air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第29話

ヒヤシンスを買って

中元彩紀子

 その駅の、寂れた方の出口へ向かう。ひと気の少ないコンコースを進むと、当時はなかったエスカレーターが出来ていて、一瞬戸惑う。
  駅前には花屋があったはずだ。老夫婦がやっていた店だからいまはもうなくなっているかもしれない。花がなけりゃ行かなきゃいいだけのことだ。たまの休日に、ちょっと東京の西まで足を伸ばしてみただけのこと、喫茶店で本でも読んで帰ればいい。妻に仕事だと言って出てきた手前、そう早く帰るわけにもいかない。本当の理由を聞けば、なんぞありもしない想像を膨らませるに決まっている。言わなくてもいいことは言わないに限る。さてどこで時間をつぶそうか、それとも早帰りのうまい言い訳がそれまでに見つかるか、そんなことを考えながら歩をすすめるうちに、いつの間にか外に出ていた。
  (あのままじゃないか)
  ロータリーを前に見渡したその駅前の光景は、当時とほとんど変わっていなかった。駅前開発を告知する看板もそのまま、八百屋もケーキ屋も交番前の広場にある大きな欅の木もそのままだ。当時は放置自転車で埋まっていた一角に青空駐輪場が出来ていたり、銀行だったところがコンビニに変わっていたりと細かい相違点は見つかれど、全体のかもし出す安穏とした雰囲気は、やはり昔なれ親しんだものと何も変わらなかった。一瞬、時間を逆戻りしたような気持になったけれど、駅前にあったはずの花屋が、昨今どこでも見かける外資系のカフェになっているのを見るや、急に鼻白んでしまった。
  当たり前だ。二十年だぞ、おまえ。どこからともなく、そんな声が聞こえるような気がして、気持はなお沈んだ。

 彼女の死を聞いたのは、ほんの偶然からだった。先月、仕事の用事で電話をかける先を、うっかり一段間違えた。かかった先は、学生時代から新入社員時代にかけて世話になった不動産屋だった。事情を話し、恐縮しつつ電話を切ろうとすると、相手は「あなた、水上さんておっしゃった?」ときく。そうだと答えると、「ひょっとしてT大に通ってた水上くんじゃない?」と早口で言われた。電話に出たのは、当時から私をよく知る不動産屋のおばさんだった。
  「だって、うちの番号を登録してて間違えたんでしょ、おつきあいのある人だと思うわよ、そりゃ」
  「それにしても、すごい記憶力ですね」
  「だってあなたのしゃべり方、あの頃のままなんだもの。そそっかしいのもそのままねぇ」
  他愛ない会話だった。学生寮は建て替えられて新しくなってもう数年経つという。土地柄、学生ばかりを相手にしていた不動産屋だった。懐かしい懐かしいと連発するうちに、昔世話になった連中の話になった。
  「都ちゃん、あれから何年経つかしらね」
  おばさんはそんな風に言ったのだと思う。突然、当時のガールフレンドの名前が出て驚いた。
  「いや、ほんとにすごい記憶力ですよ、よく覚えてますね」
  すると、彼女は少し憤慨した声音で、当たり前よ、と言った。
  「あんな大きな踏切事故、忘れるわけないじゃない…」
  受話器を持ったまま私はしばらく言葉を失った。
  大学近くの踏切ならよく知っていた。開かずの踏切で、遮断機をくぐったことなど数知れない。あの踏切で、都は死んだというのか。早々に電話を切り、資料室で当時の新聞を検索した。
  S市の踏切事故。明け方、踏切内で立ち往生していた乗用車に折悪しくやってきた電車が衝突。運転していた二十六才の大学院生…。
  そこまで読み進め、都の名前と重体の文字を目にしたとたん私は項垂れた。私には知らされなかった。日付けを見ると、彼女と別れてから五年近く過ぎた頃のことだ。だいぶ経っていたとはいえ、なぜ誰も教えてくれなかったという憤りと、なぜ気づかずにいたのだという自分への怒りとで眼前がくらくらした。出勤する朝、人身事故で電車が止まったことはこれまに何度もあった。そんなとき、私は忌々しく舌打ちしたのではなかったか。
 
