第24話
冬に咲く桜(前編)
中元彩紀子 |
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クラシックが流れる二階の喫茶店。人気の少ない午後の禁煙席で、私はひとり“計画”を立てていた。暇を持て余してか、ウェイトレスの女の子がもう何度も水を換えに来ていた。そのたびに「ごゆっくりどうぞ」と彼女が発するのは、もう二時間もアメリカン一杯でこうして居座る私への嫌味なんかではなく、ただの記号だ。ごゆっくりどうぞ。いや、ゆっくりもしていられないのよ。そういう会話のための言葉ではない。何も言わない私のあとを継ぐように、新しくやってきた水の中で、レモングラスの葉は静かに揺れながら沈んでいった。
消失計画。
自分の存在を知る人達の世界から、私を消すための計画。激情に任せた自殺はタイミングを逸した。私がここで思案しているのは、自殺計画ではない。誰にも迷惑をかけずにただ消えてしまうための計画なのだ。資金はある。これまで地味に暮らしてきたおかげで意図せずとも貯まっていった預金がいくらかある。もし、この先どこかで行き倒れたとしても、葬式代くらい十分に賄える。大丈夫だ。辞表も今しがた書き終えた。行く先は決めていないけれど、ここでなければどこでもいい。テレビもラジオも新聞もないような場所が、今のこの国にあるとは思えないけれど、少なくとも私の生活範囲でしていた匂いがなければそれでいい。
明日の早朝、誰もいない事務所に誰よりも早く行き、課長の机の上に辞表を置いて、そして誰よりも早くおいとましよう。一身上の都合により退職いたします。さよなら。彼はどんな顔をするだろうか。ほっとするだろうか、それとも妻と別れてお前と一緒になるから、と追い縋るだろうか。それはあるまい。本社への栄転の話が内々にあったというあの日、二人が忍び会ってきたこの五年間が、彼にとっては重たい枷となったわけだ。ただ単純に、好きな人の幸福を喜ぶ私の目に映ったのは、なぜか彼のおびえる目だった。一番大事な時だから、二人のことを今周囲に知られたら困るんだ、だけどいつかきっと「なんとかする」から──。だから、おとなしくしていてくれ。彼にとって私は、不倫相手と一緒になりたくて、その転機をじっと待っていた女だったのだ。くだらない女。
バカじゃなかろうか。この五年間、彼は私の何を見て、私は彼の何を見てきたのだろうか。ふいにやってきた幸運によって白日のもとにさらされたのは、薄っぺらな彼の正体と私たちの関係だった。彼は私の驚きと落胆のその意味を、最後まで分からなかったにちがいない。憮然とする私に、彼は勘違いしたまま、滑稽なほど狼狽していた。
世の中にはどうしてこんなに白い車が多いのだろう。窓の外を白い車が通るたびに、意識がそちらに向いてしまう。瞬時にナンバーを確認し、落胆している自分に嫌気がさす。
嫌気がさして見上げた空は、雲ひとつなく真っ青だ。澄んだ空は怖い。空は心を映すのだ。悲しい気持を覆い隠してくれるはずの鈍色の雲が恋しかった。上を向いていたのに、やっぱり涙はこぼれてしまった。欠伸をしたふりをして、ちらりとウェイトレスの方を見やると、彼女も欠伸をしていたらしく、私と目が合うと、「共犯者ね」とでも言いたそうに肩をすくめて微笑んだ。
アパートの部屋の整理は二日もかからなかった。洋服は今着ているコートとマフラーを含めた一揃と、替えの下着を数枚カバンに詰め、それ以外はすべて近所の教会のチャリティーバザーに出した。持って行った時、その多さにずいぶん驚かれた。
食器類は丁寧に包んで、フリーマーケットが趣味だという大家にあげてしまったし、もともと少ない家具はリサイクル屋に引き取ってもらった。一番困ったのは本の類いで、中途半端な量なため古本業者は取りに来てくれない。かといって持っていくには少し多すぎた。仕方がないのでダンボールに詰め、その上にメモを置いておく。『捨てるにはしのびないので、置いてゆきます。すみません 向井さくら』
あの本たちを大家さんはどうするだろう。ゴミの日に出すだろうか。それともやっぱりフリマや古本屋でお金に変えるんだろうか。…どうでもいい。もう私には関係のないことだ。この世の些事にかかずらうのは止めたのだ。がらんとした部屋。食器棚や本箱が置いてあった場所の畳が不機嫌そうな青色をさらしていた。押し入れを開け放ち、こもった埃の匂いを外に出す。本の入ったダンボールの脇に、幾許かのお金を封筒に入れて置いた。大家さんへの不義理の詫び代だ。滅多に連絡をとらないとはいえ、家族は母親と妹がいる。万が一気紛れに電話をかけてきたとしても、すぐにはこの消失に気づかれないよう、電話は解約しないでおくことにした。旅行カバンのなかには、衣類と財布と全財産。それだけ。いっぱいかと思ったけれど、むしろスカスカなくらいだった。スカスカな人生。お誂え向きでちょうどいい。
