第37話
死神のくれた種(前編)
中元彩紀子 |
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雨が降るなんて聞いていなかった。ついさっきまでは嫌味なくらいの爽やかな風が吹いていて、空には星も出ていたのに、店を出て歩きだしたとたん、大粒の雨が額を叩いた。小走りで近くのビルの庇に駆け込む。突然雨に降られた、というのは、私にとって文字どおりの意味もあり、レトリックでもある。雨は都合、三回降った。
一回目の雨は、二ヵ月前。
私は金を貸した男に逃げられた。恋人というわけではなかったが、知人や友人というのとも違うどこか身内のような心安さを感じさせる男で、ひょっとしたらこの男と結婚でもするのかしら、とチラと思うくらいの仲だった。どこで知り合ったかといえば、それは国道沿いの小さなクラブで、出会いからしていい加減な印象を持たれかねないのだけれど、私としては柄にあった出会いだった。なんとなく話がはずみ、とはいえ、今となっては何を話したのかてんで憶えちゃいないのだけれど、とにかく相性がよかったのだった。その男は時々女装などして、私の部屋に現れた。性の同一性に障害があるというのではないらしかったが、女装しているときのその男は、何か妖しく艶っぽくて私はけっこう好きだった。変わった男だった。
「あんたさ、昼間に家から電車乗ってここまでその格好で来るわけでしょ。人の目とか気にならないの、」とおそらく聞かれ飽きただろう質問をすると、男はうんざりするでもなく無表情で答える。
「人生は、死ぬ時までの暇つぶし」そして、尻を掻きながら「あ、ひつまぶしでも食べに行こうか」とニッカリ笑う。一事が万事この調子で生きてきたのだろうな、と私は思いながら財布を持って立ち上がるのだった。
そんな刹那的女装男が、ある日「俺は会社をやる」と言い出した。話は込み入っていて、ひどく熱く語るので、私はトイレをガマンしながら聞いていた。いろんな偉い(らしい)人の名前とか、複雑なシステムのその殆どを私は理解できなかったのだが、いつになく熱弁をふるうのでこっちも眉間に皺を寄せていちいち頷きながら聞くのだった。本当は少しうさんくさいなぁ、とも感じていたのだけれど、口には出さなかった。「だから協力して欲しい」とストンとまとめられ、私は勢いにのったまま「うん」と頷いていた。頷いた直後に「え、」と思わず聞き返しそうになったけれど、その躊躇はさりげなくスルーされ、男は「そうかそうか、ありがとう」と喜んだ。そしてさらに何かしゃべっていたが、私は男の頬にできた白ニキビを見ていた。ぷくっとふくらんだニキビの頂点にあるあの白い膿みをつぶしたらどんな感じだろう、と想像する。前の晩の深夜番組で見たどこか外国の山の噴火映像が目に浮かんだ。どろりとした白い溶岩が頬の山頂から流れ出る。
気づけば私はタンス預金を取り出して、男に渡していた。いそいそとドアを開けて帰ろうとする男に、「白ニキビって火山みたいだよね」とつぶやくと、男は「なんだそれ」と苦笑しながら手だけで謝意をジェスチャーするとそのままマンションを出ていった。それっきり連絡は途絶えた。
二回目の雨は、テレビだ。
こうなったら引っ越そう。引っ越して心機一転がんばろうではないか、と思い立った私は、次の部屋も決まらないうちから部屋の荷物をまとめ始めた。まとめるといっても、たいした荷物はなく、目についた物は全部マンションの粗大ゴミ置き場に運んだ。勢いあまってうっかりテレビまでゴミに出してしまい、夜になるとすっかり寂しくなってしまった。それでなんとなく恥ずかしい気分で階下のゴミ置き場まで取りに行くと、すでにテレビはなくなっていた。『ご自由にどうぞ』と丁寧に貼り紙までしておいたせいだ。出来心の親切は自分の首を絞める。
三回目の雨は、ヤモリの脱走。いつだったか件の男が土産だと言って持ってきた“ナメハダタマオヤモリ”というやつだ。「すべすべしてるからナメハダ。尾の先に玉っころがついてるからタマオ」と説明されたそれは黒目がちでおもちゃみたいだった。私は一目で気に入りかわいいケージのなかで飼っていたのだけれど、いなくなった男の悪口を聞くのに耐えられなくなったんだろう。ある日、姿が見えなくなった。部屋にいる生き物が自分だけという毎日を過ごしているうち、飛んでいる虫にさえ愛着がわくようになった。
三つの不幸に見舞われて、すっかり意気消沈した私は、たまたま手許にあった梱包用のビニールヒモを持って部屋をぐるりと見回す。急にもよおしてトイレに入る。便座に座ってひとごこちついたとき、電球が切れた。とたんに私のなかでも何かが「ピンッ」と音を立てて切れた。というわけで私は手に持ったままのビニールヒモをタオル掛けにかけ、手頃な輪っかを作り頭を入れてみた。そろりそろりと体重をかけ、これ以上はやばいかも、というところで尻が便座から落ちた。ヒモが首に食い込んで、痛い、と思った瞬間、耳のそばでこもった声が聴こえた。「Nobody
knows some one to love」。怖いのと苦しいのとで、死ぬかと思った。死のうとしていたのだからいいんじゃん、と誰かに笑われたような気がした。出来心はなんだって自分の首を絞める。
