air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第26話

林檎

中元彩紀子

 年末年始のかきいれどきを過ぎて、ようやくまた穏やかな日々が戻ってきた。そんなある冬の日のことだった。
  大通りを空車で流していると、沿道で控えめに手を上げている女性が目に入った。気づくのが遅く、だいぶ通り過ぎたところで止め、ドアを開ける。もうちっと小走りで来ればいいものを、女はゆっくりとこちらにやってくる。ミラー越しに女を眺める。ミラーとガラス越しでも女の着ているコートがくたびれているのが分かる。
  そういえば昔、貧乏だった頃、まだ若い娘だった姉貴があんな安物のコートを着ていたっけ。初任給で上等なコートを買ってやったら、泣いて喜んでいたっけなぁ。街のデパートでそいつを選ぶのに何時間も迷ったのを覚えている。去年の春先の葬式の後、衣裳ケースを整理していたらそいつが出てきたと甥っこが言ってたっけか。年の離れた姉だったから、早くに母親を亡くしてからは、母親代わりみたいな人だった。享年八十五。苦しまずに死んだのだから、大往生といってもいいだろう。
  とりとめのないことを連想しているうちに、ようやく女が乗りこんできた。
  「すみません、K駅まで」
  「はいよ」
  車内でのこの短い交渉が済めば、その瞬間から女はお客さまとなる。
  「こっからならS駅の方が近いかもわかりませんけどね。どうします、」
  「いいんです。人に会うので」
  そういうことか、それなら。と、車をUターンさせる。
  「バスに乗り遅れちゃって」そう言い、女はマフラーを外した。
  「どなたかのお見送りで、」
  ミラー越しに尋ねると、女は「ええ、身内の」と答えた。こういう場合、話題を掘り下げた方がいいか、それとも変えた方がいいかは長年の経験で心得ている。場合によっては、湿っぽい話につきあわされるはめになることもあれば、あからさまに「詮索するなよ」という顔をされることもある。また、話したがりの客というのもいて、この場合はその話の多くが退屈な自慢話に終始するのがオチで、これはこれでうっとうしいものだ。だが、女はそのどちらともつかない様子だった。たとえればそれは、近所でいきすがった顔見知りに尋ねられて、ただ答えたというくらい、何の感情も含まれていないものだった。
  大方、帰省した身内を、それより長居できる女が見送りに出向くのだろう。誰も行かないとなると角が立つ事情でもあるのかもしれない。朝の早い時間だ。誰が行くか軽く揉め、若いこの女に鉢がまわってきたのだろう。
  「じゃあ、その方もまた明日から仕事ってわけですね。正月は短いや」
  そう言うとミラーのなかの女は「ええ、まあ」と曖昧に微笑み、そして窓の外に目を向けた。こういうとき、話を続けてはいけない。沈黙のまま、車を走らせる。
 
  K駅か。俺のこの人生は、あの朝、K駅から始まったんだよなぁ。
  この田舎町を離れ、大きな電気メーカーに就職し、東京の外れにあるその工場に勤務した。たいした出世はしなかったが、そこで女房と知り合い、子供にも恵まれた。概ね平穏なサラリーマン生活だった。定年まであと二年というところで、会社の意向に従い、希望退職者となってこの町に戻ったのが七年前だった。ふつうに定年まで勤め上げてももらえるかどうか分からない退職金を、それより多く手に出来たのだから運がよかった。子供もとっくに独立していたし、故郷に戻ってのんびり暮らすことに女房も反対はしなかった。こうして、個人タクシーを生業としているのも余生の暇つぶしといっては神様の罰があたるかもしれない。そのくらい、平穏無事な人生だった。
  そういえば、と再び姉貴のことを思い出す。東京へ向かう日の朝だ。俺は見送られるのがいやで、親父も姉貴もまだ寝ている時間に家を出たんだったよなぁ。浪人生活を切り上げて、先に上京していた同郷の知人を頼って就職すると決めたときだった。正月に家族に打ち明けじきのことだったから、ちょうど今時分だったように思う。突然の申し出に、親父は渋い顔をしたが、姉貴は賛成してくれたっけ。告白の少し前から、風邪を引いて熱を出していた。風邪をひくと、いつも姉貴が林檎をすってくれた。そうだ、あのときすり林檎を入れた椀を枕元まで持ってきた姉に、俺は親父により先に打ち明けたんだったな。淋しそうな顔はしたが、すぐに「じゃあ、早く治さないと」と言い、スプーンですくって口元まで運んだんだ。俺はそれが照れくさくて、自分でできるからいいってば。そうぶっきらぼうに言って、スプーンを取りあげた。柔らかい果肉と果汁は、腫れ上がった咽に心地いい。今では風邪をひかなくても、時折女房に作らせるくらいだ。
 
