air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第31話

春の校庭

中元彩紀子

 姉が久しぶりに一泊していった。僕のいない間にどんな時間をあのふたりが過ごしたのかはしれないけれど、翌日、母は庭で鼻唄などうたいながら土いじりをしていた。姉は帰りしな、また来るね、と言った。僕にではなく、それが母に向けられた言葉なのは明らかだった。姉は玄関で振り向いて、僕と母の間の何もないところを見て、そそくさと言い放ったのだ。照れくさそうに、また来るね、と。雪解けってやつだ。
  つくづく時間というのは不思議だと思う。時間、で思い出す。時間というのは人間がつくり出したもので、実は瞬間しか存在しないのだ、と言ったのは同僚の春田先生だ。すべては一瞬のうちに起きている。映画のフィルムのコマのようにすべての瞬間は同時にあって、僕らはそこを移動している…んだったか。しかも想像しうるすべてのパターンがそこにはあり、僕らはそこを無意識にチョイスしている…んだったか。なんだか、ややこしい話だったな。
  縁側に立って歯を磨きながら想念で遊んでいると、庭の母が振り向く。
  「忠司、遅刻するよ」
  「もうはるやふみらよ、かあはん、ぼんやりらね」
  泡だらけの口で返す。ああ春休みね、と母は納得した顔で頷いた。
  「そりゃうっかりしてた。だけど、なんだかここんとこ空も空気もぼんやりしてるねぇ」
 

 「さっきのさ、空とか空気がぼんやりしてるのって春がすみっていうんじゃないの」
  口を濯ぎおえ、ふだんよりのんびりした支度を終えると、僕はそう答えた。
  「そういえば、あんたが小学校に入学する頃、ちょうど今時分、」
  母は手を休めて何かを思い出すように遠くを見、次の瞬間くつくつと笑う。
  「あんた、ランドセルが嬉しくて、毎日背負っちゃあ学校まで行ってたっけね」
  「そうだっけ」
  「入学式の日まで毎日だよ。父さんと一緒に支度して、一緒に家を出てさ。学校の校庭でひとりで遊んでたの。憶えてないの、」
  「そうだっけかなぁ」
  「それはそうと。春がすみだかなんだか知らないけどさ、こういうぼんやりした日なんだよ」
  「何がさ」
  「春先のね、こういううすぼんやりした日には時々おかしなことがあるって、昔ばあちゃんが言ってたっけ。春っていうのは時間や記憶があやふやになる季節なんだって。忘れ物しないようにおしよ」
  そういうもんかな、とあいまいに返事をし、僕は職場へ向かった。歩いて十五分の小学校。そこが僕の職場だ。
  自分の卒業した学校へ赴任してきたのは去年のことだ。校舎の壁が塗り替えられ、遊具が少し減り、渡り廊下に柵ができたくらいで全体的にはほとんど当時と変わっていなかった。ここへ赴任してきてから、気づいたことがある。僕は小学校時代の記憶がひどく曖昧なのだ。家でのことはなんとなく憶えている。母と姉は不仲だった。父が姉を叱っていた様子も憶えている。僕は父が姉を叱りつける声が怖くてならなかった。父も母も明るく優しかったし、姉も僕には優しかった。だからそんな彼らが不仲だったのが不思議で、とても悲しかった。そういう感情まで記憶しているのに、学校のこととなるといけない。教室の雰囲気や、校庭の砂埃、運動会や遠足のことは教師になってからの記憶がかぶさってしまい、どれが自分の子供時代のものなのかはっきりしない。職業病のようなものなのだろうか。残念だ、と思う。ただひとつだけ、気に掛かるというほどのことでもないが、当時を思い出そうとすると必ず頭の片隅に浮かぶ光景がある。記憶というにはあまりに頼りないほんの欠片のようなものだ。
  泣いている僕の前に、父ではない男の人が立っている。次の瞬間、僕は横に伸びた鉄の棒を握っている。ふわふわした感じがする。たぶん雲梯だ。右、左、と腕を伸ばすと、身体が勝手に前へ進む。進むと同時に楽しくなって、僕はけらけらと笑う。そんな記憶だ。