 沈んだ気持のまま泳がせた目がとらえる。
  (あのビル…)
  美容院やエステサロンの入った建物が並ぶなかに、鈍色の古い小さなビルが建っていた。二階に時代遅れという言葉すらおこがましいほど古い日よけのついた窓が見える。
  『ヒュアキントス』は、二十年前もそこにあった。口ひげのマスターがいれてくれる珈琲が、最高に旨い喫茶店だった。都と二人で通いつめた店だ。あの店がまだあるとは思わなかった。それが目の前にある、と思う間もなく、私は窓側の一番右の席に目を走らせ、と同時に苦笑する。
  (いるわけがないよなぁ)
  窓側の一番右の席に、あの頃の僕らの姿を探してしまった。感傷的になるには遅すぎる。
  店に入ると、そこは驚くほど当時のままだった。ドアを開けると、聞き馴染んだカウベルが鳴る。鳴ると同時にかけられた「いらっしゃいませ」の声までそっくりだった。声の主を見、一瞬声を上げそうになる。あの頃のマスターが年も取らずにそのままそこに立っているのかと思った。よく見れば別人であることは間違いない。面差しが似ているところを見ると、息子か誰かなのだろう。
  狼狽を隠そうと咳払いをし、窓際のテーブルにつく。ストロングを注文し、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 都との別れは苦々しいものだった。大学を卒業したら結婚するつもりだった。少なくとも、私はそのつもりでいた。都は大学でも群を抜いて美しく、才能のある女性だった。建築学を学んでいた彼女に大学側から特待での留学の話が上がったのは、私が卒業する年の暮れのことだった。建築家を目指していた都にとっては願ってもないいい話だった。私にもまた大きな夢があった。
  「ゆくゆくは屋内だけでなく人の住環境、ひいては街全体をトータルプロデュースするようなデザイナーになりたいんだよね。だからさ、一度は海外に出て勉強したいんだ」
  二人でよく待ち合わせた喫茶店の窓際の席で、私の広げるそんな大風呂敷を、都は嬉しそうに眺めてくれていた。
  そんなごたいそうなことを言ってはいたが、実際に就職活動を開始するだんになると、私はサラリーマンの道を選んだ。好景気の時代だ。苦もなく一流の会社から幾つも合格通知が届いた。私が嬉々としてそれを告げると、彼女は寂しそうな顔をした。私は腹を立てた。今思えば、優秀な彼女に嫉妬していたのかもしれない。将来のある彼女にその時点で勝てるとしたら、それは生活の安定を保証する社会的な大樹だった。
  「陽ちゃん、それでいいの」
  「いいのって、何だよ」
  都はうつむいて黙り込んだ。私は焦った。焦りながら、その会社に就職することがどれだけのステイタスになるか、まだ配属先も決まっていないのにその仕事がどれだけやりがいのあるものか、大学院に通う妻がいたって余裕の生活を送れるといったことを、言い訳のように早口で並べ立てた。だから結婚しよう。そんなむちゃくちゃな、相手の品性を馬鹿にしたような論法が彼女を失望させたのは明らかだった。
  少し考えさせてほしい、という彼女の一言から、私たちは少しずつダメになった。嫉妬と焦りと憤慨とでごちゃまぜになった狭量な男は、恋人の幸運を喜んでやれなかった。「陽ちゃん、私が留学から帰ってくるまでにいい男になっててよね」と言ってくれた都に、私は別れを告げたのだ。不思議なもので、あれだけ束縛したかった彼女をいざ手放してみると、自由になったのは自分の方だった。どだいうまくいかない相手だったんだ。無理していたんだ。自分にそういい含めて安酒をあおってくだをまいた。友人たちにもどれだけからんだかしれない。凶事が知らされなかったのは、むしろ友情からだったのだろう。

 心はすっかり二十年前に遡っていた。匂いにまではっとさせられる。窓が細く開いた背中の方から、珈琲の匂いに混じって甘い香りがした…ような気がする。
  (ヒヤシンス…)
  「この店の名前、陽ちゃん、意味知ってる」
  「知らないよ」
  「ヒヤシンスのこと」
  「花だっけ、それ」
  「そう。ヒュアキントスってね、ギリシャ神話に出てくる美少年の名前なんだよ。アポロンとヒュアキントスはまわりが嫉妬するくらい仲良しだったんだけど、鉄の輪投げの競技のときに、アポロンが投げた鉄の輪が頭にあたってヒュアキントスは死んでしまうの。アポロンが嘆き悲しんでいると、ヒュアキントスの血が落ちた場所から芽が出てね、甘い香りの花が咲いたんだって。それがヒヤシンス。その花びらにはギリシャ語で悲しいっていう意味の『Ai』って文字が浮かんだんだって。でもさ、日本語なら『Ai』は愛してるのアイだもんね」
  「都はいつだってご都合主義だなぁ」
  「ねえ、陽ちゃんは、私が死んだらアポロンみたいに悲しんでくれる、」
  「当たり前だろ。縁起でもないこと言うなよ」
  「花にはそれぞれ意味があるのよ。私はヒヤシンス大好き。かんざしみたいなのよ。すごくおしゃれでしょ」
  はるか昔に交わされた会話を不意に思い出し、私は立ち上がる。私がレジに立ったのを見ると、店の主人は競馬新聞をたたんだ。
  「この辺りに花屋ありませんかね」
  「花屋なら、そこのコンビニの角を曲って五十メートルほど行くと不動産屋があるんだけど、その手前の路地入ってすぐのところにありますよ」
  「ああ、不動産屋ってひょっとして溝呂木不動産、」
  「そうそう、溝呂木さんとこ」
  なんだ、おばさんのところか。そうひとりごち、階段を降りる。踏切の隅っこに鉢植えなんておかしいだろうか。それでも、自分の思いつきにこだわりたいのは、年甲斐もなく感傷に浸っているせいだろうか。
  言われた通り、花屋は路地の入り口にあった。鉢植えの花はたくさんあったけれど、どれがヒヤシンスなのか皆目見当がつかない。小さな文字で書かれたカードを屈んで読んでいくと、果たしてそれは見つかった。ピンク色の簪のような花だった。鼻を近付けなくとも匂いで分った。それにしても、踏切の隅に、しかも十数年も前の事故を理由に鉢植えなど供えてもいいものだろうか。おばさんなら、きっと葬式にも出席しただろう。彼女の眠る墓の場所くらい知ってるかもしれない。
 