翌朝、まだ暗いうちに家を出て、私は会社に向かった。ひんやりとした事務所のなかを、彼の席に向かってまっすぐ歩き、机の上に辞表を置いた。机の端に、私がいつか彼にあげたペーパーウエイトがあった。桜の花を閉じ込めた透明のやつだ。せめて私と同じ名前の花を毎日そばに置いて欲しい、といじらしい思いから贈ったものだ。だから、これは返してもらおう。とっさに手にとり、コートのポケットに入れた。そして、他には一切目を向けず、くるりと背を向けそのままドアを閉めた。十数秒のことだった。たったこれだけで、私はひとつ訣別できたのだった。あっけない終わりに、私は嘆息するだけだった。正直にいうと、階段を降りるとき、少しだけ泣いた。少しだけ。
目がさめると、車窓から見える景色は閑散としていた。目が慣れてくると、遠くところどころに集落らしきものが見える。どこなのかさっぱり分からない。車内アナウンスが流れ、聞いたこともない駅名を告げている。不意に心細くなる。車内には私の他には数人しかいない。私は記憶を辿る。東京駅に出て、新幹線に乗り、気が変わって途中で下車し、暗い色をした鈍行電車に幾度か乗り換えたのだ。最後に乗った車両の暖房が効き過ぎていて、ついウトウトし、目が覚めて今に至る。
長時間同じ姿勢で座っていたからか腰が痛い。伸びをしようかと立ち上がった直後、電車は見知らぬ駅のホームに入り、やがてドアが開いた。私は伸びをするかわりにカバンを手にし、そして降りた。幸い無人駅ではなさそうだ。改札から駅員室を覗くと、だるまストーブの前に初老の駅員がいた。
「すいません、」
声をかけると、彼は大儀そうにこちらに目をやり、立ち上がりもしないで「なんでしょ」と言った。
「ここって信州でしょうか」
彼は姿勢はそのままに目だけぱちくりさせて、何か言おうとしているが言葉にならないようだった。
「いえ、起きたら知らない駅だったものだから…」
「…起きたらって、おじょうさん、どっからきたのかね」
「東京です」
「東京から、どこへ行くつもりで?」
私は面倒になり、適当にごまかしてそのまま駅舎を出た。タクシー乗り場まで来て振り返ると、その駅員はまだこちらを見ているようだったので、慌てて空車のタクシーに乗り込んだ。
「どこ、」
運転手が無愛想に尋ねる。こちらはさきの駅員よりももっと老いた様子だった。白髪頭のてっぺんは磨耗し、首筋にも顔にも深い皺がある。
「…旅館に行ってください」
「旅館って言われても、どこの旅館かね」
「決めてないんです。どこでもいいんで行って下さい」
「この辺りじゃ、あんたみたいな女の人が泊まるような小洒落たホテルなんかないよ」
「いいんです。どこでも。さびれてようと、泊れるのなら」
「困るんだなぁ、行き先決めてもらわないと」
「よく知らないんです。泊れればいいの、どこでも」
彼は一瞬戸惑った様子だったけれど、すぐに車を発進させた。それきり、彼は何もしゃべらなかった。
「…なんか、山ばかりですね。寒いし」
誰とも話したくない日々を過ごしてきたというのに、いざ他人との間に沈黙が訪れると居心地が悪い。ついどうでもいいことを口走る。運転手は返事ともうなり声ともつかない奇妙な嘆息を漏らし、ただ車を走らせる。
三十分も走っただろうか、辺りはもう暗くなろうとしている。林道の先は真っ暗だ。林の向こうは崖だろうか。こんなところなら、死体のひとつやふたつ転がっていても分からないだろうな、と考える。生き直すなんて悠長なことを考えるより、そっちの方が手っ取り早いかもしれない。もう、面倒だもの。そうだ、最初からこうすれば良かったのだ。朽ちて、土に還る。このままうんざりしながら生きてくよりも、ずっと美しいじゃないか。そう思ったら急に笑いが込み上げてきた。私が、下を向いて肩を揺すっていると、急に車が止まった。顔をあげて外を見ると、前方の街灯に照らされて、ぼんやりと建物が見えた。
「あの、ここは…」私の問いに運転手は答えた。
「あんた、観光じゃないんだろ」
「え、」
「だったらここしかないよ」
「…ペンション、ですかね、」
「飯がうまい」
「満室だったらどうしましょう」
「空いてるよ」
「でも…」
「帰るときは電話しな、迎えに来てやっから」
ちぐはぐな会話ののち、料金を告げられ私は車から降ろされた。去って行く車のてっぺんには「個人」書かれた提灯が乗っていた。
吐く息が信じられないほど白い。そのまま凍って雪にでもなってしまいそう。思わず手をつっこんだコートのポケットのなかで硬いものが指先に触れる。彼の机の上にあったペーパーウェイト。
そう気づいたのと、目の端が何かをとらえたのはほとんど同時だった。視線を戻すと、建物の傍にちらちらとした白いものが見えた。雪、と思ったけれど、同じところで静止したままだ。木の葉に街灯の光が反射してるのか、それとも何かの花か。小さな白が、暗闇に点在している。
「桜、…なわけないか」
ひとりごちて、辺りを見回す。
霧でも出はじめたのだろうか。鋭い夜の色が、ほんのひと刷毛分だけ和らいだ気がする。
建物の入り口は木戸で出来ていた。その横に、木の枝で形どられた手作り風の看板がかかっている。
『森のボンテンホテル』
「空いてるといいけど」
そして私は足を踏み出した。
後編へつづく |