air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第28話

ソテツさんの話 (後編)

中元彩紀子

 マスターは、今日も競馬新聞を眺めている。店内には相変わらず生気のないお客が数人、コーヒーを飲み、欠伸をし、尻を掻き、そして手許の本に目を落としている。グリーンスリーブスが静かに流れはじめたとき、マスターが不意にこちらに顔を向けた。
  「あのさ、こないだの実だけど、」
  「ああ、あれ、ソテツっていうんですよね」
  「なんだ、知ってたのか。そう、ソテツ。鉄が蘇るって書いて蘇鉄。弱ってきたら幹に鉄を打ち込むんだって。そうすると蘇る。だから蘇鉄。変な植物だよねぇ」
  それより私はね、マスター。もっと変な状況にあるんですよ。あなたがくれたあの実、しゃべるんですよ。しかも関西弁でね。
  喉まで出かかった言葉をひっこめる。
  あれからソテツさんは、毎日炬燵の上にいる。いびきをかいて寝ていることもあれば、落語にチャンネルを合わせろと注文をつけることもある。それを無視していると、ちいさな声でぼそっと「一生つきまとうで」と威す。仕方なくチャンネルを合わせ、私がお風呂につかっていると、ドアの向こうから笑い声が聞こえてきたりする。そういえば、朝起きた私がテレビをつける前に「今日は午後から雨やで。傘もってき」と言うこともあった(実際、その通りになった!)。
  それにソテツさんは料理がうまい。もちろん、手も足もないわけだから包丁など握れない(口はなくてもしゃべるのだが)。つまり、私がたまに簡単な料理などしていると、背後からいろいろ口を挟んでくるのだ。ジャガイモが煮崩れるのを防ぐには梅干しをひとつ鍋に放りこめばいいとか、魚のウロコは大根でこそげ取れとか、うちの冷蔵庫の扉はそういうおばあちゃん的知恵を書いたメモが貼られるようになった。ひょいと顔を出した劇団仲間に「カオル、彼氏でもできたの、」と疑われた。
  ある日、部屋でこれもやっぱり劇団仲間と芝居の話などしていたときだ。彼は炬燵の上で静かにしているソテツさんをつかんだ。「いや、あの役は絶対カオルちゃんだと俺も思ってたんだけどさー」とか「次は俺の方からも口添えするよ」などと言いながら、ぽんぽんとお手玉みたいに手遊びしている。要するに彼は、私が稽古中にぼんやりしているのは、意中の役を後輩に奪われて落ち込んでいるからだと誤解し、私を慰めようとしてくれていたわけだけど、私はソテツさんがいつ怒り出すかと内心ヒヤヒヤするばかりで、彼の話など半分も聞いていなかった。思ったような反応を返さない私に肩透かしをくらった彼が、きまり悪そうに立ち上がってトイレに消えたとき、ソテツさんがささやいた。
  「はよ、どっかにしまえ」
  「やだ、しゃべらないでよ」
  「はよ、しまえ。便所帰りの手でさわられたらかなわん」
  「だからしゃべらないでってば」
  慌てて炬燵のなかにソテツさんを放り込むと同時に、彼が戻ってきた。
  「なんか今、男の声しなかった?」と聞かれたときはぎくりとしたが、とぼけていると彼はさして気にすることもなく、それから二時間も滔々と芝居の講釈をして帰っていった。炬燵から出すと、ソテツさんはぼやく。
  「鼻、もげるか思たわ」
  「鼻ないでしょうが」
  「そやった」
  そして、私が寝支度をととのえてベッドに入り電気を消すと、再びソテツさんは口を開いた。
  「あのな、あんた。ひとつ言うとくけど、ああゆう男はあかん」
  「なんで、」
  「あれはあんたを慰めに来たんとちがうで。相手が溺れとるやろなと決めてかかって、縄はいりませんかぁ安ぅしときまっせぇっちゅうやつやな。ただの押し売りや」
  「わかってる」
  「しかも、とんちんかんな講釈たれる水虫の侯爵さまや。…それに、嫁入り前に男を部屋にあげるのは感心せんなぁ」
  「大きなお世話」
  「とにかくあの男はあかん。それよりあいつの方がええ」
  「だれのこと、」
  「あんたの雇い主や。あれはあんたに九分九厘、惚れとるな」
  「うそよ」
  「しょうもないけどええ奴や。若い頃のわしそっくりや、うん」
  その夜はマスターの夢を見た。ソテツさんくらい小さくなった私が彼のリュックのポケットに入って一緒に旅をする奇妙な夢だった。なんだかこそばゆい寝覚めだった。
  こんなふうに、現われたときの衝撃とは違って、ソテツさんは私の生活にいつのまにかするりと入りこみ、私の毎日を心地よく乱した。
 
