第23話
ぎんなん拾い
中元彩紀子 |
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もし目覚まし時計より早く目が覚めたら。もし横断歩道に辿りつく前に青が点滅したら。もしあの電車に間に合ったら。そうしたらこの決意はひるがえそう。そんなちいさな賭けをくり返すが、いつも賭けには負けている。店内にはパッヘルベルのカノンが流れている。僕のテーブルから少し離れたところにいる女の人は、一人でなにかぶつぶつ話している。トイレに立った時に通り過ぎた奥の禁煙席では、OL風の女性が神経質そうに何か書き物をしていた。ウエイトレスの茶髪の女の子はカウンターに寄り掛かってあくびをかみころしていた。もしあの子が僕の質問に答えられたら─。
「すいません」と声をかける。目をぱちくりさせて彼女がやってくる。「なんでしょうか」。
「今かかってるこの曲、タイトル分かりますか、」
果たして彼女は苦笑いをして首をかしげたのだった。
また負けだ。そうして時間は無為に過ぎていき、帰社時間が近づいてくる。長い針がまっすぐ上を向くまでに、男性客が現れたら─。
そして数分後、僕の悪あがきは徒労に終わった。
外は雨である。冬の雨は重たい。入社祝いに、当時つきあっていた彼女に買ってもらった革靴はつま先が割れ、水がしみこむ。黄色い銀杏の葉が幾重にも重なってみすぼらしくアスファルトに張り付いていた。げんなりした僕の鼻先にぎんなんの匂いが漂ってくる。横断歩道に向かう老人が連れに向かって大声で言う。
「あのクリーニング屋から先がよ、雌の銀杏なんだわ、ああ。だもんで風が吹くとここいらも匂うんだ。そろそろ拾いに行くかね。ぎんなんは茹でるより焼きにかぎるね」
今思えば、この見知らぬじいさんが僕の足掛かりだった。よし、これが正真正銘、絶対に、最後の賭けだ。もしじいさんがここでひとつ大きなくしゃみをしたら…と考えた瞬間、横断歩道に威勢のいいくしゃみが響いたのだった。賭けに勝って会社を辞める。競馬でおお勝ちしたなら格好もつくが、僕の人生を決めたのが爺のくしゃみとは。僕はひとり苦笑するしかなかった。
学生だらけの地域で車を売れとは時代を少し間違えている。それともよほど僕の顔つきが気に入らないのか、上司のかわうそに似た男は先週も檄を飛ばした。口にするだけでこちらが恥ずかしくなるような類型的な叱言だ。そうでなくてもファミリータイプの大型マンションの建設計画が頓挫したせいで、見込みが大きく外れた今、これはもう八つ当たりといってよかった。
芳しくない成績でしかも時代は就職難、あたれるところはみな営業職で、拾ってくれたのはここだけだった。思いのほか簡単に決まったと思いきや、三ヶ月に一人辞めて行くようなきつい仕事だった。それでも名前だけは立派な会社で、実家の母の安心した顔を思い出せばそうそう簡単に辞めるわけにはいかなかった。一番向いてない仕事を選びましたねぇ、と言ったのは高校時代の文芸部の顧問だった。
「長谷川くんは、てっきり進学するものと思っていましたが」
祝いの言葉を引っ込めたのは、僕の表情にそのまま不本意と書かれてあったからだろう。
社交辞令もお体裁も持たない変わった大人だった。そのせいか職員室を覗いても、彼がそこにいるのは三回に一度くらいで、たいていは美術準備室でパイプをくわえてコーヒーを飲んでいる。美術の講師がかつての教え子であることをいいことに、すっかりそこを根城にしているのだった。
「進学できるくらいなら就職しませんよ先生」
「なるほど」
「それにやりたい学問なんてのもないし」
「おや、じゃあきみは車を売りたかったわけですね」
僕は辟易したものだ。父親を早くに亡くし、僕と妹のために働く母親を見ていると自分も早く働かねばと思うわけです。そんな伝家の宝刀でたたみこもうとしても通用する相手じゃない。消極的選択に甘んじた僕を叱咤したいのがよく分かった。
