air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第33話

花かんざしの色は(前編)

中元彩紀子

 「まあ、気長に治しましょう。気楽に構えることですよ、ええ」
  次に出てくる毎度の台詞を、私は心のなかでなぞる。医師の口が同時に開く。
  (心もカゼをひくんですよ)
  一瞬、彼が私の心を読んでそれを口にしたのかと錯覚した。
  それにしても、ずいぶんとタチの悪いカゼだと思う。世の中から色という色がすべて消えてしまうカゼなんて聞いたことがない。
  「大きな精神的ショックが起きた後によくある症状」とはなんべんも聞かされたけれど、私にはそれほど大きな精神的ショックを受けたおぼえはなかった。大きな地震や津波にあうとか、身内に不幸が出たとか、上司から執拗な嫌がらせを受けているとか、ストーカー被害にあっているとか、思いつくままに並べてみたけれど、思い当たらない。何せ、私は失業保険で食いつなぐなんちゃって隠居なわけで、ストレスなど溜まろうにも、その原因となる社会参加を放棄しているのだから。
  「先生、私、毎日いやというほど気楽なんですけどね」
  誰しもが自分のストレスを自覚しているとは限らない、というのは、実態が曖昧なストレスをもっともらしい原因として、ここらで判を打ちたい怠慢な医師の逃げ口上だった。だったら眼科にいけば、というわけにはいかない。私はつい先月、すべての科をたらいまわしにされた挙げ句にここへ来たんだから。
  「食生活の方はどうですか、」
  あいかわらず微笑んだままの医師の、そのでっぷりとした大きなお腹を眺める。それはこっちが聞きたいことだ、とも言えず「ええ、まあ適度に、いたって普通に」と答える。
  「先生、あそこの赤い花、もうじき咲きそうですね」
  そう言うと、先生は笑みをたたえたまま窓辺を振り返り、すぐに手許のカルテに目を落とした。
  「ああ、あれ。患者さんが持ってきてくれたんだよね」
  私はため息とともに立ち上がり、診察室を出た。扉を閉める瞬間、看護婦が「え、」といった顔をして、医師に何か言うのが聞こえた。もうここに通うのはやめよう。

 最近、アパートの私の部屋の前を、夜になると二匹の猫がやってくる。ひょっとしたら、これまでもずっと、ひょっとしたらここへ越してくる前から、この庭は猫の通り道だったのかもしれない。勤めに出ていた頃は気づかなかったというだけで。彼らにはシロイチとシロニと名前をつけた。呼ぶことなどあまりないのだけれど、なんとなくそう決めた。
  「色が見えないとは言っても、色の濃淡は分かるわけよ。薄いピンクと純白の区別はつかないし、紺と黒の区別はつかない。けど、薄いピンクの猫っていないでしょ。だからたぶんあれは白猫だよきっと」
  電話口で日記のような私の話を、カンタロウはフンフンと頷きながら聞いてくれる。
  「だけど、千香ちゃんさ。色が分からないってんじゃあ、信号の色で戸惑うでしょ」
  「そんなわけないじゃない。位置で分かるよ」
  カンタロウは「そっか」と納得し、それから少しばかり彼の近況を聞いて電話を切った。
  外はもう暗い。陽はだいぶと長くなったけれど、夜はまだ冷える。私はエアコンをいれて布団に潜った。あごまで引き上げた時、一瞬、別れた恋人の匂いが鼻をかすめた。
  異動の希望を却下され、営業先で大きなちょんぼをやらかした翌週、会社のトイレで胃液がせりあがってくるのを感じた。その日の夜、何が原因だったかはもう忘れたけれど、恋人と別れた。そして、その翌月、上司の口が臭かったことがなぜだかむしょうに許せなくて、私は辞表を出してしまった。周囲の反応は、なんて馬鹿なんだと説教を始めるか、大笑いするか、あるいは目をまんまるに見開いて驚くかのどれかだった。
  「いやな仕事とはきっぱり手を切って、あたしは自由になるの」などと若いことを言ってみたけれど、言ったそばから鼻白んだ。自由というのは自分に縛られ続けることだと言ったのはカンタロウだった。
  会社を辞めて、なんだか世界が手に入ったみたいだ、と浮かれていたのはほんの数日だった。遊びに行くにも数少ない友達は皆仕事があった。これといって趣味もないし、運動も嫌いだ。次の仕事を探す気力も、それどころか身の振り方について考える気すら、気づいたらなくなっていた。
  ある夜、とてつもなく静かな夜のこと。私は突然死ぬほど寂しくなった。このまま、夜が空から落ちてきて、圧死してしまうのも悪くない。そんなことを考える夜だった。寂しいと死んでしまうという兎のことを考えながら布団に潜っていると、電話がなった。出てみると間違い電話だった。切ってから数秒後、再び電話がなった。同じ男の人だった。出てすぐに気づいたのだろう、恐縮した様子で、こちらがまだ何も言っていないうちに切ってしまった。私はがっかりしていた。情けないことに、私は間違い電話の主にまで体温を求めていたらしい。私の住む世界が白黒になったのはその翌日からだった。