  そのときだった。鼻先をかすかに甘い匂いがかすめた。思考が嗅覚を惑わせたか。林檎のような匂いがする。ふと見れば、女が傍らに置いた袋のなかを探っている。
  「あれ、なんだかいい匂いがしませんか、お客さん」
  女は顔を上げ、ああ、と一声漏らすと微笑んだ。
  「林檎です、これ」
  袋から片手を出すと、そこに赤い林檎がひとつ載せられていた。
  「ああ、やっぱり林檎ですか」
  「駅で会ったら持たせてやろうと思って」
  「林檎はすって食べるのが一番ですよ、なに、私にとってはですけどね」
  すると女はぱっと顔を輝かせて頷く。
  「そうなんです。だから、おろし金も一緒に持ってきたんですよ。でもよく考えたらどっちも東京にだってあるものなんだけど、つい慌てちゃって」
  女は照れくさそうに笑う。そしてメモを取り出し、何やら書き付けている。
  「あ、揺れて書き難いでしょ。あの信号を越えたら道が平たんになりますから…」
  「あ、大丈夫です」揺れる車内で、一心に書いている。
  もうじき駅舎が見えてくる、というところで女は腕時計に目をやった。
  「間に合わないかしら…」そうひとりごちた瞬間、ごろんと林檎が床に落ちた。
  「急ぎましょう」そう言い、アクセルを踏み込んだ。女はそれには答えず、沈黙する。そして、静かに口を開いた。
  「いいんです。一人で行きたいのかもしれないから。…ただ、私がいてもたってもいられなくて、追いかけてるだけなんです」
  どうやら想像していたのとは、事情が違うようだ。ひょっとして色恋か。
  「せっかく手紙まで書いたんだから、間に合いたいじゃないですか、ねえ、お客さん」
  「たいしたことじゃないんですよ。風邪をひくなとかうがい手洗いをしろ、とかね。どうでもいいことなんです。子供扱いするなって、年中叱られるんですよ」
  女は自嘲気味に笑う。
  一瞬のことだったが、俺は胸のあたりがざわりと音を立てるのを感じた。そして、女をまじまじと見た。
  似ている。それにみすぼらしいコート。どことなく見覚えがあった。正月明けの冬の朝。そして、林檎。ありえない、そう思いながらも、口が勝手に動く。
  「…あの、どなたのお見送りで、」
  女は言った。
  「弟なんです。年の離れた」
 

 ぐらりと揺れる世界にかろうじて耐えた。偶然だ、偶然に決まっているじゃないか。そう言い聞かせながら、俺は乗務員証に書かれた数字や、辺りの風景に目を走らせる。間違いない、いつもと一緒だ。当たり前だ。狼狽えながらも、そんな自分に苦笑したとき、ふたたび女は言うのだった。
  「突然、東京で就職するなんて言い出すものだから驚いてしまって。朝、起きたらもぬけの殻なんですよ」
  同じだ。俺のことじゃないか。
  「いつの間にか大人になってしまって、あの子。出て行くことを聞かされたときは寂しいと思ったけど、でも本当はそれ以上に嬉しいんです。ただ、思いついたのがこんなことくらいで、情けないですよね」
  そう言って、林檎をひとつ膝の上に乗せて静かに笑った。
  姉貴、あの日の姉貴を俺は見ているのか。
  ねえさんなの。あなたは、あの朝のねえさんですか。
  「大きな電気の会社なんですって。テレビでコマーシャルが流れるような。母が生きていたら、さぞ喜んだだろうって、父と話していたんですよ。苦労した分、幸せになってくれないと」
  俺は知っていた。この車は間に合わない。あの日、俺は確かにひとりで列車に乗ったのだ。ボストンバッグを下げ、ボックス席から見慣れた故郷の風景を眺め、そして家の方角を見た。心のなかで、眠っているはずの二人に、ごめんよ、とつぶいやいたのだ。
  何が俺にこれを見せているんだろう、そう考えたが答えは分からなかった。そのかわりに、これまで感じたことのない感情が込み上げてくる。
  「ねえさん…」
  「え、」と姉貴が聞き返す。
  「あ、いえ、…お姉さんの愛情はちゃんと伝わってますよ。…それに、きっと弟さんは幸せになります」
  俺はずっと幸せに生きてきて、今も幸せだよ。ねえさんのおかげで、俺はちっとも寂しくなんかなかったんだ。あの日、黙って出ていってしまってごめんよ。俺の乗った列車に間に合わずに、誰もいない駅舎で一人寂しかったろうね。けど、本当はこうして間に合ってたんだよ。そして、ねえさんもこれから義兄さんに出会って、子供にも恵まれて平凡だけど幸せな人生を送るんだよ。
  「ありがとうございます。そう言ってもらえると、安心します」
  姉貴が微笑んだ。
  車内は林檎の匂いで満ちている。
  「これ、渡せないかもしれないから、おひとつ差し上げますね」
  姉貴の差し出した林檎を左手で受け取り、俺は深く息を吸い込んだ。
  長く人生をやっていると、こういうこともあるのかもしれない。人が羨むわけでも憐れまれるわけでもなく、ただただ平凡に続いた人生にやってきた、ささやかだけど優しい奇跡だ。
  遠くに見えているはずの駅舎が、滲んでよく見えなかった。

 
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