僕には人生の指針となるべきものが何ひとつなかった。父親の背中を見て息子は育つというのなら、父親のない僕は育ちませんね。生まれてしまったから、せめて家族にだけは迷惑をかけずになんとか無難に生きるだけです。そんな時、暑苦しい情熱でもって肩を揺さぶる教師なら、僕は今、かつて通った学校へ向かうはずもない。彼がその時言ったのは、「太宰なんか読むからですよ」の一言だけだった。パイプの葉から匂うブランデーの匂いが部屋じゅうに漂っていた。だるまストーブに置かれた薬缶がしゅんしゅん音を立てている。それをどかして、先生はアルミホイルの包みを置いた。
「それよりきみ、ぎんなんでも食べませんか」
飄々と生きるこの人が、今の僕に何を言うか、それだけが気になった。
駅に降り立ち、駅前のスーパーでパック入りのぎんなんを買った。そこから西へ向かうと銀杏並木が見えてくる。独特の匂いが漂い、それが濃くなってくると校舎が見える。当時とほとんど変わらない校舎内の様子を眺めていると、妙な気分になる。まるで、今までがすべて生物かなにかの授業中に見ていた夢であって、授業を終えた僕はただ手洗いに向かっているだけなのじゃないか。それとも今日は土曜の午後だ。先生に呼びつけられて、ここでこうして待たされているだけなのじゃないか。…だけど、僕はネクタイを締め、会社のネーム入りの上着を羽織っていた。
気をとりなおして、受付に立つ。ガラス戸を開けなかを覗いたが、誰もいないようだった。仕方ないので、そこに出ていた来校者用の帳面に名前と用件を書き、誰かが気づくよう音を立てながらスリッパを出した。誰も現れなかった。
北校舎の階段を上り、美術室へ向かう。先生が根城としている準備室は美術室に入って、その奥の扉の向こうにある。教室に鍵はないが、準備室には鍵がついている。運がよければ、開いているはずだった。そろりそろりと戸を開けると、中には正方形の机が整然と並び、ロッカーの上には落書きされた彫刻が三つ、当時のまま置いてあった。準備室の扉の上の窓から明かりが漏れている。そこにいるのが美術教師でなくあの人であるようにと願いつつ、違っていた場合の言い訳を頭に巡らす。軽くノックをすると、キィと椅子の音がした。
「どうぞ」
開けた扉の向こうで眠そうに伸びをしていたのは、やっぱり彼だった。
「加島先生、お久しぶりです」
先生は、顔を亀のように前へ突き出し、目を細めて僕を見た。
「ああ、長谷川くんじゃないですか」
先生は傍にあった丸イスを自分の前に寄せ、座るよう促した。机の上には信楽焼きのコーヒー茶碗。左手には胡桃の木で出来ているというパイプ。聴こえるか聴こえないかというくらい小さなボリュウムで、クラシックが流れている。当時のままだ。
「やっぱりここだと思いましたよ。受付に誰もいないから勝手に来てしまいました」
「それは幸運でしたね。もし受付のお嬢さんがいたら、きみはここへは来られなかったでしょう」
「そんなに警備、厳しくなったんですか」
僕の質問には答えず、先生はコーヒーでいいかと問う。頷く僕に、ミルクはありませんよ、と言うと、先生はストーブの上の薬缶を重そうに持ち上げた。
「して、長谷川くんは今日は安吾にケチをつけにきたとか、」
「違いますよ」
僕は笑う。先生が読む無頼小説にやたらと文句をつけたのを思い出す。あんな与太者は嫌いです。僕は太宰や放哉の方がよほど好きです。
「僕、仕事辞めるんです。先生の言った通り、僕は車を売るのは向いてないみたいです。それに、肩書きのある人からはどうも疎まれる。ていのいい文句も容易に出てこないし、何より要領が悪い。社会には宿題の代わりにノルマってものがあるんですね。思い出してみれば、僕は気のすすまない科目の宿題はやったためしがない。だから好きでもない仕事を約束通りこなせるわけもなく。相変わらず、僕は怠惰で消極的な人間です。これでは人に迷惑がかかる。迷惑をかけられた人は、僕をいっそう責める。責め口上に行き過ぎがあれば、僕も相手を憎む。憎むってのは相当疲れます。そんなわけで」
