第27話
ソテツさんの話 (前編)
中元彩紀子 |
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炬燵のうえで、ソテツさんはいびきをかいて寝ている。
私は、ソテツさんを起こさないように身支度をし、家を出た。店までの道のり、私は今回の出来事をマスターに教えるべきかどうか考えた。どうやって伝えよう。信じてくれるとは思わないが、そもそもソテツさんを私にくれたのは彼なのだから、やはりこれは教えた方がいい。と、いつもここまでは思うのだけれど、店でいつものように競馬新聞とにらめっこしているマスターを見ると、ああやっぱりあれは今朝みた夢なのかもしれない、という気分になって、結局何も言えずに終業時間になってしまう。そして私は、劇団の稽古に向かう。稽古場への道すがら、再び私は考える。「やっぱ言えばよかった」。だけど、仲間としゃべったり稽古しているうちに、またも「あれは夢だったのかもしれない」という不確かな記憶となって私は貝になる。うーむ、と悩めば眉間に皺がより、そういえばソテツさんが「そんな顔をすな。べっぴんが台なしや」と言ってたことを思い出す。
(ほら、やっぱりあれは本物よ。幻聴なんかじゃないわよ)
私は思う。
犬や猫がしゃべるというのなら、それを主張する飼い主の気持を思えば苦笑しつつも同調することはできよう。しかし、ソテツさんは。
「そう、ソテツさんは実なのよねぇ」
あらためてそう思うと、人々の反応が目に浮かぶ。同調ではなく同情の目で見られるだろうな、きっと。ひょっとして病院紹介されたりして…。そこまで考えて、「やっぱ言わなくてよかった」と思う私だった。これがもう三日続いている。
私が働く喫茶店は、うちからほんの五分くらいの駅前にある。マスターはおよそ経営者としては才のない人で、年中店をあけては旅をしているような人だ。それでもこの店を彼の父である先代から引き継いだのは、彼が山で足をケガし、勤めていた会社をやめなければならなくなったのと、先代が亡くなったのがちょうど同じ時期だったかららしい。
「儲からんでもいい。土地と店だけは手放すな」というのが、先代の最期の言葉だったらしいから、長男としては後を継がないわけにもいかない。ちょうどぶらぶらするのにも飽きてきていたし、渡りに舟だったというわけだ。それにしてもこの店、ほとんど客が入らない。駅前には外資系の洒落たカフェが林立していいるし、開発された小奇麗な駅前において、ここだけが時代がかった色合いで、なんだか時空の歪みを作りだしているように思える。
来る客といえば、みな一人客ばかりだ。一人でぶつぶつ話している女、旅行バッグを抱え、辞表らしきものを書いている女、ただ前方の窓の向こうをじっと見つめている青年。古ぼけた店内に彼らはみなうまく溶け込んでいる。異質なものをあえて探すなら、それは私かもしれない。茶髪で、一応は今どきの化粧なり服装なりをしている。友人のそのまた友人の紹介で私は今、ここで働いている。一目見たときから、陰気な場所だなと思ったが、何せ時給がよかった。時給を尋ねた私にマスターは「いくら欲しいの」と聞き返した。こんな流行らない店、時給千円なら働いてもいいか。どうせ却下されるだろうと思いつつも、「千…二百円」と告げると、マスターは「分った、それでいいよ」と言った。驚いた。それからもう半年だ。
客の誰もが、静かにその内側に入っているとき、私は外側から彼らを眺める。まるで古い映画を観ているような錯覚にも陥る。けれど、そのスクリーンのなかの彼らは、私の存在をしっかり認めていて、時々呼びつけるわけだから、私もまた望まずして時間の停滞した空間の一員となっているわけだ。それでも活気のなさは眠気を誘う。だから、私はいつも彼らについて想像している。あの一人でぶつぶつしゃべってる人は、きっと向いの席に誰かが見えてるんだ。それは、幽霊かもしれない。亡くなった身内とか知り合いの。で、奥の席で女が書いているのはきっと辞表なんだ。不倫相手である上司に対してなんとか自制心を保ちつつ、形式ばった文言を書き連ねているにちがいない。ひょっとしたら、これから傷心旅行にでも出かけるのかも。あの旅行カバン、それほど大きくないし。あのなかにロープとかカミソリとか睡眠薬が入っていないこと祈ろう。…と、こんな具合だ。
そして先日。最後の客と入れ違いに入ってきたのがマスターだった。ふらりと現れ、まるで客であるかのように、カウンターに座った。
「ちょっと、何日さぼってるんですか。どこ行ってたんです?」
言ったあと、ちょっと女房気取りみたいだな、と後悔した。マスターはそれには返事をせず「年末年始、店やってたの?」と聞き返した。
「開けましたよ。なんにも言わないでいなくなっちゃうんだもん」
「ごくろうさま。でさ、コーヒーいれてくれるかな」
マスターの今回の旅は、めちゃくちゃだった。四国でお遍路さんをしたかと思えば、九州の繁華街でチンピラとケンカをし、下関ではUFOにさらわれそうになり、広島で平和を誓った翌日に大阪の十三で散財。ひとしきり笑う。何がしたいんだか、分かりませんね。そう感想を述べると、彼は言う。