 休み中の誰もいない校庭を横切り職員室へ入ると、春田先生が先に来ていてお茶を飲んでいた。
  「あれ、風間先生も日直ですか、」
  「いえ、僕は雑用です」
  ああそう、と軽く頷き、僕にもお茶を入れてくれた。つと顔を見ると、頬に線がついている。さっきまで机に突っ伏して居眠りしていたのだろう。
  「春眠にはまだ早いですよ、春田先生」
  そう言って頬を指さすと、彼女は慌てて壁にかけられた鏡に向かった。いやだいやだを連発しながら、けらけら笑っている。頬を擦りながら、鏡ごしに「そういえば、」と話し掛ける。
  「風間先生ってこの近所なんですよね。小学校もここなんでしょう」
  「そうですよ」
  「この学校の桜の木って見事ですよね。あたしがここに来る前にいた学校って、校庭はゴムで桜は小振りで、ちょっとしかなかったんです。ここに赴任してきたときは、初めての場所なのに懐かしいって思いました。遊具も多いし、プールとか体育館の脇に畑とか花壇もあるし、子供の頃に戻って探索しちゃいましたよ」
  「僕が通ってた頃は、ジャングルジムやシーソーもあったんですよ。危険だってんで、どんどんなくなりますね」
  「そうですねぇ。あたしは鉄棒が苦手だったから、鉄棒なんかなくなっちゃえばいいって思ってましたけどね。風間先生は、鉄棒得意だったでしょう」
  「いや、僕はどちらかといえば雲梯の方が、」
  そこまで言いかけたとき、校庭の隅に人陰が見えた。話を続けながら、窓へ近寄り目をこらす。人陰は、子供だった。ランドセルを背負っている。学校はまだ始まらないのに、何をしているんだろう。
  「ちょっと、僕見回ってきます」
  話を切り上げ、職員室を出た。

 玄関を出、校庭に出ると眼前がぼんやりと霞んでいる。乾いた校庭の土が埃のように舞っているのか、と思ったが風はない。さっきの少年を探すと、彼は砂場の縁に腰掛けていた。そうしていると、まるでランドセルから手足がはえているみたいに、まだ小さな男の子だった。
  「どうしたの、春休みなのに」
  そう声をかけた僕を、彼は眩しそうに見上げた。その目の縁が幾分赤いのに気づく。
  「もしかして、新一年生かな」
  男の子は頷く。
  「そうか、待切れなくて来たんだね」
  やはり黙ったまま頷く。
  不意に、今朝方の母との会話を思い出す。
  「入学式まであと少しだね」
  「おにいさんはせんせいなの、」
  「そうだよ」と頷くと、彼は赤い目をこすり立ち上がった。
  「…あそこで遊んでも、いい、」
  男の子が指さしたのは、雲梯だった。
  「いいとも。幼稚園のよりも大きいだろう、届くかな」
  「せんせいは届く、」
  「よし、じゃあ一緒にやってみようか」
  こうして僕たちは雲梯に向かって歩きだした。
 
