第32話
朧月夜の白い猫
中元彩紀子 |
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校庭のプールの西側は、その奥の雑木林に沿う遊歩道と隣接している。
金網の破れたところから、一匹の白い猫が出入りしているのを初めて見かけたのは、たしか終業式のときだった。
夜も更けた頃に忘れ物を思い出し、学校へ取りに戻ったのは夕食後にお風呂に入ったあとだったから、たぶん八時をまわっていたはずだ。そのせいで湯冷めして風邪をひいた。
ふと見上げると、曇天にもかかわらず雲間から月が覗いていた。
辺りは生暖かい風が途切れることなくゆるりゆるりと吹いている。
私は、校門から真直ぐに職員室へ向かった。視界の片隅に何か白いものが横切ったような気がしてそちらに目をやったが、それは闇にまぎれてしまったようで、プールと鉄棒と百葉箱がしんと静まった校庭の隅に柔らかい影を落としているだけだった。
昔、大伯母から聞いたことがある。
春の月はね、あまり長いこと眺めていていると、不思議なものを見せてくれるの。朧月は人を幻世(まぼろよ)へ連れてゆくからね。とくに、この世と冥府の淡いを縫うような朧な風が吹く夜は…。
小さい私にはさっぱり意味がわからなかったけれど、春の月はなんだかこわいということだけはなんとなく理解した。
大伯母は父方の祖父の姉で、兄弟姉妹が皆鬼籍に入ったあと、どういうわけか私の家に一緒に住んでいた。大昔に建てられた日本家屋はそれ相応のガタがきていたが広さだけは十分にあり、大伯母は南西の角にある洋間に寝起きしていた。その洋間にベッドを運び入れた日、私はそのうえでぴょんぴょん跳ねてはしゃいでいた。息を切らしてベッドから飛び下りると、廊下を挟んだ座敷から父と母のひそひそ声が聞こえてきた。
おばさまってどのくらい分ってらっしゃるの。そうさな。しっかりしてくださいよ、程度によっては人を頼まなけりゃなりませんよ。そうはいってもねぇ。徘徊なんて困りますよ、近所の目もあるんだし。いや、そこまでとは聞いてないよ。
話の内容はさっぱりだったが、きっと聞いてはいけないことなのだろうと思い、私はもう飽きていたのに、またベッドのうえで跳ねはじめた。庭のモクレンが満開だった。
大伯母をおかしな人だと最初に思ったのは、彼女がうちに来た日の夕食時だった。母が作った煮つけをしみじみと眺め、「これは菊治さんが作ったの、」と誰にでもなく訊いた。父母や兄は顔を見合わせ、一瞬間をおいてから全員で笑みを浮かべた。
「そうですよ、おばさま。菊治さんがおばさまのために拵えたんですの」
「じゃあ、これは、」
そうやって、テーブルのうえに並んだ鉢や皿をひとつひとつ指さして訊く。すべて訊きおえると、彼女は大きく頷いて、煮付けに箸を伸ばした。震える手つきでも器用に里芋を口へ運び、ゆっくり咀嚼する。いつまで口のなかに入れているんだろうと思うくらい長い咀嚼ののち、大きな音を立てて嚥下する。それを何度もくり返すのんびりとした彼女の食事は、とても神々しくまた、どこか寂しげだった。大伯母がその夜、箸をつけたのはほとんど「菊治さんが拵えてくださったもの」だった。
「キクジさんて、誰なの」
湯に入りながら父に訊ねた。父は手ぬぐいで顔をざぶりとひと拭いすると、大伯母について語りはじめた。
「菊治さんていうのはね、昔、富江おばさんの家にいた使用人なんだよ。佐和も学校で飼育係をやっているだろう。菊治さんは春田の家のお料理係だったんだ。菊治さんは富江おばさんと幾つも年が違わなかったから、ふたりは姉弟みたいに仲がよかったんだよ」
父は彼らの仲のよさをいろいろな表現で話すのだったが、どれも事実の外側を撫でているだけで、私が聞きたかった部分は意識的に避けられていたように思う。とはいうものの、まだ子供だった私には、自分が聞きたいことが何であるかも、曖昧模糊としていた。
曖昧なのは大伯母の頭のなかもまたそうで、家族の顔と名前の区別が出来なかった。それでも当初母が心配していたような徘徊や奇行は見られず、私たち家族を「さなえちゃん」やら「太一兄さん」など、大伯母のかつての家族たちの名前で呼んだり、問いかけに関係のない昔話や意味の図りかねる返答が返ってくるくらいで、それほど両親の手を煩わせるようなことはなかった。大伯母はいつでもやわらかく微笑んでいて、どこか別の世界に生きているような目をしていた。そんな静かに病める大伯母を、家族の誰もが丁重に扱った。
だけど、大伯母は私と縁側で黙ってお茶を飲んでいるときだけ時々、この世界に戻ってくることがあった。モクレンがきれいだよね、おばさま。と声をかければ、「わたしはシモクレンのほうが好きよ」と答える。理由を訊ねると、「だって、白いのはなんだか少し寒々しいじゃないの。うっすら色づいた方が春らしいしねぇ」とすごくまともな返答がある。学校でいやなことがあってふさいでいると、庭を眺めながらお茶をすすり「まあ、いやなことはいっときだから」とか「夜明け前ってのは暗いもの」だとか励ますようなことを言う。ひょっとして富江おばさまはぼけたフリをしているのじゃないか、と思うことはしばしばあった。だけど、それは私と庭を眺めているときだけで、家族の誰もが私の言い分を一笑に附した。
