air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第36話

ゴミ捨て場の小さな神様
(後編)

中元彩紀子

 ギターのあった場所にコタツを積み上げ、なんとかオブジェのていを保たせる。ギターと指揮者と僕は、捨てられたものたちのレクイエムを背中に、マンションを出る。
  役目を解かれた“彼”は、僕の手の中でじっと動かない。冷たくも温かくもない身体だ。本当に生きものなのだろうか、まだ不思議だった。そっと手のひらを広げると、“彼”は腹ばいになって目を閉じていた。顔を近づけると、うっすら目を開けたがすぐにまた閉じた。よく見ると、こころなしか微笑んでいるようにもみえる。おかしなものを拾ってしまった。
  千香は色が見えないという。のっぴきならない精神事情で、そうなったらしい。千香の部屋の隣人や夫婦猫の話を聞きながら、僕はギターのなかで眠っている“彼”をのぞく。ペンライトでなかを照らすと、うっとうしそうに顔の向きを変えた。
  「いや、人生にはときどき妙なことがあるもんだよ、実際」
  千香もそれに同意する。
  「でも、求めよさらばなんとかって言うけどさ、求めなければ与えられないのだとしたら、この現実をあたしはどこかで求めていたということなのかな。だとしたら、いいことばかりじゃないよね」
  「しかし、悪いことばかりでもない」
  「クリスチャンみたいなこと言うね、カンタロウ」
  僕は無神論者だよ、と答えると、千香は「だろうけどさ、」と笑う。
  「もしいたとしてもさ、神様なんてものは、人みたいにどっかにいるわけじゃないと思うよ。神様は、状況とか想いとか音楽とか声とか匂いとか…そういうものなんだと思うよ」
  「じゃあ、あたしにとってはカンタロウや、隣のおばさんやシロイチやシロニたちが現れたこの現実が、目下の神様なわけだ」
  適当なことを言っただけなのに、千香はそういう僕のいいかげんな言葉もすぐに飲み込んでくれる。
  「だから神様はいっぱいいるってことね」
  いっぱいいてもこの現実、と僕らは自虐的に笑う。ふと、千香の笑う回数が増えたな、と思う。自分のことじゃないけれど、それを良かった、と感じる自分に安堵する。
  「きみは気づいてないだろうけど、千香ちゃんの笑い声はけっこういいよ」
  「どういいの、」
  説明するのが面倒で、僕はあいまいに笑い電話を切った。