  再び競馬新聞に向かい、赤えんぴつで印をつけはじめたマスターに話しかける。
  「あれって、ほんとに蘇鉄の実なんですかね」
  マスターはくわえ煙草のまま顔を上げ、きょとんとする。
  「そう聞いたけど?」
  そうですか、ならいいんですけどね。私は、黙々とシンクを磨く。
  「そういえば、あれの持ち主だったじいさんさ、妙な人だったな」
  「どんな、」
  マスターは新聞をたたんで、足を組み換えると大袈裟に腕を組んだ。
  「ひとってのは皆“運び屋”みたいなもんなんだと。物や言葉や命やあらゆるものを運んでる運び屋。俺も親父の袋んなかで泳いでたのを、おふくろの腹まで運ばれて、それから誰かに運ばれた言葉に感動したり憤慨しながら育って、そんで今度は自分が誰かに命や物や言葉や機会を運ぶんだっていうのさ。運ばれた先で、そいつはどんどん育つ。だから人に何かを与えるときは、それは自分のものをやるんじゃなくて、かつて人から運ばれたものをまた運んでるだけなんだって。この世のものは何ひとつとして自分のものにはならない。どれもこれも肉体でさえ借りもんだ。だからさ、人に何かを施していい気になるのも、金だの名声だのを欲しがるのも、あの世から見てると阿呆らしくてヘソが茶を湧かすってんだよ、そのじいさん」
  「なんか、仙人みたいな人ですね」
  「だろ。目が覚めたらもういないから、ホントにあの世の人かと思ったよ」
  「まあ、少なくともマスターはあの蘇鉄の実を私に運んだことは確かですね」
  「じいさんが俺に運んで、俺がきみに運んだというわけだ。あとはきみがどこへ運ぶかだね」
  そうしめくくりながらマスターは、店の奥へと消えた。
  私はどこへ運べばいいんだろう。

 最後の客が帰り、店内の掃除を終えた。電気を消し、窓の外を見る。雲間に光る星の瞬きに外気の冷たさを思い、身震いしたときだ。マスターの口笛が聞こえた。
  「それ…蘇州夜曲」
  曲名が思わず口をついて出た。彼は「こんな古い唄、よく知ってるね」と言って驚いている。
  私はうろたえていた。どうして知っているのか私にも分からない。口をついて出た刹那、頭の隅っこの方に、日のあたる小さな庭と、ペンキの剥げかけた緑色の踏み台が浮かんで消えた。そして、胸の奥に何かほっこりと暖かいものが芽を出したような不思議な感覚が通り過ぎた。それはほんの一瞬だったけれど、平安に満ちた懐かしい感覚だった。困惑をごまかすために笑ってみせたけれど、なんだか頬がぎこちなかった。なぜだか胸がドキドキしていた。
  私は時計を見、予定でもあるかのようなフリをした。そしてカウンターに置いたバッグをひったくり「お先に失礼します」と、マスターの顔も見ずに店を後にした。
  どこにも寄らずにアパートへ帰った。買おうと思って掌にメモしておいたトイレットペーパーや牛乳のことなんかすっかり忘れていた。あの光景とあの感覚をもう一度反芻してみようとしたけれど、思い出そうとすればするほどそれは輪郭を失い、結局うまくいかなかった。
  床に入ってもなかなか寝つけず、仕方なしにテレビをつけると深夜映画がやっていた。知らない俳優ばかりが出ている洋画だった。踊子と学校教師のラブストーリーのようだ。二人の往復書簡が延々と字幕で流れている。文字の小ささに目が疲れるのに加え、写し出される二人の心証風景の退屈さのおかげで、ようやく眠りのしっぽをつかみかけた時だった。
  「道は長いでぇ」
  ソテツさんも起きていたらしい。
  「いやなに、昔のことやけどな」と前置きして、ソテツさんは話しはじめた。
 
  「昔、ある女と無頼男がおった。ふたりは夫婦になった。無頼男は無頼やから好き勝手しよる。女房はべっぴんやけど、心やすいええ女やった。そのうち子ぉが幾人もできた。女の子はひとり。可愛い娘や。娘は大きくなって嫁いでいった。嫁いだ男っちゅうんが、これがまた無頼男や。けどそれはそれや、仲良ぉ暮らしたから、そこにもまた娘が生まれた。その娘もやがてしょうもないのんとこに嫁ぐんやろなぁ…」
  「…え、それでおしまい?」
  「しまいや」
  「なにそれ、」
  「道は長いでぇ。人は長い道のりを、エッサホイサいろんなもんを運んでくんやな。大事な人らに、大事なもんを運び終えて、もうあとは勝手にうまいこと行くやろ、ってぇとこで現世(うつしよ)にお暇を頂くってわけや。残されたもんは悲しむが、そら見当ちがいやな。御霊にとってはちょうどころ合いがいいのを、連中は知らんのやな」
  ソテツさんがこんなに静かにしゃべるのは初めてだ。
  「なんの話なの、何が言いたいの」
  私の質問には答えず、ソテツさんは続ける。
  「あんた歌、好きやろ。しかもうまい」
  「聞いたことないくせに」
  「歌おてみぃ」
  「いやよ」
  何度かの応酬の末、ソテツさんの「一生つきまとうでぇ」に軍配はあがる。
 