ある日のこと。あれは、大伯母が亡くなる前の年の春だったと記憶している。
茶の間で父は本を広げ、母は縫い物を、私と大伯母は茶の間に続くぬれ縁に腰掛けて、林檎を食べていた。大伯母は、ふだんの緩慢な動きからは想像できないほどの勢いですくっと立ち上がった。そして一言「やっと来てくれた、やっと」と叫んだ。大きな声ではっきりと。
何事かと思って私は顔を上げ、両親は大伯母に駆け寄り、肩を抑えながら辺りを見回す。
「富江おばさん、どうしたの。誰もいないよ」
「何があったんですか、急にそんな大声を出して」
狼狽える両親に彼女は返事をせず、「よかった、待ちくたびれてしまいましたよ」「まあ、そうでしたの」「ええ、ええ。楽しかったですよ」などと言う。庭の先のもっと奥の暗がりをじっと見ている彼女に、誰の声も届かなかった。どのくらいたったろうか、彼女は急に向きかえり、顔を見合わせる両親と私に対し「どうもありがとう」とはっきりした声で言った。そのきっかり一年後のある春の夜、大伯母はあのベッドの上で眠るように逝った。
大伯母が亡くなって一年もたった頃のこと。従姉妹と雑談しているときのことだった。久しぶりに東京に出てきた従姉妹と、デパートの食堂で食後のお茶を飲んでいたときのことだ。大伯母の墓参りとは表向きの理由で、本当は東京のデパートで買い物がしたかったのだという。編集者になりたくて出版社の就職したのに配属先は営業だと彼女はぼやいていた。
「そういえば、富江おばさんって、絵描きだったんだよねぇ、」
そんな話は初耳だった。
「そうなの、」
「そうよ。でもあんなことがあってから、描けないようになったって」
「あんなことって、」
私がきょとんとしていると、彼女は口へ運ぼうとしていたフォークを皿へ下ろし、私を見つめかえした。
「え、佐和ちゃん知らないの、」
彼女の話はこうだった。
大伯母は、女学校を出ると家業を手伝うわけでもなく、見合いをするわけでもなく家で絵を描いていた。見合いをすすめても頑として断る彼女には、想う人がいたらしい。八人もいる兄弟姉妹のうち真ん中という気楽さからか、年頃を過ぎても呑気に絵を描き、時々挿し絵などの小遣い稼ぎなどをしていたという。そんな彼女がある日身ごもった。家じゅうが大騒ぎだったが、彼女だけは当事者であるにもかかわらず涼しい顔で「産みます」としか言わない。そのお腹の子の父親について周囲はあれこれ詰問するのだが、それには一切口をつぐんだ。
やがて、使用人の一人が急に里へ帰った。菊治というその家の勝手をあずかっていた青年だった。娘と恋仲になった使用人の末路は知れないが、娘の方はといえばそのお腹の子は三月ももたずに流れてしまった。
「当時はさ、なさぬ仲の忍ぶ恋なんてのは御法度だったわけよ。手に手をとって駆け落ち、道行きなんてのは許されない時代だったし、またそういうおうちだったってことだよね。白いきれいな猫の絵を最後に、それから一切描かなくなったんだってさ」
私は、大伯母と菊治さんはきっと約束をして別れたのだと思った。大伯母のあの静かな笑みを思い浮かべると、どうしてか朧月が思い浮かぶ。
「佐和ちゃん、富江おばさんの絵って見たことある、」
「ないよ」
「最後の絵はさ、春の夜に白い猫が二匹遊んでる絵だったんだって」
「なんで春の夜って分かるの、」
「朧月とシモクレンが描いてあったからよ」
朧月。縁側でお茶を飲んでいた大伯母が、いっときこちらの世界に戻ってきたときに話してくれたのを思い出す。
忘れ物を取りに入った職員室からも、その月は見えた。用をすませ、ふたたび校庭へ出ると暖かい風が吹く。プールのある西側の雑木林から吹いてくる。大伯母のことを思い出していた私は、ふと思いつく。
あの夜、大きな声を出した大伯母が見たのは白い猫だったのではないか、と。大伯母は、人生でただ一人だけ愛した人が、いつか迎えにくるのを待って生きていたのではないか。そんな約束を交わしていたから、彼女はあんなふうに微笑んでいられたのかもしれない。彼女はちっとも狂ってなどいなかった。ただ、ただその人と会えるのを楽しみにしていていたんだと思う。
「僕が先に死んだら白い猫になって、あなたの前に現われます」
「それを合図に、私もそちらへ行きますよ」
「暖かい春の夜にしましょうか」
「ちょうどシモクレンの咲く頃に。きっとですよ」
そんな会話を想像しながら門扉に手をかけたときだった。視界の隅で何かが動く。
すかさずそちらを向くと、白いものがふたつ並んでいた。
「猫、」
驚いたまましばらく立っていると、一匹がぴょんと跳ねて雑木林の方へ走っていき、そのあとをもう一匹が追う。金網のところで二匹が振り返り、一声啼くとすっと姿を消した。
朧月のやわらかい光の下の校庭で、私は幸せな二匹の猫を思った。 |