 果たしてこの生き物は何だろう、と考える。ネズミでないとすると、爬虫類の類いか。僕は生き物はあまり得意でない。調べようとしても、生物学上の分類すら定かでないものを膨大な情報のなかからすいくいあげるのは、考えただけで億劫だ。だから、やめた。
  いつも“彼”はギターの上にいる。丸い頭を持ち上げて窓の方を向いているときもあれば、何もない足元をじっと眺めていることもあるが、ほとんど寝ている。痩せた様子もない。といっても、正常な状態というのを知らないからなんとも言えないが。啼くこともないし、もちろんしゃべらない。ただ、“彼”を拾ってきてから、不思議な夢を見る。
  僕は会社にいる。ひどく現実的な夢だ。ただ現実と違うのは、僕が自分を別のどこかから見ていることだ。入社した頃の自分の姿が見える。紺のスーツに青いネクタイをしている。先輩からのオリエンテーションを受けている僕の目に、緊張と興奮が宿っている。新入社員のなかで一番できると思われていた奴が、落ち着いた態度で意見を言っている。僕は、その横でじっと聞いている。何か発言しようとするが、口からは何も出てこない。はがゆい表情だ。たけど、それを見ている僕は、それでいいんだ、とどこか達観している。おまえは大丈夫だ。と心のなかで声援を送る。すると場面は夜に変わる。会社からくたくたになって出てきた僕に、先輩が声をかける。そうだ、この人が最初に仕事を教えてくれた人だ。この数カ月後には独立のために辞めてしまった。ずっと忘れていた。「新人連れていくなら、こいつにしてもいいですか」と、上司に名乗り出てくれた人だ。目が覚めて、記憶を辿る。「よく分からないけど、なんか気になったんだよ。おまえの気負い過ぎてるとこ、新人の頃の俺によく似てるんだ」そんなことを言われたのを思い出した。
  翌日もまた夢を見た。
  場面は親父の葬式だった。遺影を抱いた僕の横で、母が気丈に喪主の挨拶をしている。それを僕の意識は後方から眺めていた。自分の表情を正面から見る。就職したばかりで、気分だけは一人前だったのに、急に父親に死なれておろおろしている。そんな自分がはがゆくて悔しい、そんな表情だ。人に促されてからでないと、次の行動がとれずにいる。そんな自分と気丈な母を、僕は切ない気持で眺めている。斎場の隅っこで、従姉妹の子供が走り回っている。ふわふわと僕の意識はそちらに近づく。あれ、ずいぶん大きくなったな、などと思っている。現実には、その従姉妹の子供はもう社会人になっているのに。僕はふたたび喪主をじっと見る。なぜか涙が溢れてくる。
  次の場面は、大学時代のようだ。僕はやっぱりどこかから自分を眺めている。卒業後に入ることになるワンルームマンションへ引っ越そうとしている。荷物はあらかた積み終えた。何か忘れ物はないか、部屋をぐるりと見回している。窓からは午後の光が射していて、チリがキラキラと光っている。母が階下から呼ぶ声がしている。僕は自分が階段を降りる足音を聞きながら、その声を心のなかで反芻している。もうじき一人きりになる母を思って、幾分心配な気持になる。その時、押し入れでコトリと音がした。おいおい、ギターを置いてっちまうのかよ。自分に教えようとしたところで目が覚めた。
  過去の自分を見るのはこそばゆさと同時に違和感があった。完全に目が覚めてから考えると、それが本当に夢だったのか、それとも夢うつつの状態でただ過去を思い出していただけなのか分からなくなった。不思議なのは、夢のなかの自分を見るとき、はがゆさや照れの奥に、愛おしさを感じていることだ。違和感の正体はこれかもしれないな、と思う。

 「ただ思い出してるんじゃないよ、きっと。何か理由があって見てるんだよ」
  女の子はそういう話が好きだね、と言うと、不満げに千香は鼻をならす。
  「いつもおかしな話をするのはカンタロウの方じゃない」
  それはきみが好きだろう、と思うからさ。これは言わない。
  「とにかく、不思議なのは毎日遡っていくんだよ」
  「遡るって何が、」
  「時代が」
  そうなのだった。会社の夢を見る前の日、僕が見た一番リアルな夢は、満員電車から降りたあの日の光景だった。それから毎日、少しずつ時代が逆光している。
  引っ越す夢の翌日は、二十歳の頃の夢を見た。
  友人と僕がギターを弾いている。ボブ・ディランのライク・ア・ローリング・ストーンを友人が歌う。その英語があまりに下手くそなのに同情してか、時折ギターケースのなかに酔っぱらいが小銭を投げてくれる。でも、僕のギターの腕はなかなかだ。転がる石ってのも楽じゃないよなぁ、と友人がぽつりと言う。場面が変わる。ホームレスのおじさんたちと、酒を酌み交わしている。僕らは何がおかしいのか、ゲラゲラ笑っている。おじさんが言う。「おまえさんたちはね、まだ何も見ちゃいない。触っちゃいない。知りもしない。でもそれでいいんだ、一生無知のままでいろ」「そんなのいやだよ」「いや、無知のフリでもいいからさ」「なんでさ」「無知ってのは強いからだ。自分が無知であることだけを、知っておけ」「なんだよ、それ」「分からなくてもいい。憶えておけよ」
  こんな会話をしたのだろうか。起きてしばらくして思い返しても、まるで記憶になかった。あの時酔っぱらってたからなぁ、とひとりごちて苦笑する。
  「面白いじゃない。そのうち、子宮に戻ったりできるかもね」
  「やめてくれよ、気味が悪い」
  千香は何が気味悪いのだ、と言って笑う。
  「それはそうとさ、時々自分が出てこない夢も見る。それがちょっとおかしいんだ。おふくろだけが見えるんだよ」
  「ほら、だから記憶を思い返してるだけじゃないのかもよ」
  夢のなかの母は親父シャツのボタンを付け替えている。昔いっしょに暮らしていた家だ。居間の明かりは消えているのに、母の周囲だけがぼんやりと明るい。そこで母は鼻唄を歌いながら手許を動かしている。テーブルの上には週刊誌が載っている。「用水路に一億円」の文字が見えた。
  「そこで思うんだよ、“ああ、一億円もあれば母さんを楽にさせてやれたのに”って」
  「だから、」
  「おかしいのは、過去形で思うってこと。だって今からだって楽させてやれる可能性はあるだろう、」
  そこで話は煮詰まった。千香は、隣室のおばさんと怪しい夫婦猫について報告をする。僕は猫の魂の話や、化け猫の話をする。
  そして僕は最後にお決まりの台詞を言う。最近、明るくなったね。千香は、そうかな、と嬉しそうだ。

