第25話
冬に咲く桜(後編)
中元彩紀子 |
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木戸を開け、ところどころ欠けた化粧煉瓦を歩く。夜露でうっすらと濡れているそこを、滑らないようにそろりそろりと進み、入り口のドアの前に立つ。
ごめんください。声は建物の壁をつたい、寒空に白く、頼りなく響く。しばらく待ったけれど何の反応もない。ノックする手に力が入る。
「ごめんください」
やがて、ドア脇のガラスの向こうに灯りが見え、人の気配がした。私が一歩退くと同時にドアは開いた。顔を出したのは大時代な丸メガネを鼻の上にちょんとかけた、かなり年配の女性だった。
「あれ、開いてますよ」
鍵なんかかかってないのに何をそんなところで突っ立っているのだ、とでも言わんばかりにその人は言った。えんじ色の、暖かそうなモヘアのカーディガンを羽織っている。
「宿泊したいんですけれど、お部屋空いてますでしょうか」
すると、彼女は当然だと言わんばかりに頷いて、なかに入れと促した。私はようやく安堵して、ほっと息をつく。
ロビーというにはいささかお粗末なスペースを、うぐいす色の古ぼけたソ応接ファが占領していた。傍らのマガジンラックには、いつのだか分からないほど古い雑誌がむりやり押し込まれている。周囲を見回す私に、
「寒かったでしょう。ちょっとそこに座ってて。今、お部屋あっためてくるから」
彼女はそう言って、玄関から正面に見える階段を上がっていった。手持ちぶさたになった私は、宿帳を探した。だがそれらしきものなどは見つからなかった。仕方ないので言われた通り、そのうぐいす色のソファに腰掛けた。宿帳には偽名を書こうと決めていた。それはそうと、女が予約もなしに訪ねてきたのだ。平静を装いながらも心のなかではきっと怪んでいるにちがいない。どうやって誤魔化そう。そうだ、雑誌の取材だと言えばいい。この辺りで道に迷って疲れたので泊まることにしたと言えば、大丈夫だ。宿代を先に払って、部屋とかサービスを適当に褒めでもしていれば怪しまれることもないだろう。しん、と静まりかえったロビーで私は考える。
さて、ここはどこなんだろう。周囲を見回したけれど、固有名詞らしきものは、知らない木工所の名前の入ったカレンダーくらいしかなかった。どこか外国の民芸品のような、およそ趣味がいいとは言えない小物が、出窓やカウンターに並んでいる。どれにも顔がついていて、みなあっけらかんと笑っていた。出窓のまんなかで一番場所をとっているのは、肩ひじで頭を支えて寝そべっている呑気なカエルの置き物だった。拍子抜けするほど牧歌的な物たちに囲まれて、私は着ていたコートを脱ぐ。何見てんのよ、あたしがこの森で死のうとどうしようと、あんたたちはここで明日も明後日もそうして笑ってればいいじゃないの。置き物にまで嫉妬した。舌打ちすると、さきのお婆さんが階段を降りてきた。
「部屋だけどね、ここんとこ無人だったからちょっと埃っぽかもしれないけど、でもじゅうぶん使えるから」
「あの、それで…」
「で、お手洗いは二階の廊下の突き当たり。ちょっと流れが悪いけど、今のところ修理の予定はなし。それと、お風呂は一階のそこの廊下の奥ね。サウナなんてハイカラなものはないわよ。と、それから…」
「あの…」
「あ、食事? 食事はまだなのよ。今日はみんな街まで出払ってて私だけなんで、ちょっと遅いの。もうじきシチューができるから…」
「そうじゃなくて」と私が遮ると、彼女は口をすぼめてきょとんとする。
「なんでしょ」
「宿帳とか宿泊代なんかは…」
「は? ああ、宿帳。そういうのないのよ。でも名前くらいは聞いておかなくちゃね。お名前は、」
「向井さく…」うっかり本名を言いかけてしまい、口をつぐむ。
「さくちゃんっていうの。古風なお名前ね」
彼女はさくちゃん、さくちゃんとつぶやきながら、カウンターのなかに入りポットから急須にお湯を入れている。
「はぁ…。で、一泊おいくらですか」
再び彼女はきょとんとし、「さぁ…私、分からないわ」と言った。分からない? 分からないってどういうことだ。彼女は顔をあげて言った。