「僕はね、ただいろんなものをこの目で見たいだけなの」
こういうのを放蕩息子っていうんだろうなぁ、と考えていると、マスターは急に何かを思い出したかのように、身体じゅうのポケットを探り始めた。
「そういえば、きみの故郷にも行ってきたんだよ、神戸。いいとこだね、風情があって。同じ関西でも、大阪とは違ってちょっとハイソな感じで…あれ、どこやっちゃったかな」
「故郷っていっても生まれたってだけですよ。育ったのは関東だし。神戸は母の故郷です。といってももう祖父母もいませんけど」
「あ、そうだっけ。…あ、あったあった」
マスターはそう言って、尻のポケットから何かを取り出し、私の前に置いた。赤茶けたシワシワの物体。
「なんですか、これ」
「お土産」
そうじゃなくて、と言いかけると、マスターは合点がいったという顔をして頷いた。
「えっとね、あれだよ、あれの実。なんだっけ、聞いたんだけど、なんて言ったかな。…忘れた。なんか、ジュラ期にいっぱい増えた植物で、一年に2、3センチしか成長しなくて。だけど岩だらけの土地でも根をはって、台風でも絶対に倒れないっていう、あれ。すごい逞しいんだって。土砂をせき止めたりさ、防風のために使われたりする。ほら、南国とかによくはえてるやつだよ。そいつの実」
要領を得ない。
「椰子の実」
「な、わけないだろう、違うよ。…とにかくね、フェリーのなかでもらったわけ」
甲板のベンチで隣合わせた見知らぬおじいさんと、酒を飲みつつ世間話などをしているうちにマスターは眠りこけてしまい、目が覚めたときにはその人はおらず、彼の代わりにその実が落ちていた、というのである。その人が胡桃の代わりに掌で転がしていたうちの一つだという。
「そういうの、もらったとは言わないんですよ。しかも、お土産じゃないし。忘れ物じゃないの」
「ばかだね、こういうのこそお土産っていうんだよ。旅の記憶の裾を分けるのが本当の土産ってもんだ」
こうしてそれは私のもとにやってきた。
ある夜、私はうなだれて部屋に戻った。劇団の今度の芝居のオーディションで、望んでいた役が当たらなかったのだ。こういうことは初めてではないけれど、毎回こたえる。主役ではないけれど、即興で歌を歌うくだりがあることが魅力だった。それは入って二年目の女の子に持っていかれた。貪欲に野心を高ぶらせて主役を取りにいくわけでもなく、謙虚にちょっとだけ手を伸ばせば届くものを望んでもこれだ。そろそろ潮時かもしれない。
缶チューハイをあけ、ポテトチップスをほおばりながら見たくもないテレビ番組を眺めていたときだった。
「クゥーッ」
お腹が鳴ったような、子猫が啼いたような、沸騰しかけた薬缶のような音がした。
辺りを見回したけれど、音の出所は分からない。そして、また缶を口に持っていったときだ。
「はぁ〜」
今度はため息のような音がした。ぞっとして「何、何、何」と言いながら振り返る。誰もいない。炬燵のなかを覗く。念のため、トイレや風呂場も覗いたがもちろん誰もいなかった。部屋に見知らぬ男が住み着いていた、なんて恐怖の都市伝説が脳裏をかすめる。しかし天井の上は別の人の部屋だし、この一間のアパートに隠れられる場所なんかない。耳鳴りか、隣の住人がトイレで踏ん張っているんだ、きっとそうだ。そう思い直し、テレビの音量を上げ、再び飲み始めた。
「そんなにチビチビ飲むもんやない。貧乏くさいやないか」
今度ははっきり聞こえた。
声は炬燵の上からしたのだ。
テレビのリモコン、雑誌やメモ帳やボールペン、乱雑に置かれたそれらの物のなかで私の目に一番最後に飛び込んできたもの、それは店長からもらった例の実だった。
「何よ…何なのコレ」
お笑い番組の観客がどっと沸く。
「何って、失礼なやっちゃな」
天井の蛍光灯がジーっと鳴る。
「…実がしゃべった」
「あかんか?」
私はそのまま気を失って朝まで起きなかった。
夕べのあれはなんだったのだろう。そうだ、きっと配役に恵まれなかったストレスが幻聴を起こしたんだ。それとも夢だったのかもしれない。よく考えれば、ばかばかしい話じゃないか。きっと酔っぱらって寝ちゃったんだ。そうに違いない。起き上がり、炬燵の上を見ると、夕べのままだ。例の赤茶色の実もそこにある。こんなものがしゃべるわけがない。頭が冴えてくるにつれ、ばかばかしくなりつい笑ってしまった。そして、笑いながら立ち上がった時だった。
「朝から何笑うとる」
嘘だ。
「嫁入り前の娘が夜中に帰って酒飲んで、親が見たら泣くで」
嘘だ。
「なんや、なんか言うたらどや…あっ何をす、」
私はそいつを掴み、どこかに継ぎ目がないかどうか調べた。マスターが妙なものを仕掛けたのかもしれない。そう思ったのだったが、それはどこをどう調べてもただの実だった。にわかに鳥肌が立つ。
「あんた、何ッ」
たまらなくなって叫び、放り投げた私にそれは言った。
「何って、蘇鉄や」
これが私とソテツさんの出会いだった。
見知らぬ植物の見知らぬ実。
だけど、私はその声をずっとずっと昔、どこかで聞いた覚えがあった。
後編へつづく |