第35話
ゴミ捨て場の小さな神様
(前編)
中元彩紀子 |
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“彼”は壊れたギターの上にいた。
壊れたアコースティックギターの上で、細い足を踏ん張り、大きな目で上目遣いにこちらを見ていた。
僕が近づいて手をさしのべると、“彼”は怯えることもなくゆっくりとした足どりで僕の手のひらの上に乗った。まるで約束してあったかのような光景だった。
日曜日の早朝、ひっそりとしたトチノキ通りを、小雨が静かに濡らす。パーカーのフードをかぶり、僕は坂道をのぼっていた。早起きの老人が、怪訝そうな顔をして僕を見送る。大きなコタツを抱えて、雨の早朝に坂道をのぼるフード男は、確かに不審者にしか見えまい。振り向くと、老人はまだ僕を見ていた。マンションに到着すると、僕はさもそこが自分の住処であるかのように、堂々とエントランスを通り抜け、自転車置き場へと入っていった。十台ほど並んだ自転車の奥に、ベッド、洋服掛け、イス、棚、炊飯ジャー、パソコンなどが、立体パズルのように組み合わさってひとつの大きなオブジェのようになっている。
このワンルームタイプの古い建物の一部に、僕は数年前まで住んでいた。ここは、住人専用の自転車置き場兼粗大ゴミ置き場だ。粗大ゴミの方は無論ルール違反なのだろうが、僕が入居した当時からそこは粗大ゴミ置き場として機能しており、誰からも苦情や注意はなかった。ゴミとはいえまだ使えるものも多く、住人はその後ろめたさを払拭する目的もあり、『まだ使えます。ご自由にどうぞ』という貼り紙とともに捨てることが多かった。実際、僕の捨てたイスが翌日にはなくなっていたこともあったし、逆に僕が棚を頂戴したこともある。この不文律は、ふだんは会っても知らんふりの住人たちの唯一の交流であり、共犯者としての連帯感を高めた。
目の前のオブジェをのどこにコタツを組み込むか考えながら、僕は煙草を取り出した。火をつけようとしたのと同時に、端の方ですまなそうにしているテレビが目に入った。『リモコンなし。まだ使えます。どうぞ』と貼り紙がしてある。一瞬、これはここを退居するときに自分が捨てていったテレビではなかったかと思ったが、貼り紙はまだ新しく女文字だった。
自転車およびゴミ置き場にはトタンの屋根がついていた。屋根の端からしたたり落ちる雨の雫は、そのままベッドの金属の枠に落下し、タン、タン、タタンとリズムを打っている。捨てられた物たちが奏でるレクイエム、そして僕はそれをただひとりで聴いている観客だ。
僕は今、休職している。きっかけは些細なことだった。
毎週月曜日になると、ラッシュ時の電車が大幅に遅れる。誰かが世を儚むのが原因だ。その週は僕の使っている駅からひとり。車内アナウンスから、僕が電車に乗り込んだ数分あとの出来事だったことが分った。「またなのぉ」「もう、朝はやめてほしいよね」「最後の最後で迷惑かけんなよ」高校生や会社員のぼやき声が聞こえる。電車は時間調整のために、途中の駅で止まったままだった。振り替え輸送の案内が構内に流れる。それを聞くともなしに聞いていると、向かいのホームに止まった急行列車の窓に見知った顔が見えた。ぎゅうぎゅうの車内にムリな姿勢で立っている背広姿の男。よく見れば、それは窓に映った自分の姿だった。
乗客は皆、ケータイ電話を取りだし、勤め先に電話をかけている。ええ、そうなんです、電車が止まっちゃって。ええ、人身事故です。参りましたよ、すみません。
僕もポケットから取り出して、かけようとする。その時、ブルっと着信があった。出てみると同僚の日下部だった。
「あ、出た。勘ちゃん、今どこ」間延びしたような声で、チーフから命じられてかけているのだと分かる。
「朝会、間に合うの、」
朝会というのは、僕の所属する部署の朝のミーティングのことで、僕はこの日、前期案件の効果測定の結果と分析および今後の対策資料やら何やらをまとめて発表する担当だった。年明けそうそうに配属になった部署のチーフは、僕の顔をみるなり開口一番こう言った。
「営業の花形だったかなんか知らんけどな、ここじゃそんなの通用しねえからな」
薄ら笑いのその歯には、昼食の残りかすがこびりついていた。
大口の契約を取りつけ、支払いの段になって先方が倒産した。弁護士事務所から届いた封筒は、A4の書類がたったニ枚だったが、僕にとっては熱した鉛だった。計画倒産だった。悪いことは重なるとは誰が言ったか。その日、僕はもうひとつ大きな契約を抱えていたのだったが、その場で担当を外された。そこは二年も通っていた老舗のデパートだった。そこをオトすのは至難の技と言われ、ベテランの前任者も匙を投げた先だった。
「とりあえず、担当先は全部他に割り振ったから。まあ、困難は分割せよ、だな」