  小さな背中からランドセルをおろしてやる。軽くてぴかぴかだ。彼はそれを大事そうに傍の植え込みのブロックに置く。よほど入学するのを楽しみにしてるんだろう。
  雲梯の前へきて、彼は躊躇する。彼の背丈では雲梯の昇りに足をかけるのが精一杯だ。こちらを見上げる彼にひとつ頷いて、僕は先に手本を見せてやる。手を伸ばさずとも届いてしまう雲梯は、足を持ち上げなければならないぶん大人の方がやりにくい。それでも何とか向こうの端まで行き振り向くと、彼は目を見張って僕を見ている。口をかたく結んで、足に力をこめ一段一段昇る。
  ようやく上段に立ち、肘をうんと伸ばして最初の棒に手をかけようとするが、なかなか届かない。ここでケガでもされては大変だ。慌ててかけより、腰を支える。支えながら、身体を前方へ促すと右手が届いた。
  「ほら、届いたぞ。支えててあげるから、左の手も前に出してごらん」
  慣れさせるために、身体をしっかり支え、前へ押し出してやる。二番目の棒へ左手がのびる。幅が広くてぶら下がるには少し厳しそうだ。
  「こうやって、勢いをつけて進むんだよ、いいかい、ほら」
  支えながら、感覚をつかませる。僕が促す前に、手を前へ前へと出そうとする。足の振りが大きくなる。
  「そうだ、そうだ、もうちょっとだ」
  身体を支える力を抜く。すると彼はこれ以上開かないくらいに腕を伸ばし、その重みに一瞬顔をしかめる。
  「だいじょうぶ、ちゃんと支えててあげるからそのまま進んでごらん」
  男の子の息が荒くなる。
  「あと、ひとつだ、それっ」
  最後の棒に手が伸びた。
  小さな手が棒をしっかり掴む。そして後ろの手が棒から離れたと同時に、僕らは声をあげた。
  「やった!」「できたなぁ!」
  「もういっかいやる!」
  彼はもどかしそうに向きをかえると、再び腕を伸ばした。今度は軽く支えてやるだけだ。さっきよりずっと勢いがある。コツをつかんだようだった。真ん中まで来たときにバランスを崩し、慌ててそれを支えると、それがくすぐったかったのか彼はけらけらと声を立てて笑った。その声を聞いた瞬間、突風が吹いた。
  思わず目をつぶる。砂つぶが入ったらしい。男の子を片手で支えながらそのまま最後まで進み、一往復しおえた時だ。
  「あっ! おねえちゃん!」
  おねえちゃん? 校門の方へ目をやると、砂埃の向こうに中学生くらいの女の子の姿があった。部活動の帰りだろうか。
  「せんせい、ありがと。ぼく帰るね!」
  男の子はランドセルを掴み、校門へ向かって駆けてゆく。僕は砂の入った目を擦りながら、砂埃の向こうにぼんやりと見える姉弟の姿に目をやった。女の子は彼にランドセルを背負わせていた。こちらもさて、と、職員室へ向かって歩き出したとき、僕ははっとする。奇妙な感覚に包まれその場で立ち止まってしまった。急いで振り返り彼らの姿を探したが、もうそこには誰の姿もなかった。

 「かあさん、オレ小学校に入学する前の春休み、よくランドセル背負って学校遊びに行ってたって言ってたろ、今朝」
  「思い出したの、」
  小学校に上がるのがとても楽しみだった春休み、僕は毎日学校へ予行演習に出かけていた。ある朝、姉と母が言い合いをして、姉がうちを飛び出していった。追い掛けようとする僕を父が止め、母が宥めた。いつものことだったにちがいない。僕は日課になっていた予行演習に送りだされ、泣きながら校庭に向かったのだ。やがて通うことになる学校の校庭で遊び、僕はいつもわくわくしていた。だけど、その日は違っていた。大好きな姉と両親のケンカが悲しくて、砂場でしゅんとしていたのだ。そんなとき、あの記憶のなかの男の人が現われたのではなかったか。
  「その時学校にさ、姉ちゃんが迎えにきたことってあったかなぁ」
  「あったかねぇ」
  「姉ちゃんと母さんたちがケンカしてさ、姉ちゃんがうち飛び出して、でオレはべそかきながら学校に行って、それで…」
  「そんな細かいことまで憶えてないよ、なによ急に。へんな子だね」
  母は笑う。そうだよな、そんなわけないよな、とひとりごちる。
  「とにかくあんたはね、年中校庭で雲梯やってた」
  「え、」
  そんなことより早く食べ終えろ、母は急かす。洗い物が片付かないとぼやいている。
  僕はまたもぼんやりと、そう春がすみのような頭で遠い昔を思い出す。今と過去が交差する一瞬に、僕は立ち会ってしまったのかもしれない。そんな奇妙なことを考えた。
  桜のつぼみがほころび始めた。
  もうあと少しで、あの頃の小さな僕も小学校に入学だ。

 
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