air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第34話

花かんざしの色は(後編)

中元彩紀子

 隣室のおばさんに苦情を受けた三日後、私は珍しく朝のうちに起き出した。目覚める直前に見ていた夢の断片が、フラッシュのように現れては消える。そのひとつひとつのつながりを思い出そうとすると、それらはゆるりゆるりと消えてゆく。夢の尻尾をつかみそこねた後、どうしてか焦りを感じる。とんでもないものを置き忘れてきてしまったことは分かるのに、何を忘れたのかを思い出せないような。
  窓から入る日射しはもうすっかり春だった。つけっぱなしのテレビのなかで、舌足らずの女が「花曇り」の説明をしていた。彼女は何色のワンピースを着ているのだろう、とぼんやり考えた。二度寝するのをやめて起き上がると、カーテンの隙間から射す光に部屋の埃がきらきらと舞った。またひとつ、夢の欠片が現れて瞬時に消えた。
  窓の外はどうやら好天のようで、だけど私には色がない。どのみち曇天なのよ、とひとりごちて窓を開けたとき、窓辺に立つ私の目の前に鉢植えが置いてあった。隣室との境界線をはるかに越えて、私のサンダルの横にちょこんとそれはあった。いよいよ、隣のおばさんが怒鳴りこんでくるぞ、と思い、足音を忍ばせつつそっと鉢を持ち上げる。そのまま腰をかがめたまま隣室の庭へ。そして鉢を戻そうとした瞬間、隣室の窓が開く。脳天から血が引くのが分かる。かがんだ姿勢のまま、窓の方へ顔を向けると、おばさんは鬼の首でも取ったかのようにこちらを見下ろしていた。
  「はい、現行犯」
  違うんですよ、これはたった今元に戻そうとしていたわけで、違うんです、ほんとに。
  「じゃあ、何。うちの鉢植えから足が生えて、あんたんとこまでトコトコ歩いてったっていうの」
  いっそのこと、はいそうです、とでも言ってやろうかと思ったけれど、これ以上面倒な諍いは避けたい。理不尽な思いにかられつつも必死で言い訳をする私を、最初こそ訝し気に眺めていたおばさんだったけれど、そもそも盗んだ鉢植えを隣室から丸見えの我が庭に置いておくわけもなし、と気づいたようだ。
  「それに私、今、色が見えないんです。だから、花の色も分からないし、そんなことする理由もないんです」
  おばさんの表情が微妙に変化する。
  「そう…」
  私はおばさんが何か言うのを待っていたけれど、彼女は思案顔のまま鉢植えを眺めているだけだった。じゃあ、と私が部屋へ戻ろうとしたとき、彼女が口を開いた。
  「あんた、彼らを見なかったかい、」
  おばさんは、左手を顎に添えて頷いている。
  「彼らって、」
  そこで彼女は初めて顔をあげ、まっすぐにこちらを見て言った。
  「この街に住む夫婦猫だよ。だとしたら、あなたラッキーだよ」
  そしてにやりと笑う。ゾッとした。この人、やっぱり少しおかしいのかも。愛想笑いもうまく出来ないまま、部屋の戻った。