うだつの上がらない同期が、はしゃいだ声で肩を叩く。無理もない。いつでも自分の上であぐらをかいて高笑いしていたような同期の大失態だ。ようやく自分にも運が向いてきた。そいつの顔にはそう書いてあった。
「おごれるものは久しからず、ってことだな」僕はそう自嘲気味に笑ったが、誰も笑わなかった。
営業先が霞ヶ関にとって代わって半年が経った頃、今の部署に異動になった。
電車は、まだ止まったままだ。向かいの急行列車はとうにホームを出ていたが、そこに映っていた自分はまだ残像にある。受話器を握りしめ、僕は同僚に事態を告げる。書類の在り処と、伝達事項を伝える。
「あと、もうひとつ。チーフに伝えておいてくれ」
「何、」
「今日、有給扱いにしてくれって」
「え、そうなの。具合悪いの、」
「面倒になった」と答えると、日下部はげらげら笑い「分った。適当に言っておく」と言って切った。
電話を切ると、周囲の乗客の恨めしそうな視線を感じた。僕はそのまま電車をおり、大きく伸びをすると反対側の鈍行に乗り換えた。その瞬間から今日まで、僕は会社に行っていない。
朝は昼過ぎまで寝て、机代わりのコタツテーブルで新聞を読み、読もうと思って買っておいた本を片っ端から読みあさった。しかし、他にやることのない休日が三日も続けば、そんなものはすぐに消化してしまう。やり切れなさのまじる虚無感に耐えられず、昔のつきあってた女の子に電話をかけようとする。こういうとき、男は男に電話はかけんのだな、とふと思う。情けなさに幾分辟易しつつも、受話器を上げ、うろ覚えの番号を適当に押す。出たのは彼女とは似ても似つかない声の女だった。慌てて電話を切り再びかけたが、また同じ番号にかけてしまた。都合三回。それがきっかけで、その女、千香と話すようになった。色覚をなくしたという千香と気力をなくした僕は、ころ合いのいいコンビだった。一日おきに取りとめもない会話を交わす。会うことはない。ただ、互いが世界のどこかで確実にまだ存在していることを確認しあう、そんな儀式のパートナーだった。会話といっても、話すのはもっぱら千香の方だ。僕は相槌を打ったり、感想や意見を述べたりするのが担当だ。女はしゃべる生き物、男は解決する生き物なのだから仕方ない。
寝て起きて食って排泄し、本を読んで女の子の話を聞き、寝る。そんな生活を少し変えてみようと思ったのは、千香の一言だった。
「カンタロウ、そういうときはね、模様替えするのがいいんだよ。女はみんなそうするの」
そして、僕は学生時代から使っている馬鹿でかいコタツを抱えているというわけだ。長方形の重いこのコタツは、実家から持ってきた古いタイプのやつで、コンセントのコードの根元がだいぶささくれていた。火事の危険があるため、今はテーブルとしてしか使っていない。こいつのおかげで随分と部屋が狭くなっていたのが、どけてみるとよく分かる。カーペットに四つ、脚跡がくっきりと残り、そこだけ鮮やかなブルーだった。
レクイエムは静かに続いている。煙草の火を消し、僕は持ってきた貼り紙を取り出す。
『火事の恐れあり。テーブルとしては使用可。御自由にどうぞ』
あのテレビは頂いて帰ろうか、などと考えながらオブジェに近づこうと足を踏み出した。そのとき、テレビの上に置かれたギターが目に入る。そのボディの上に何か小動物のようなものが乗っていた。ネズミかと思い、足を止める。いや、ネズミより小さい。僕が近づいても逃げる様子もないところをみると、フィギュアだろうか。そういえば、そんな精巧なフィギュアが流行っていた時期があったな、と思い出した瞬間、それは動いた。ゆっくりと首を回し、こちらを向いたのだ。
(い、生きてる…?)
胆をつぶすとはこういうことだ。それは、黒い大きな瞳でこちらを見ていた。まだ捨てられたばかりのオモチャの電池が残っていて、何かの拍子に動いただけなのかもしれない。もっと近づいて、凝視してみる。四本の細い足を踏ん張り、こちらを見上げる三等身の動物。尾は胴くらいありいびつなハート形をしており、さきっぽに玉がついている。毛は生えておらず、耳もない。見たこともない生き物だ。それが、僕の目をじーっと見つめている。オモチャにしては質感が生々しい。
互いに見つめあったまま、どのくらいたったろう。その生き物は、ゆっくりとまばたきをし、そして大きな口を開けてアクビをした。桃色の口のなかがよく見えた。
(やっぱり生きてる!)
それはまるで、自分が率いるオーケストラの演奏を邪魔された指揮者のようだった。
混乱する頭のまま、僕は恐る恐る手の平を差し出した。すると、そいつは驚きも逃げもせず、ゆっくりとした動作で歩みより、僕の手の平の上に乗った。足の先にはさらにちいさな赤ん坊のような指がついていた。そのまま、そいつは腹ばいになって目を閉じた。今日はもうくたくたなんだ、休ませてくれ。そう言いながらベッドに倒れこむ指揮者のようだった。
こうして、“彼”と僕は一緒に暮らすようになった。再び僕の世界が回りはじめる二週間前の出来事だ。
(後編へ続く) |