 そして、そのそそっかしい人は翌日もまた間違い電話をかけてきた。平身低頭。もし目の前に彼がいたなら、きっとそんな感じだったにちがいない。そのくらい恐縮した彼は、番号を確認して、間違い電話をかけてしまった人が必ずそうするように、不思議がりながらすみません、すみませんとくり返して切ろうとした。その時、私の口をついて出た言葉が、「ねえ、あなた今何色の服着てるの」。
  電話の主は、虚をつかれたように押し黙ったのち、緊張した声で「青」と答えた。それがカンタロウだ。
  のちに彼が、あれは女性の下着の色を訊ねる変態男のパロディだと思った、と言ったので、そういうことにしておこうか、と私は答えたけれど、心の奥では別のことを考えていた。だけど、カンタロウは言った。  
  「ひょっとしてあんまり寂しいと、人は色を訊ねたくなるんじゃないか、と思う。あれは何色ですか。その世界でそれが色を発している限り、それはちゃんと存在していて、きちんと自分と世界がつながっているって確認できるんじゃないかと思うんだよね。だからさ、千香ちゃんのあの質問は、変態男のパロディじゃなくて、孤独の叫びだったわけだ」
  女の下着の色を知りたがる変態男の地位向上委員会でも開くのか。そんなことを言い返したかもしれない。だけど、その考えは私が考えていたのとほぼ同じだったので驚いた。
  色が知りたいと今、切実に願っている私は確かに世界からはみだしていた。
  カンタロウがどんな顔をしているのか、どんな癖を持っているのか会ったことのない私には分からない。それどころか、名前や仕事だって本当かどうか分からない。だけど、私の白黒の世界に入ってきてくれる彼の言葉には色がある。柔らかくて、うっすらと赤みのさした白。そんなイメージだ。一日おきにどちらともなく電話をかけるようになり、なんでもない話をするようになって、そろそろ二ヵ月ほどになろうか。実生活でのつながりのなさが、私の気を楽にする。

 シロイチとシロニ。
  私の世界が白黒になってから、あの二匹は現われた。おそらく夜の集会にいく通路として私の部屋の前を選んだ彼らは、私が窓辺でぼんやりしているのが見えても、立ち止まって警戒することもなくシタシタと前を横切る。ちょうど彼らと出会った頃、隣の部屋の一人暮らしのおばさんから妙な苦情を受けた。彼女の家の前には、鉢植えがいくつも出ており、ここのところの陽気で次々と咲き始めた。色は分からないし、名前も知らないけれど、花があるっていうのはなんだか豊かな気持になるので、私は感謝していたのだった。そこへきて、ある日窓をあけると、私の部屋と彼女の部屋の見えない境界線を越えて、ひとつの鉢植えがぽつんと置いてあった。翌日には、数センチこちら側に異動していた。
  「ねえ、うちの鉢に勝手に触らないでちょうだいね」
  もちろん私は否定したけれど、昼間も家にいて何をするわけでもない若い女を、彼女は警戒していたのだろう。言うだけ言って、帰っていってしまった。
  カンタロウは言う。
  「外の世界の人と交流が持てたと思えばいいじゃない。それより、謎だね。日に日に近寄ってくる鉢植えの謎。誰の仕業だろう。ひょっとして、そのおばさんもあまり人と話さない偏屈な人でさ、素直じゃないからそういうきっかけでもないと話せなかったんじゃないか」
  「狂言ってこと? ありえないよ、イイ年したおばさんだよ。」
  そんなことはどうでもいい。私は花の色が知りたいよ。そんな話でその日の会話は終えたように思う。
  それから三日ほどたった朝、窓を開けた私はあっけにとられた。
  私の世界に色が戻る二週間前のことだった。 

                                 後編に続く

 
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