 「ひょっとしたら、あたしより重い病気かもしれないじゃない」
  カンタロウは「そうとも限らない」と言う。
  「それより、どうしてラッキーなのか聞かなかったのかい」
  「だって、下手にかかわったら怖いじゃないの」
  カンタロウはあれこれ想像する。隣室のおばさんは実は化け猫なんだとか、魂を九個集めるために孤独な女を狙いに来てる猫だとか。
  「もう、切るね」
  そう言うと、カンタロウは黙る。
  「千香ちゃんさ、最近少し元気になったね」
  私はおやすみ、と言って電話を切った。あなたのおかげよ、と言えなかったのを少し悔やんだ。
  その数日後、鉢植えはまたも私の部屋の前にあった。このときは、すでに隣室のおばさんが表に出ていて、やはり顎に左手を添えていた。私が顔を出したのに気づくと手招きをし、私の足元を指差す。
  「ほら、」
  「あたしじゃありませんよ」
  「分ってるよ」
  おばさんは、如雨露の水をきって室外機の上に置くと、私をちらりと見た。
  「まあさ、あんたも暇そうだし、お茶でも入れるよ」そう言って、彼女は私の返事を待たず、窓から部屋に入っていってしまった。私はといえば、その場をとんずらするわけにも行かず、ただ呆然とその鉢植えを眺めていたのだった。ほどなくして、茶碗を二つと煎餅をのせた盆を持って出てきた彼女に促され、私は彼女の部屋の縁側に腰掛けていた。何か言わねばならない。焦った末に、目の前の鉢植えの数々を見ながら「きれいですね、花」などと言ったものだから、彼女は眉をひそめてこちらを睨む。
  「色が分からないんでしょうに。いい加減なこと言うんじゃないの」
  私はちいさな声で、すみません、と言うしかなかった。目の前にある鉢植えはみな同じ色をしていた。
  「この街に来てどのくらいになる、」
  「半年です。前のところは会社から遠くて、引っ越してきたんです。せっかく通勤が楽になったのに、辞めちゃいました」
  「あたしはもうここに暮らして十六年になるの。で、問題の夫婦猫だけどね」
  「それって、あの二匹の白い猫のことですか」
  「やっぱり見たんだね」と言って、彼女はお茶をすする。茶碗は古びていたけれど、お茶はひどく美味しい。私も一口すする。
  「彼らはね、あたしがここに暮らすようになって、やっぱり半年くらい経った頃に現れたんだよ」
  十六年前に? 野良猫はそんなに長命なんだろうか。そう言いかけると、彼女は黙って聞け、と無言で制する。
  「あたしはね、その頃参ってたんだよ。旦那に死なれてね、仕事中にぽっくり。息子が就職を機に出ていって、二人暮らしに戻ったとたんだよ。息子は、一緒に暮らそうって言ってくれたけどさ、独り身で母親つきの男じゃあ嫁のきてがなくなるだろう。だから、断った。元気なフリしてると元気になるって言うけどさ、あれはだめだね。悲しみとか辛さはいっぺんはどっかで吐き出しておかないと、ここんなかで膿むんだよね」
  そう言って、彼女は自分の胸を叩いた。
  「旦那と息子と三人で暮らしたうちに突然、独りで住むっていうのは、そりゃあ怖いもんだよ。思い出は捨てられないとかさ、過去を懐かしむなんて言ってる余裕なんかないの。ぽっくり逝かれちゃうと。だから売っちゃった。それでここへ越してきたわけ」
  そこまで話すと、彼女は煎餅を口へ放りこんだ。何も言わずにボリボリ噛んでいる。重たい話の合間の、その音がなんだか間抜けで、うっかり笑いそうになる。おこぼれに預かろうというのか、どこかからカラスの啼き声がする。
  「でね、半年くらいたったある日、庭に出てみたらさ、あったんだよ」
  「何がです、」
  「花。かたばみの花。ピンクのね、どこにでも咲いてる花。だけど、前の日まではなかったんだよ。前の日はさ、例のほら、あの夫婦猫が現れた日でね、あたしは庭に糞なんかしてないだろうか、くまなく見たんだから。だけど翌日、かたばみが咲いてた」
  「どういうことですか」
  「あたしはね、調べたの。かたばみってのはね、あんな可憐な顔して、ものすごく繁殖力が強いんだって。あたしはね、図鑑でちゃんと調べたの。かたばみってのはね、あんな可憐な顔してものすごく繁殖力が強いんだって。それにしても一晩でってことはないだろうに、と思いながらふと隣の頁を見たら、そこに花言葉があった」
  「なんて書いてあったんです、」私は身を乗り出す。
  「“あなたとともに”」
  風が吹いた。カラスが啼いている。風向きのせだろう、遠くから小学生の縦笛の音が聞こえる。
  「あなたとともに。あたしはさ、旦那からの手紙だと思った。うちに戻って、そのかたばみを鉢に植えたよ。旦那が死んでから泣いたのはそれが初めて。葬式のときだって泣かなかった。人間ね、本当に悲しいときは泣けないもんなんだよ。涙なんかすぐには出ないの。だけど半年はちょっと長過ぎだけどね。けど、悲しい涙とはちょっとちがう。あれは、嬉しい涙だったような気がするよ。最愛の人の死を正面から受け止めたその瞬間は悲しみがどっと溢れてきたけど、目の前には旦那からの粋な便りがあるじゃないか。何を悲しいことがあるものか、と思ったね。…その晩は、庭にお礼のメザシを置いておいた。だけど、彼らはやってこなかった」
  おばさんは、私の茶碗をのぞきこむと、黙ってそれを取りあげ、二杯目のお茶を入れてくれた。何も言わずそれを受け取ると、おばさんは続ける。
  「あたしはね、あの白い夫婦猫は、生まれる前はきっと人間だったと思うね。きっと何かの事情で添い遂げられなかったか、一緒になれなかったんだね。だから猫になったんだよ。だって、野良はめいっぱい自由じゃないの。何せ、猫は九つも命があるっていうんだから、そりゃ都合がいいわけだ」
  私はシロイチとシロニが左右から押し合い引き合いしながら、鉢植えを私の部屋の前まで運ぶ様子を思い浮かべた。それは、漫画のようで少し可笑しかった。
  「あの花、なんていうんです、」
  「あれは花かんざし」
  「花かんざし…」
  「見たまんまだね。かわいい女の子によく似合う花だよ。根元に赤みがさしていて、花びらは真っ白」
  赤みのさした白。声しか知らないカンタロウのことを想った。
  「花言葉はね、たくさんあるんだよ。思いやり、明るい性格、恋する人、暖かい声、あなたを見守ります、元気を出して…。花言葉ってのは、これと決まってるわけじゃないからね、どれでも好きなのを頂いたらどう。猫たちからのせっかくの贈り物だよ」
  煎餅をボリボリ食べながら、おばさんは笑う。
  「その花言葉のような人を、私知ってる」
  おばさんは表情を変えず、そういえば、と口を開いた。
  「“伝えなさい”ってのもあったね」
  さすがに怪しくなって、私は笑いながら「それ本当?」と尋ねると、おばさんは心外だと言わんばかりにこちらを睨む。
  学校帰りの小学生の笑い声が、風に乗って聴こえてきた。私たちは、並んで花を眺めていた。白黒の世界でも、ちゃんとそこには花が咲いている。