そう言った僕を、先生はちらりとだけ見、なるほど、と頷いた。
「して、髪結いの女と情死でもするとか、」
「相変わらずですね、先生」
「いないんですか。そういう気骨のあるいい人は」
階下に置いてきた濡れた革靴がふと頭に浮かぶ。
「いましたが、業を煮やして消えました」
入れてくれたコーヒーをすすり、ちらと先生を見ると彼は目を閉じ、何か考えている。何を言う。この僕に何を言ってくれる。
「私がきみの父親なら…」
「なんです、」
「たぶん、こう言うでしょうね。たった二年で根を上げるとはなんだ。いいか、気に入らないからと言ってすぐに逃げ出すやつはどこへ行っても続かんのだ。情けない。…と、まあこんなところでしょう。しかし、私はきみの父親ではない」
「ええ。父親ではなく、先生に会いにきたんです」
先生は黙っている。静かな準備室に、薬缶がシュンシュンいう音だけがしている。やがて、イスの背もたれをキィと鳴らして、先生は口を開いた。
「ところで、さっきから気になってるんですが、そのレジ袋は一体なんですか、」
先生が指差した机の隅には、僕が来しなに買ってきたぎんなんの入った袋が置いてあった。
「ああ、これ、先生に。ぎんなんです。好物でしたよね」
「おや、仕事をさぼってぎんなん拾いとは。歌にでも詠めそうですね」
「いえ、スーパーで買ってきたんです」
聞いていなかったかのように、先生は天井を見上げて何かぶつぶつ言っている。
「来し方を振りさけみればぎんなんの殻のごとくに今も下向く」
「いまいちですね」
先生はホッとひとつ笑い、パックから幾つかぎんなんを取り出すと、机の上にあった封筒にそれを入れた。
「先生、何してるんですか、」
「何って、頂くんですよ」
そう言って封筒を閉じ、それをアルミホイルで二重に包んだ。
「こうして熱すれば、堅い殻も容易に割れてくれるわけです」
ストーブの上の薬缶をどけて、そこにアルミホイルに包まれたぎんなんが置かれる。
「さて、ぎんなんと言えばね、昔すぐそこの山の入り口に負傷兵がいましたっけ。戦争で片足と片腕をとられ、残った片手も真直ぐには伸びないと言ってましたね。彼は暖かい季節にはハモニカを吹いて、秋が深まるとぎんなんを拾って空き缶に入れて売ったり自分で食べたりしていました。私たち子供も、拾うのを手伝ったお礼にと幾度か御相伴にあずかったものです」
「その人、伸びない手でどうやってあんな小さな実を拾ったんです、」
「そこですよ。銀杏くらいは拾えたとしても、食べるには外側の実の部分をとるため、水に浸したり土に埋めたりして腐らせなければならない。そして殻を割るために火もおこせねばならない。手の使えない彼にはなぜかそれが出来た」
「嘘をついてたんですね、その人はケガなどしていなかった」
「嘘じゃないんですよ、方便です。生きるための。…彼は特攻隊だったり、騎馬隊だったり、通信技師だったり、日によって違うんですよ。ある時など、後方の雲間から現れた敵機に撃墜され、父島の東沖に墜落し、落ちた場所からえんえん泳いでいたら、ふいに体が浮き上がり、何かと思えばそれがウミガメの背中で、そいつがしっかりつかまっていろよと言って、陸まで運んでくれたなどと言い出すわけです。私たちがおかしくてゲラゲラ笑っていると、大人がやってきて彼を怒鳴る。すると、彼は耳の聴こえないフリをして君が代なんかを歌いだす。大人たちはそのうち呆れて相手にしなくなりました。だけど、夕方五時きっかりに彼のハモニカが聴こえると、近所に住んでいた者は夕食の支度などはじめたものです」
「その人はずっとそこで暮らしてたんですか、」
「いや、町に復興の兆しが見えはじめ、ネクタイを締めた人たちが増えてきたある日、彼はすくっと立ち上がったんです。尻の下でくくった片足と脇に折り曲げておいた片腕を引っぱり出し、大きく伸びをすると、ずんずん歩いて行きました。私たち子供はずいぶん残念に思いましたね。彼の物語りはおもしろかったから」
