air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第38話

死神のくれた種(後編)

中元彩紀子

 黒いシャツと細みのパンツ姿のその男は、グレーのキャスケットを目深に被っていた。知り合いかと思い、帽子に隠れた顔を覗いてみたが、やはり見知らぬ人だった。
  カラスの羽ばたきが聴こえた方向へ目をやると、すぐ近くの電線にとまってこちらを見下ろしていた。うすら寒くなり、このまま走って近くのコンビニで傘でも買おうかと考えた。
  「雨はもうじき止む。傘を買ってもムダになる」
  ぎくりとし、黙っていると男はさらに続ける。
  「濡れたところで、いつかは乾く」
  返事などはなから求めていないような、無愛想きわまりない物言いだった。男は視線を私から雨空へ移した。それからしばらく、私はもちろん男も黙ったままだった。雨は勢いを幾分ゆるめたが、糸を引くような雨に変わっただけで、当分止みそうにない。
  三回も不幸の雨に降られたあげく、出来心で首を通したビニールヒモはちょっと細過ぎた。そのうえ本物のどしゃぶりにふられたと思ったら、今度は怪しい男と雨宿りだ。何をしてもケチがつく。うんざりした気分で通りに目をやれば、通りの向こうにホームセンターの看板が見える。帰ってから開店時間を待ってちょっと出かけてみよう。あそこならもっと頑丈なロープを売ってるだろう。
  そう思ったら、すぐにでも帰って一眠りしたかった。うちへ帰るだけなのだから、男が言ったとおり濡れたところで困ることもない。走ろう、そう思ったときだった。
  「今行くと、事故に遭う。間違いない」
  男が口を開いた。
  「はぁ?」
  男は前を向いたまま、「もうじきバイクが来る」と重ねた。
  舌打ちというのは、こういう時にするものだな、と頭の隅で思った。変質者とは言わないが、明らかにイカれた男だと思った瞬間、通りの向こうからバイクの爆音が轟いた。そして、目の前をものずごいスピードで通り過ぎ、曲り角に差し掛かったところで、バイクは急にバランスを崩した。猫の鋭い叫び声のような金属音が何秒か続いた。
  あっけにとられた私を男はちらりと見、「な?」と言った。あのまま走りだしていたら、ちょうど曲り角の付近で巻き込まれていたかもしれない。アスファルトに転がった運転手はよろよろと立ち上がると、同じく隅に転がったバイクをおこして引きずりながら去って行った。
  「なんで分ったのよ、」そう訊くと、男は少し口元をゆるめ「耳がいいからさ」と答えた。
  ふと、気づいた。ひょっとしてこの男が、サエが言っていた種屋じゃないだろうか。とっさに影を探すが、生憎の雨で影は見えない。
  「あんた、ひょっとして種屋でしょ」
  「タネヤ?」
  「おでんのタネじゃないわよ、非合法な植物の種よ」
  すると男は、合点がいったという表情をし、たっぷりと間をあけてから答えた。
  「おでんも非合法な種も売ってはいない。だが、ふつうの種ならある。欲しいならやるよ」
  そう言って、男はシャツの胸ポケットからハトロン紙を取り出した。私が財布を取り出すと、男は無言でそれを制し、「金はいらないと言ったはずだ」と言った。
  「その代わり、枯らしたら終わりだと思え」
  「どういうこと、」唾を飲み込む音が体内から聞こえる。男の目が怪しく光った、ような気がした。
  「大人しく観念しろってことだ」
  やっぱりだ。よほどよからぬ代物に違いない。きっと新しもの好きなちょっと頭の弱い若者に保管させ、ころ合いを見計らって奪いに来るのだ。ずいぶん手の込んだことをする。
  「いるのか、」
  男に訊かれ、私はしばし考える。どうせいなくいなる人間だもの。最期くらい遊んでやるか。
  「いる」そう答えると、男はニヤリと笑ってハトロン紙を差し出しながら、もう片方の手で上空を指さした。見上げると、雲間からうっすらと光が射していた。
  男は「な?」と言って、そのまま去っていってしまった。

 黒くて、臍のゴマみたいだった種は、二、三日もすると緑色の芽を出した。何もせず、考えることすら放棄していた日々は、にわかに変化していった。水やりを1日さぼっただけで、落ち込んだように葉はへたる。朝に夕にと土が乾いたら、すぐに如雨露で水をやる。さっきまでなかったはずの小さな新芽を発見すると、懐かしいようなこそばゆいような変な気持になった。妙な具合だった。ものも言わず、動くこともないのに、誰かと一緒に暮らしている感覚が戻ってくる。水をやれば元気に育つ。やらなければみるみるうちにへたってしまう。とてもシンプルだ。
  それからも毎日毎日、欠かさず水をやった。育っていくのが面白かった。誰に教えられたわけでもないのに、決められた形に成長していく。唯一必要なのは、太陽と土と水、そして水を与える私だけだ。今や、その葉は鉢からはみだし、この世の春とでもいわんばかりに青く繁っている。人間だってそうなのだろうな、と月並みな感想をひとりごちたとき、葉の影に白いものが見えた。指でそっと葉をかきわけて覗いてみると、それは小指の先くらいの小さな花だった。思わず笑みを浮かべてしまい、誰かに見られなかっただろうかと辺りをきょろきょろしてしまった。
  不思議なのは、水やりをしているほんのわずかな時間、必ず脳裏に幼い頃の光景が浮かぶことだ。実際見た光景ではなく、アルバムに貼られた幼い頃の自分の姿だ。表紙に金色の文字で「おいたち」と箔押しされた分厚いアルバム。あれはどこへやったろう。父と母が別れた際、誰かが持っていったか、それとも自分で処分してしまったのだろうか。
  一週間もたつと、花は次々と咲いた。そして花が散ると同時に、花の中心だった部分が膨らんできた。実がなるんだと気づいたとたん、静かな興奮が足元からたちのぼってきた。誰かに伝えたい、そう思って、もっとよく観察しようと腰をかがめたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