─君がみ胸に抱かれて聞くは、夢の船唄、鳥の歌
   水の蘇州の花ちる春を、惜しむか、柳がすすり泣く。
   花を浮かべて流れる水の、明日のゆくえは知らねども
   こよひ映したふたりの姿、消えてくれるないつまでも─

 蘇州夜曲。どうして知っているのか分からないけれど、歌詞はちゃんと口をついて出てくる。私のずっとずっと奥の方からゆっくりと沁み出てくるようだった。日の当たる庭、ペンキの剥げた踏み台がぼんやりと脳裏に浮かぶ。それは店で感じたよりもずっとはっきりとした光景だった。それに、拍手する皺だらけの大きな手。それらがフラッシュバックする。新たな幻影に驚いて、私は二番までしか歌えなかった。あたたくて懐かしいその感覚は、すぐにつかみどころがないもどかしさに変わってしまう。私は何か忘れている。もどかしさはそんな確信へと私を導いた。
  黙ったままでいるソテツさんは、そうしていればただの蘇鉄の実だった。だけど、ソテツさんは目を閉じて聞いているだろう。そう思った。そしてその目をおそらくゆっくりと目を開けた。
  「あのな、おかあちゃんにゆうとけ。もうええかげんにせえて。もう十二年や」
  十二年? 母さん? 
  「あんたの歌はいつ聞いてもええなぁ」
  ソテツさん、あなた誰なの。
  「渡辺はま子よりずっとええで」
  その夜、ソテツさんはそれきり何もしゃべらなかった。退屈な映画はいつのまにか終わっていた。

 
  翌日、店に行くと珍しくマスターがエプロンをしていた。慣れない手つきでコーヒーを煎れている。私の顔を見て、ほっとしたような顔をした。「濃すぎるって怒られちゃったんだよ」とささやく。
  彼に代わり、私が煎れなおしてそのお客に運ぶ。その人が一口飲んでちいさく頷き、窓の外へ顔を向けたのを見て、マスターはカウンターのなかで安堵の表情を浮かべた。
  午後、ガラスを磨きながらソテツさんのことを考えるうちに、突然思いあたった。どうして気づかなかったんだろう。休憩時間になると、私は表に出て隣のビルの非常階段に腰掛けた。エプロンのポケットからケータイを取り出し、実家へかける。呼び出し音が数回鳴ったのち、母の「何、めずらしいじゃないの」と言う声がした。
  「ねえ母さん、あたしが生まれた神戸の家って小さい庭があった?」
──なによ、突然──
  「いいから、教えて」
──覚えてないの? あんた七才でこっちに来るまで、おじいちゃんちよく遊びに行ってたのよ。縁側からよく庭に出てたじゃない──
  「何して遊んでたんだろう」
──唄歌ってたのよ。物置きの踏み台引っぱりだしてきて、その上に乗って。おじいちゃんもおばあちゃんも褒めるもんだから、あんた調子に乗って…──
  「蘇州夜曲とか?」
──そうそう。おじいちゃんが好きでね、よく歌わせてたっけ。歌い手になるといいなんて言って、ひとりでその気になってたっけねおじいちゃん。でも、それがどうしたのよ──
  「母さん、」
──なに? どうしたの──
  「もしかして庭に蘇鉄があった?」
──ああ…あったわよ、たしか──
  やっぱりだ。
  「まだあるかな」
──だって、震災であの辺りはもう区画整理されちゃってるもの。あるわけないわよ──
  母の声のトーンが急に落ちた。十二年間、彼女は一度も生まれ育った町を訪れていない。実家とともに両親を失った悲しみと憤りを追体験する苦しさがどんなものかは私には分からない。けれど、あの頃の母の憔悴ぶりは、幼い私の心にくっきりと影を落としたにちがいなかった。母の悲しみに通じてしまうからこそ、悲しみの中心である祖父母とその思い出を、きっと私は瞬時にして記憶の隅に追いやってしまっていたのだ。
  「母さん、おじいちゃんがもうええかげんにせえって。悲しむには長過ぎるって。今度、一緒に神戸に行こう」
  一瞬の沈黙ののち、もう十二年も経つのね、といった声は少し湿っていたけれど、母は、いやだとは言わなかった。

 マスターはまた競馬新聞を読んでいる。店のなかは静かに物思うお客たちが、それぞれ干渉しあうことない物語をたずさえて、この見えないスクリーンに今日も写し出されている。
  「マスター、こないだの蘇州夜曲。あれ、祖父がすごく好きだったんです。だから知ってるの」
  なるほどね、と頷く。
  「そうそう、フェリーで会った例のじいさんが鼻歌で歌ってたんだよ、そういえば。それが耳に残ってたんだ」
  私はふと思い至る。その人は西の言葉をしゃべっていませんでしたか、マスター。そう尋ねようとしたとき、彼の口笛からあの曲が流れはじめた。
  今、私の手のなかには、もう何も言わないただの蘇鉄の実がひとつ。
  「マスター、これ実家の庭に埋めてみようかと思ってるんです」
  彼の目が「いいね」と微笑む。
  マスターが運んでくれた蘇鉄の実、今度は私が母に運ぶんです。

 
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