「だって、私ここの主人じゃないんだもの」
「はい?」ますます分からない。
「しいて言えば、」と、彼女は茶碗に紅茶らしきものを注ぎながら言う。
「門番ね。いつもは一階の西の部屋に泊まってるの。これでもあなたと同じ宿泊客なのよ」
森のなかの古びたホテルに連れてこられ、私は見知らぬ老婆がシチューを作るのを眺めている。ロビーから続いている大きなダイニングテーブルの隅っこで、私は黙って彼女が動くのを見ていた。少し曲った腰をのばしてガス台の上の鍋を杓子でかきまわしている。片手を腰に当てて、もう片方の手でぐるぐるぐるぐる。なんだか、秘密の薬を調合している魔女みたいだ。手伝おうかとも思ったけれど、彼女の仕事を奪うような気がして何も言い出せないでいた。そうこうしているうちに、彼女は小さく「できた」とつぶやいた。と同時に、私のお腹がグゥと鳴る。この期におよんでまだ生きようとしていることに狼狽える。
魔女のシチューは絶品だった。おいしい、と思わずつぶやくと彼女は満足そうに頷き、あたりまえよ、と言った。ロイヒャーシュペックのシチューだもの。
「なんです?」
「ロイヒャーシュペック。ドイツ語で薫製ベーコンのこと」
彼女は得意げにそう言うと、おちょぼ口でシチューをすする。口に含むたびにいちいち頷くのが可笑しくて、私はつい笑ってしまう。
「そう、つい顔がほころぶほど美味しいシチューなのよ、これは」
彼女の勘違いも可笑しくて、私はまた笑ってしまう。
それからはただ無心で食べた。あれから今日までの私の食事は、気が向いたときにただ胃のなかに物を放り込むだけの行為で、それは生きるためや楽しむための食事なんかじゃなかった。味わいながら物を食べるのは何日ぶりだろう。食事の仕方を初めて知ったような気がした。食べ物をちゃんと味わって食べているときというのは、人は悲しいことを考えられないみたいだ。ああ、だから人は美味しい物を求めるのかもしれない。あんまり必死に食べる自分に気づいて、鼻の奥がつんとした。
「さくちゃん、おかわりは」
差し出された皺だらけの手に皿を渡す。魔女はまた背筋を伸ばして、鍋からシチューをよそう。
その時、カウンターの上の電話が鳴った。悪いけど出てちょうだい、と言われ、私は慌てて立ち上がり受話器を持ち上げた。だが、何と言っていいか分からず口ごもってしまった。すると、受話器の向こうから「なんだよ、寝てたのかいばあさん」と野太い男の声が聞こえた。
「あの、私、今日こちらに宿泊させて頂きにきた者で、」
どぎまぎしながら答えると、「ああ、なんだ新顔さんか」とそっけない反応が返ってきた。
──あのね、みんな帰りが明日の夜に延びたってばあさんに伝えてくれるかな。それとね、そろそろ戸締まりして、ロビーの火を落とせって──
「はあ、」
──あ、そうだ。あんた二階の部屋だろ。だったら二階の戸締まりはあんたがしといてよ。何せ年寄りだからいたわってやらないと。それにあんたラッキーだよ、今日くるなんて。ばあさんのシチューを一人占めだもんな。そのくらいはしても罰はあたらないよ、うん。じゃあ、頼んだよ──
「あの、宿代はどうしたら…」
最後まで言い終わらないうちに電話は切れていた。
「なんだって、」
魔女が聞く。言われたことを伝えると、彼女は電話の主と同じく興味もなさそうに、そう、と言った。
「今のはここの管理人兼料理人。もっとも本人は支配人だって言い張ってるけどね。今日は街まで買い出しに出かけたの。他の人たちも連れてね。で、ついでに遊んでくる。いつものこと」
「あの、」
「なぁに」
「ここって、ボンテンホテルっていうんですよね」
「そうよ」
「どういう意味ですか」
「さぁねぇ…庭に梵天花が植わってるからだとか、どっかの神様の名前だとか、いろんなこと言う人がいるからほんとのところはよく分からないわ」
彼女はそう言って笑う。
「お客さん、他にはいらっしゃらないんですか」
すると彼女は一瞬ののち、ぷっと吹き出す。
「お客といえば、私も客だけど。今出払ってる人たちもみんなお客。さっきの管理人もね」