その翌日。男にもペットにも逃げられた私がどうしているかと心配した数少ない友人の一人であるサエが、顔を出した。首のまわりにアザができているのを見て、彼女は一瞬顔を曇らせたが「死ぬかと思ったよ」と言うとお腹を抱えて笑った。笑われるとなんだかこっちも可笑しくなってきて、二人で笑い転げながらサエが持ってきたモンブランを食べた。もがいてる時に聴こえた幻聴について話すと、眉をしかめつつも「誰を愛するべきか誰も知らない、みたいな意味だよね。っていうか、なんかの歌の歌詞なんじゃん」と軽く流す。
「そりゃそうと、ニート生活はどう?」
「あたしってニートなの、」
呆れた顔をしてサエはまた笑う。
「目標もなく、働く意欲もない。日がな一日ごろごろしてんでしょ。流行りのニートじゃない」
そうか、流行ってたのか。知らなかった。
「もうずいぶん前から、アサミは精神活動を放棄してた。働いてる頃からあんたは精神的ニートなのよ」
精神活動の放棄。なるほどなぁ、と思う。私の親は私が中学を卒業したのを合図にサクッと離婚して、高校を出るとすぐにそれぞれに家族を作った。どっちの家にとっても私はお客さまだし、そのうちどちらにも足が遠のき、いつからか電話すらしなくなっていた。だから私は家族とか愛情とかそういうものを信じない。というより、信じるとか信じないという選択すらしない。何も考えない。
「人生は死ぬ時までの暇つぶしって言ったやつがいる」
「何それ」
「ろくでもない男が唯一言った賢い言葉」
サエは「ふぅん」と言ったきり、何もない壁を見ている。だから、私も一緒に壁を見る。煙草のヤニで結構黄色くなった。敷金どのくらい返ってくるかなぁ、と考えていたら、彼女はくるっとこちらを向いて言った。
「ねえ、種屋って知ってる、」
「タネヤ? おでんのお店?」
「ちがう。種を売ってるんだってよ」
「種って、大根とかじゃがいもの?」
おでんからはなれろ、と言いながら彼女はケータイを開いた。あったあった、と言って見せてくれたのは、どこかのケータイサイトの掲示板だった。
「えー、で、その種屋は種を売ってるんだけど、何の種かは教えてくれないんだって」
「それ、非合法の植物の種なんじゃない、ひょっとして」
「種屋は店じゃなくて種を売る人なんだってさ。種を買った人のカキコミによるとだね、すごくハッピーになれるらしい」
「ほらやっぱり」
だけど、彼女は思案顔だ。
「ちがうみたいだよ。ほら、ここ読んでみて。“実がならなかった人は死んじゃうんだって。なんかコワくない?”“夜、新宿で見かけたよー”“その人は男の人で、黒い服着てます。影がないんだそうです。”“興味がなくても向こうから近づいてくるから要注意”“○○高校の子が種買ったんだけど、ただのプチトマトだったってさ。超ウケるんですけど”……都市伝説みたいなもんかなぁ」
「女子高生の掲示板にまぎれてるあんたのほうが超ウケるんですけど」
彼女はしばらく画面を読んでいたが、パタンと閉じると顔を上げて言う。
「たとえばさ、一線越えそうな誰かがいたとしてさ、その人に死神が情けをかけてるんだよきっと」
まだその話を続けたい彼女の真意は分からないが、私はとりあえず珈琲をいれなおす。
「死の一歩手前くらいの人がいたとしてね、その人に自分以外の“生”を育てさせるわけよ。ほら、植物って人の心に敏感だって言うじゃない。元気がないと部屋の植物はみんな枯れるし、ほめると元気に咲くとか、そういうのよく聞くじゃん。だから実がなるまで立派に育てば、それはその人にまだ力があるってことでさ」
自分の考えに半ば興奮しながらしゃべる彼女に水をさすようで悪いとは思ったが、黙っていられない。
「その説からすると、そもそも死ぬ一歩手前の人ってのは元気がないんだから、まずまちがいなく枯れると思うんだけど」
でもサエはへこたれない。「いいんだよ、だってそもそも死神なんだから。みんな助けちゃったら死神じゃないじゃん。神じゃん」と笑う。ごもっとも。
「死ぬ前の賭けってやつだよね」
小さな賭けなら散々やってきた。横断歩道を渡り終えるまで青のままだったらパパとママは仲直り。この曲が終わるまでに頼んだメニューが来たらきっと電話が来る。職場で最初に挨拶してくれたのが女だったらパパは再婚しない。クラブでナンパしてきた男の名前が三文字だったら誕生日に荷物が届く。
「あたし賭けって、勝ったことないんだよね」
タクシー乗り場まではまだだいぶある。日の出時刻は近いというのに、雨空のせいで辺りはまだ夜の帳を下ろしたままだ。平日の明け方、暗い国道沿いでひとり雨宿りをしていると、この世の中にいるのは自分だけなんじゃないか、と錯覚しそうになる。知らない間にみんなでしめしあわせて、私ひとりを置いてロケットにでも乗ってよその星へ行ってしまったのかも。
どこかでカラスがカァーと啼いた。顔をあげると、ビルの曲り角の方から不意に人影が現れ、私の心臓はぎゅっと縮こまる。その男は傘を持たず、やはり同じビルの庇の下に入り、上目遣いに空を見上げた。私はケータイ画面に見入るフリをしながら、それとなく観察する。こちらに気づいていながらも無関心を装っているのか、しばらく経っても視線は感じなかった。変質者ではなさそうだ、と安堵しかけたその時だった。男がこちらを向いた。
「私は変質者じゃないし、雨はもうじき止む」
男はそう言った。不自然で唐突な言葉にもかかわらず、私は妙に落ち着いていた。
それはどこかで聞いたような声だった。私はゆっくりと男の方を向いた。
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