「その後、彼はどうなったんですかね」
「街へ出てテキ屋をやってるとか、筋者になったとか噂はありましたけど、本当のところは分かりません。だけど、彼がその後も元気に生きているだろうことは誰も疑いませんでしたよ。たくましい人でしたから」
ストーブの上でパンッとひとつ音がする。ぎんなんがはじけ出したようだ。先生が頬をほころばせて、ストーブの上を見る。
「どうしようもない堅い殻でもやりようでは簡単に割れる。中にはそれ、黄色いほくほくの実が隠れているんですから、これを割らない手はない」
先生はひとつ咳払いをする。
「面白いことや楽しいことというのは数珠つなぎなんですよ。楽しいことや面白いことをただ、それだけを理由に続けていると、ひょんなところからまた違う楽しいことの入り口が見えてくる。人が何を言おうと、これが好きだと思ったら、続ければいいんです。そのために働くのなら案外そこにも、楽しいことが見つかるかもしれない。広い駐車場を空から見ると、白い車のまわりには同じような色の車が集まってるもんです。類は友を呼ぶというでしょう。あれは本当ですよ。生きようとすれば、生かそうとするものが集まってくる。…まあ、きみの会社の人が聞いたら、詭弁だと言うでしょうがね」
僕は、先生が何を伝えようとしているのかを考えていた。
「先生は教職がお好きですか。楽しいですか」
「いえ、私が好きなのは文学とぎんなんです。長谷川くんも文学がお好きでしょう」
でも僕はもう進学を諦め、仕事も辞めようとしてるんです。そう言おうとしたが、先生は首を振り、それを制した。
「私が好きな本にぎんなん拾いの話が出てきます。ためしに真似をしてみたら、拾う楽しみのあとに割る楽しみと食べる楽しみが待っていました。それに気づいたのは五十を越えてからですよ」
ストーブの上でぎんなんが激しくはじけ出した。
「どれ、そろそろ頂きますかね」と、先生は満面の笑みで僕を見つめた。
それから僕と先生は焼きたてのぎんなんに塩を振り、黙々と食べた。最後の一つを譲ると、先生は嬉しそうに「そうですか、では」と言って口に放り込んだ。ゆっくりと噛み、そして嚥下すると「ごちそうさまでした」と頭を下げた。それをきっかけに僕も場を辞した。
階下に降り、受付の前を通ると、中から見ていたらしい女性が呼ぶ声がした。「ちょっとあなた」。
「すいません、誰もいなかったので記帳だけして上がってしまいました」
慌てて頭を下げる僕と帳面とを見比べて、「長谷川さん、卒業生ね。加島先生にご用事だったの…」。
ええ今会ってきました、とそう告げようとした時、彼女は残念そうに眉を寄せた。
「残念だったわねぇ。加島先生、もともと心臓がお悪かったから…。去年のちょうど今ごろ」
「え、あの僕が言ってるのは現国の加島先生のことですが…」
「そうよ、現国の加島先生よ。文芸部の顧問だった。…やだ、職員室だれもいなかったの、」
僕はつい今し方まで一緒にぎんなんを食べたあの人の顔を思い浮かべた。「もし受付のお嬢さんがいたら、きみはここへは来られなかったでしょう」という先生の言葉が思い出される。絶句している僕に、彼女は続ける。「お線香上げに行くならご住所教えましょうか、」。
僕が黙って頷くと、彼女は住所を調べてメモ書きしてくれた。
「先生ね、最後は卒業生には連絡してくれるなってことだったらしいの」申し訳なさそうに彼女は言った。
「そういう人ですから」僕は答えた。「僕にとっては父親みたいな人なんです」。
僕は銀杏並木を歩いていた。
雨は上がっていた。
先生、だったら僕は試しにもう少しやってみますよ。夜間大学にでも通うなりして、好きな文学をまた続けましょう。
足元にぎんなんが落ちている。
僕はそれを拾いながら歩く。
先生、ぎんなん拾いはけっこう骨が折れますね。殻がきれいになった頃、おうちへ届けに行きますよ。
先生がホッとまたひとつ笑ったような気がする。 |