そこまで話して、彼女はシチューを一口すする。そして口元をナプキンでていねいにぬぐい、続ける。
「みんな呼ばれるように来たの。一人来て、二人来て、廃屋だったここがいつのまにかホテルになった。誰も帰らない森のホテルなの。宣伝なんかしないからほとんど人はこないけど、あなたみたいなお客さんもごくたまに来るわ。何かその人だけに用意された理由があるんでしょう」
その人だけの理由。私にもここへ来る理由があったんだろうか。
「まあ、とにかくあやしいホテルにはちがいなわね」
だけど、と彼女は笑うのを止め、私の目をまっすぐに見て、そして言った。
「ボンテンホテルで死んだ人はいないのよ。一人もね」
私はその鋭い目を見て、初めてこの人は本当に魔女なのではないかと思った。身が三寸ほど縮んだように感じた。
魔女は黙ってこちらを見つめ続けている。ここへ来てから初めて見る顔だ。私はその顔を見ることができず、下を向いた。
私、死ぬように見えましたか。死にそうな顔をしていましたか。桜と同じ名前なのにちっとも華がなくて、もう枯れてしまったように見えましたか。誰にも愛でてもらえない桜なんていらないとは思いませんか。ほらこれ、きれいでしょう、桜のペーパーウェイト。これ、ちっとも色褪せないんです。どうしてかって、このなかで死んでいるからなんです。彼の机の上でずっときれいなままでいたんです。でも、どこへも行かれない桜だったんです。土曜日も日曜日も、私は彼の机の上で冷たくひっそりと沈黙していたんです。そこから飛び出した私は、もうどこへも戻れずただ枯れるしかないんです。私は、私は、私は…。
言葉は雪崩のように胸の奥から流れ出す。気づけば涙はスカートの上にいくつもの染みを作っていた。
魔女は身じろぎもせず、じっと私を見つめているようだった。そしてまた優しい声で「さぁ、もっとおあがりなさい」と言った。
「このベーコンはね、薫製ならなんでもいいってわけじゃあないのよ」
魔女の言葉に顔をあげると、彼女はもうすっかり元の穏やかな表情に戻り、私の手許を見ていた。
「桜で燻さなければだめなの。それもこの森の冬桜でないとだめ」
不意に、ペンションの表で見た光景を思い出し、私は尋ねた。
「そう、あれが冬桜。ぽつんぽつんと控えめに花をつけてたでしょ」
本当に桜だったんだ。
「冬桜はね、二度咲くのよ。春の桜みたいにいっぺんにパッと咲くのではなくて、下の方から少しずつ咲きはじめるの。秋になって葉が落ちはじめ、そして寒さに身をさらさないと花がちゃんと咲かないのよ」
「冬に咲く桜があるなんて知りませんでした」
「そうねぇ。桜といえば春だものねぇ。だけど、私は冬の桜が一等好きですよ。健気で、凛としてて。しかも、こんなに美味しいシチューを作ってくれる桜なんだから」
私はもう一度泣いた。
「凍えるほどの寒さに耐えたから、だからあんなにきれいに咲けるのよ」
翌朝まだ暗いうち、階下に降りてゆくと、魔女はもう起きていた。ガス台の前で夕べの残りのシチューに火をいれている。
「今朝、これをまた食べたらおかえりなさい。タクシーを呼んでおいたわ。宿代はいらない。私はお客だし」
「え、」
「庭の冬桜、そこから見てごらん」
言われるまま窓辺に近づき、冬桜を見る。その小さな花は、冷たい夜露に濡れても可憐に咲いていた。
「震えるような悲しい思いをしたんだもの、来年はきっときれいな花が咲きますよ」
振り返ると、魔女はやっぱり鍋をかきまわしている。
「ここはいつでも空いてるから、来年、やっぱり咲きそうにないと思ったらまたおいで」
部屋に戻って荷物をまとめると、私は窓辺に桜のペーパーウエイトを置いて出た。
「またいつか」
シチューをパンですくいながら食べる。
「咲きそうでも、また来ていいですか。これの作り方を習いに」
彼女は嬉しそうに頷いてくれた。
それから私は、夕べ寒さでこごえながら叩いたドアを、勢いよく開けた。
そしてふと思いつき、木戸のところで彼女を振り返る。
「お婆さん、本当は魔女なんでしょう」
そう笑いかけると、魔女はふわりと笑って手を振った。
近づいてきたタクシーがクラクションをならすを鳴らす。
冬桜の細い枝がちいさく揺れた。 |