 鼻の下に汗の玉を光らせながら入ってきたサエは、私が渡したウーロン茶を一気に飲み干すと、はい、と言って包みを差し出した。
  「またモンブラン、」
  「だって好きなんだもん」
  たまにはイチゴショートにしてよ、と軽口をたたきながらお皿とフォークを用意していると、扇風機の前でアーと声を震わせていたアサミが急に何かを思い出したように、「あ!」と声をあげた。
  「そうそうそう、あの例の種屋だけどさ、」
  タイムリーな話題に半ば驚きつつ「そう、その種屋だけどさ、」と先日の出来事を言いかけると、サエはそれを遮り、眉を寄せた。
  「まさか逮捕されちゃうとはね。やっぱりドラッグでしたか、はぁって感じ」
  「逮捕、」あの男が逮捕?
  「掲示板にはプチトマトとか書いてなかったっけ」
  するとサエは訳知り顔で言う。「ああいうのって隠語でしょ。どこで手に入りますよ、とか待ち合わせの目印とかさ」
  「都市伝説とか死神とか言ってたくせに、サエ」
  「蓋あけてみたら、いかにもってかんじのやばそうな男。がっかりだよ。どこが死神だっつうの」
  死神と言い張ったのはあんたでしょう、と言いたいところだが、気になるのはベランダの鉢だ。持っているとまずい代物なら、すぐにでも処分しなければならないけれど。
  「でもさ、植物って育ててると案外気分がよくなるんだよね。種から芽が出て花が咲いて…」
  「じゃんけんぽん!」
  「なに?」
  「昔あったじゃん、芽が出てふくらんで、花が咲いたらじゃんけんぽんっていうやつ」
  「あったあった。じゃあ、ジャンケンしてあげるから勝ったら話の腰を折らないでくれる?」
  「わかったよ。で、なに、」
  「だからね、植物育ててるとさ、毎日の変化とかちゃんと育ってくれてるだろうか、とかすごく気になるの。ちょっとしたことですごく嬉しくなったりするんだなぁって。たとえ、それがどんなものであっても、元気に実ってくれたらって思うんだよね。そういうことをニートのあたしが…」
  そこまでをきょとんとしながら聞いていたサエは、またも遮る。「なにあんた、なんか育ててんの!?」彼女はふいに立ち上がり窓を開けてベランダに出た。慌ててあとに続くと、「あ!」と声がする。
  サエが鉢を掲げ、叫んだ。
  「実がなってる! イチゴじゃない、これ!」
  「へっ?」
  生茂る葉の脇からぴょこんと垂れた茎。その先っぽに、真っ赤な実が申し訳なさそうに顔を出していた。
  「アサミ案外、かわいいことするねぇ」サエがケタケタ笑う。それはまぎれもなくイチゴだった。笑いがふつふつ込み上げてくる。
  「そうだ!」
  せっかくだからさ、と言ったが早いか、サエはふたつばかりなっていた実をもぐと、部屋のなかに入りモンブランの上にのせた。
  「はい、アサミの好きなイチゴショート」
  にっこり笑って差し出されたケーキに、私はなぜだか少し泣きそうになった。

 思い出したのだ。イチゴのケーキ。食卓のうえにどっかりと座り、満面の笑みをたたえて手づかみでほおばる遠い日。その横で母が大きな口を開けて笑っている。父が撮ったアルバムの写真だ。
  あの雨の日の男は本物の死神だ、と思う。その前、耳もとで聴こえた怪しい声も、きっと彼からの予告だったに違いない。誰を愛すべきか誰も知らないというのなら、もう少し生きてそれを確かめてみようか、と思った。家族も恋人もペットもテレビもどこかへ行ってしまったけれど、私にはまだ私がいるしそれに、と、目の前の友を見る。
  ふぅん、と、サエはめずらしく神妙な面持ちで聞いている。
  「アサミもさ、ちゃんと水やりされて世話されて育ったんだしね。今度は与える番だ。それにしてもさ、イチゴの種で生き死に決めるなんて、ちょっとズレた死神だよね」
  それからはサエの独壇場だ。これは、あっちの世界でも人口増加が問題なために考えられた苦肉の策で、死神も慣れない仕事で困っているのだとか、いつも憎まれ役ばかりを引き受けてることに嫌気がさした一部の死神が、少しばかり気紛れを起こしたのだとか、次から次へと想像を膨らませている。
  「死神の出来心ってやつだね」
  「あれ、出来心は首を絞めるんでしょ。死のうとしたのに“死ぬかと思った”はないよね」
 
  影の見えない雨の未明に、私は無愛想な死神に会った。
  枯らしたら連れていくぞと言ったのは、職業柄「生き直せ」とは言えなかったからかもしれない。
  死神は種をくれた。とても甘酸っぱいイチゴの実がなった。

 
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