 「そのおばさん、いい人だったんじゃない」
  私はまあね、と苦笑する。
  「千香ちゃん、明るくなってきたね」
  世界は相変わらず白黒だが、おばさんの言うことが正しければ、世界に色が戻るのももうすぐらしい。
  「粋な猫だよなぁ」
  「おせっかいな夫婦よ。それに、おばさんのかたばみだって、猫が運んだって彼女が信じてるだけだし」
  「案外、そうなのかもしれないよ。せっかくだから、もうちょっといい名前つけてあげたらどうだい、」
  「もう来ないよ」
  確かに、シロイチとシロニはあの日からもう姿を見せない。
  「その花ね、花かんざしって言うんだって」
  「あ、それなら知ってるよ。パンジーやバラと違って、何の主張もしない地味な花なんだろ。行き交う人の足元でいってらっしゃい、おかえりって見守るような花だって、お袋が言ってた」
  カンタロウの声が耳もとで響く。低くて柔らかい声。
  「カンタロウ、花かんざしの色、知ってる、」
  「どんなんだっけなぁ」
  今度見せてあげようか。そう言おうと口を開きかけたときだった。窓の外にシタシタシタと微かな足音が聴こえた。
  どこまでもおせっかいな夫婦猫が、耳をそばだてているのを感じながら目を瞑る。
  「今度見せてあげようか」
  カンタロウは一瞬黙ったあと「じゃあ、その時には青いシャツを来て行くよ」と笑った。
  受話器を置いて、窓を開ける。
  風はなかったけれど、花かんざしが静かに揺れている。
  それは、ほんのりと赤みのさした白く優しい花だった。

 
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