く敬介に私は言葉もない。
  「いや、参ったなぁ」
  私はやっと顔を上げて、「何が参ったなのよ」と睨む。すると今度は敬介が一瞬黙り込んだ。そして真面目な顔をして、このちょっと先まで上ってみないか、と言った。

 そこはおよそ山のなかとは思えないような明るく開けた場所だった。傍にあった大きな木の根にふたりで腰掛ける。私が口を開きかけると、彼がそれを制する。そして上を見てみろ、とジェスチャーした。彼が指差したのは私たちが座っている木の幹だ。そのずっと上の方に小さなウロがある。
  あそこに小さい家族が住んでるんだよ。敬介が小声でささやく。驚かしてはいけないからね。
  「三年前の夏頃、あいつが見つけたんだ」
  「何の巣、」
  「小鳥だったりリスだったりいろいろさ。家族の足音を録るなんて言い出して、あいつここで二日も粘ってたよ」
  家族を持つことなど到底叶わないとあきらめていただろう安達の心を思い、私は何も言えないでいた。
  「二年前の今日、あいつはこの仕事が終わったら、会社を辞めて外国に行くって言っていた。そしておまえは亜佐美と家族を持てって。彼女はオレと同じで面倒な奴だから、おまえみたいな分かりやすい男がちょうどいいってさ。おまえだって亜佐美に惚れてたんじゃないのかよって言ったら、あいつ大笑いしてたっけなぁ。面倒臭いのは自分だけで十分だって」
  それから敬介はしばし黙り、そしてゆっくりと口を開いた。
  「だいぶ長くかかったけど、これでやっと完成だ。…あいつにも亜佐美にもずいぶん待たせちゃったよなぁ。…亜佐美、どうかした、」
  安達は愛する人のために一番言いたかったことを隠し通して、その人の幸せだけを願って逝ったのだ。それを私はお門違いにもずるいと言った。
  「…安達にはかなわないなぁ」それしか言えなかった。
  きょとんとする敬介に、私は顔を上げ、「巣作りを始めないとね」と言った。
  「帰ろう。帰って編集しないといけないでしょ。引っ越しもあるし、親に挨拶にも行かなきゃいけないし」
  照れくさそうに頭を掻きながら立ち上がって歩きだす敬介の後ろで、私はもう一度振り返る。
  ──そこにいるの?──
  ──あんたは、考え過ぎなんだよ。動いてみると案外いいことあるって分っただろう──
  ──ありがとう安達。あなたがここへ呼んだんでしょう?──
  耳をすませる。返事の代わりに聞こえたのは、敬介がおーいと呼ぶ声だった。
  そのとき、頭上でカサッと音がした。私たちが見上げると同時に一羽の小鳥がウロから顔を出し、飛び去っていった。そしてそれは秋の高い空へと消えていった。

 
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