 “彼”は毎日ギターケースのあたりにいる。あまり出歩かない性格のようで、年中眠っている。
  話しかけても返事があるわけでもなく、“彼”は眠そうにアクビをするだけだ。
  “彼”がいたあのマンションは、僕が入社当時から数年前まで住んでいた建物だ。ここからは歩いて二十分ほどの場所だけれど、そこを出てからコタツを捨てに行くまで、一度も近寄ることはなかった。粗大ゴミ置き場のことなんて、千香に模様替えをすすめられるまで思い出しもしなかった。
  “彼”を連れて帰ってから、僕は夢を見るようになった。
  「きみは一体、何者なんだい、」

 それからも奇妙な夢は続いた。高校生の自分がギターを練習している。僕は、アルペジオがままならない自分の様子に苦笑しつつ、俺の方がうまいぞ、と思う。ギターを弾く手を止めた自分が、こちらを見て舌打ちをした。またある日は、小学校の校庭で走る自分を見た。徒競走で一等になる。それを眺める僕の傍には母がいる。一等になったのを喜ぶ母が、こちらを振り返り手を叩いて微笑んでいる。自分が一等になったのを、眺めている方の僕も誇らしく思う。どこかで違和感を感じ、その正体がつかめないのをもどかしく思いつつ、静かな幸福感をかみしめている。園児だった自分も見た。鯉のぼりにはしゃぎ、庭で転んだ。泣かずに立ち上がった自分を抱え上げる。小さな僕の体からは汗と太陽の匂いがした。擦りむいた膝を気にもせず、また走り出す。僕はすごく楽しい気分になる。
  しかし、目が覚めてみると、それからは起きている間じゅう違和感がまとわりついている。
  そんな話をとりとめもなくしていると、電話の向こうの千香の返事が聴こえなくなった。
  「どうしたの、」
  「…ねえ、カンタロウ。夢のなかで自分を見てるのって、もしかしたらカンタロウじゃないかも」
  意味がまったく分からない。自分の夢を眺めているのがこの僕でないとしたら誰だというのだ。
  「じゃあ、誰だっていうんだい」
  「カンタロウのお父さん」
  親父?
  「だって、亡くなる前の時代と生きてた時代で様子が違うじゃない」
  言われてみればそうかもしれない。葬式までの夢はどれも僕は傍観者だったのに、それ以前の時代に遡るとなぜか夢のなかの現実に、傍観しているだけのはずだった僕が干渉している。
  「それにさ、こないだ言ってたけど、お母さんしか出てこない夢もあったでしょ。きっと、亡くなったお父さんが見てた光景なんだよ。だから過去形だったんだよ。“一億円あれば楽させてやれた”ってね。自分はもう死んでしまって叶えられないからだよ」
  その時だった。壊れたギターがビンッと小さく鳴った。見ると、“彼”が弦にまたがって、大きな目を見開いてこちらを見ている。僕は、目がそらせない。
  「千香ちゃん、」
  「なに、」
  「この現実自体が夢でした、なんてことはないよな」
  あるわけない、と千香は笑う。
  その夜が奇妙な夢の最後だった。
  短い無声映画のような夢だった。
  母の大きなお腹をさする。
  僕はひどく幸福だ。
  若い母は僕を見て何か言う。声は聴こえない。僕は答える。
  こいつは男の子だ。俺によく似た男で、勉強はそこそこだが気骨のあるいい男だよ。
  母は大きな口をあけて笑っている。あたしは小花のような女の子がいい、と口が動く。
  僕は笑って立ち上がり、カレンダーの自分の誕生日に大きく丸をつける。
  誇らしく、愛おしく、幸福感に満ちていた。
  明くる朝目覚めてみると、ギターは空っぽだった。部屋じゅうを探したけれど、“彼”はもういなかった。窓が少しだけ開いていて、前髪を風が揺らした。僕は、声もなくたったまま泣いていた。