 二十年ぶりに会うおばさんは、だいぶ白髪が増えていたものの、まだまだかくしゃくとしていて電話で受けた印象通りだった。名乗るまで分からなかったところを見ると、変わり様ではこちらの方が上だったのかもしれない。
  「ほんとに水上くんなのぉ、」
  「ご無沙汰してます、ほんとにおひさしぶりです」
  すすめられて、ソファに座る。黒い革張りのソファも懐かしい。さっそく都の墓について尋ねようとすると、おばさんが先に口を開いた。
  「こないだ、慌てて電話切っちゃうんだもの。何か悪いことでも言ったのかと思っちゃって」
  あのときは都のことを知らなかったと悟られるのを、適当な相槌でとっさに誤魔化したのだった。知らないでいたということが、彼女への裏切りのように思えた。
  「ちょっとバタバタしてたもんで…」
  いや、それで彼女のことを思い出して墓参りでもしようかと思ったんですよ、ええ。すっかり無沙汰をしてますんでね、ええ。口のなかで反芻する。
  「そそっかしかったもんねぇ、あなたは。家賃が多かったり、忘れたり。引っ越しのときなんか、一番大きな荷物忘れてったり。それでもこんなに立派になるんだものねぇ」
  おばさんの話によると、あの時代の幾人かはまだこの近辺に住んでいるらしい。名前を言われてもついぞ思い当たらなかった。
  「だけどさ、そう、都ちゃん」
  肩がびくんと揺れる。
  「彼女は立派よねぇ。車椅子だって何だって関係ないんだわね」
  「え、」
  一瞬の沈黙が流れる。
  「…知らないの、川向こうに出来たバリアフリーマンション。あれ、都ちゃんが作ったのよ」
  混乱した頭で訊ねる。
  「……。彼女って、あの踏切事故で、」
  「そうよぉ。事故で足は不自由になったけどさ、それを逆手にとっちゃうんだものね。そうそう、あのマンションでおっきな賞とったのよ、都ちゃん。こないだ、それを言おうと思ったのにあなた電話切っちゃうんだもの。…あたしも老いぼれたらあそこに入ろうって決めてんの。あ、記事がどっかにあったっけ」
  呆然とする私をよそに、おばさんはマガジンラックをゴソゴソかき回している。
  生きていたのか。
  死んだのではなかったのか。
  生きて、あの頃の夢を叶えて幸せにしているのか。
  「あった、あったこれこれ」
  付箋の貼った頁が開かれた。
  差し出された頁に視線を下ろすと、そこには、美しく年を重ねた都が照れくさそうに微笑んでいた。
  『住む人も訪れる人も優しい気持になれるような場所を作るのが夢だったんです』
  ゴシックの太字が目に入る。
  記事には、略歴とともにこれまでの道程にも数行触れられていた。家族は夫と子供が二人。
  「彼女は幸せなんですね」
  口にしたとたん、笑いがこみあげる。
  「どうしたの、水上くん」
  突然、笑いだした私におばさんは不思議そうな顔をする。
  「いや、おばさんの言った通り、相変わらず僕はそそっかしい男ですよ。何にも変わっちゃいないんです。…だけど、大事な人の幸せを一緒に喜べるくらいには成長したみたいですよ」
  意味がつかめず、なおも首を傾げるおばさんに僕は足元のヒヤシンスを差し出した。
  「これ、そこで買ったんです。あんまりかわいい花なんで。おばさんに」
  おばさんの顔が華やぐ。
  おばさん、ヒヤシンスってヒュアキントスっていうんですよ。ほらそこの喫茶店の名前と同じ。僕ら、あそこによく行ってたんです。ああ、それでね。ヒュアキントスっていうのはギリシャ神話に出てくる人の名前で──。
  休日の午後、そそっかしい男とどこにでもいる不動産屋のおばさんは、ヒヤシンスを挟み、二十年分のおしゃべりに興じている。明日は春一番が吹くらしい。

 
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