 
  いつか年老いて死の床にあるとき、もし誰かに忘れられない出来事とは何かと訊ねられたら、この二週間の出来事を挙げるに違いない。けれど、「人生で一番愉快だった日」を訊ねられたら、僕はきっとこの日の千香との電話を思い出すだろう。
  千香は隣室に暮らすおばさんと奇妙な夫婦猫の話の結末を熱心に話している。そして、僕はその話にちりばめられた符号に、時折首を傾げる。亭主に死なれ、十六年前に越してきた花の好きなおばさん…。
  「話の途中で悪いけど、千香ちゃんってどこに住んでるの、」
  「え、H市だけど」
  次の瞬間、突然大笑いする僕に、千香は怪訝な声を出す。
  「ちゃんと聞いてるの、」
  「ごめんごめん。で?」
  機嫌をとりなしながら、僕は笑いをこらえる。
  「…でね、おばさんその花の花言葉をいっぱい教えてくれて、猫からの贈り物だから好きなのを頂いておけって」
  「そのおばさん、いい人だったんじゃない」
  まあね、と千香は苦笑する。猫と花の話を胡散くさがりながら話す彼女の声は、それでもすごく嬉しそうだった。花かんざしの色を知ってるか、と聞かれ知らないと答えると、彼女は一瞬おいて「今度見せてあげようか」と言った。
  「じゃあ、その時には青いシャツを来て行くよ」
  その時までに、千香の世界に色が戻っていることを願って、僕はそう言った。
  「ねえ、そういえばさっきなんで笑ったの、」
  「いや、何でもないよ」
  不服そうな彼女をなだめ、電話を切り、僕は再び受話器を上げる。
  ああ、母さん。近いうち遊びに行ってもいいかな。面白い話があるんだ。いや、電話じゃ長くなるからさ、会ったときに話すよ。父さんの墓参りにも行こうと思って。それでさ、ちょっと会わせたい人がいるんだよね、うん、いや彼女とかじゃないんだけど、母さんもよく知ってる人だよ。
 
 
  楽器店で新しい弦に張り替えてもらったギターを抱え、僕はあのマンションの粗大ゴミ置き場に向かう。あの雨の日のオブジェは、今日もそのままだ。
  僕はその辺の棚に腰掛け、ボブ・ディランを弾く。ボブ・ディランの旋律が、捨てられたものたちのレクイエムを洗い流す。
  どこかで“彼”が指揮棒を振っているのを想像して、可笑しくなる。
  夢を連れてきてくれた眠ってばかりのゴミ捨て場の神様──。千香と母さんにはどこから話せばいいだろう。信じてくれないかもしれないなぁ。だけど、本当なんだよ、おせっかいな神様がさ、すべては繋がってるんだと教えにきてくれたんだ。
  そんなことを考えながら弾いていたら、
  「俺の方がうまいぞ」
  群青の空から、そんな声が聴こえたような気がした。

 
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