第39話
山羊と空
中元彩紀子 |
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灯の消えた玄関の引き戸をそっと開ける。三和土にはじいさんの草履がぺらっと置いてある。足先でそいつを揃え、上がりに腰掛けると左半身が少し痛んだ。
「どうしたぃ、おまえ」
振り向くと、じいさんが立っていた。年寄りの朝は早い。
「起きてたのかよ」
「どうしたって聞いてんだよ、なんだその面は。ケンカでもしたか」
じいさんはつるんと頭を撫で、怪訝な顔でこちらを見下ろしている。
「転んだんだよ、バイクで」
まるで死神にでも会ったかのような顔をしていやがる、とじいさんはぼそぼそ言いながら茶の間へ行ったかと思うと、また玄関へ戻ってくる。手には救急箱を持っていた。ばあさんが生きていた頃から使っていた、木の箱のやつだ。表面には落書きがしてあった。
まぁ表に出ろよ、とじいさんは靴ひもを解いていた僕に声をかけ、庭に出る。
「うちんなかでやればいいじゃないか。っていうより、自分でやるよ」
面倒くさそうに言うと、じいさんは顎で縁側をしゃくる。
「今時分に電気がついてりゃ、ご近所さんが何事かと思うじゃねえか」
今時分ご近所さんは寝てると思うが。
「それより、おまえ空のこと、どうする気だ」
僕は不意をつかれて無言になる。救急箱の落書きが目に入る。おまえどうするんだよ。落書きの顔にまで責められているような気になる。
「さっちゃんだって本気じゃあるめえ」
亭主に死なれた女とのっぴきならない関係になって、その女に子供がいたとなれば怯まない男がいるだろうか。鷹揚に構えるフリくらい三十路も半ばとなれば簡単だ。そうは言ってもこの歳になるまで、のらりくらりと好きなことばかりしてきたやさぐれた男に、実際他人様の、しかもこれから人生を歩み始めようとしている人間に、その術を教えてやろうなんてのはおこがましい以前に無理だ。と、これは、幼馴染みが友人を思うあまりに言ったことだ。
女の名前は幸子という。
「名前負けなのよ。だけど、名前ってそういうものかも」と幸子は言った。
「小学校のとき、シズカちゃんっていう子がいたんだけど、彼女はクラスでも一二を争うくらいお転婆でおしゃべりな子だったし、明るい子って書いてアキコちゃんっていう子は、物静かでちょっと暗い感じの子だった」
十代のうちに両親が立続けに病気で死に、育ててくれた祖父母の家から嫁に行き、六年も待ったあげくに子供がよやく出来た時は、祖父母も自分もこの世の春とばかりに喜んだという。それが、半年もしないうちに亭主に先立たれ、天国と地獄というのはこのことだ、と幸子は笑いながらこれまでの来し方を説明した。
「親ってね、子供の名前に望みを託すでしょ。望むってことは、それがないってことを認めてるからこその行為でしょう。だからね、うちの両親はどこかで予感があったのかもしれないわね」
空、と自分の息子に名付けたのは、何もそれが今どきの流行りだからじゃないのだ、と幸子は言う。
「空って、ソラとも読むけど、空っぽって意味もあるでしょ。だからきっとこの子の人生は、きっと豊かになると思うのよ」
この話を聞いて、「でもよ、名は体を表すって言葉もあるぞ」と余計なことを言ったのがうちのじいさんだ。思いきり睨むと、そらとぼけた顔をして明後日の方を向いたじいさんだった。しかし幸子は気を悪くするでもなくむしろ声を上げて笑った。幸子と空が帰った後、じいさんは言った。
「あれは上のうちの上だ。貰っておいて損はねえ。しかも空坊の親指を見たか。あれは器用な指だ。俺の跡継ぎになれる」
竹細工の職人なんて先がないからこそ俺は継がずに勤め人になったんだ、と言うと、じいさんは落ち込んだフリをした。冗談だよ、と言うと「わかってら」とニヤリと口を歪めた。「バイクの修理工が偉そうなことを」と憎まれ口を叩く。「嫁の来てもないくせによ」
その顔が山羊そっくりなので、幼馴染みも近所の子供も皆、山羊じいさんと呼ぶ。
山羊じいさんの女房、つまり僕の祖母なのだが、この人はすごく気持のいい人だった。物事に頓着せず、相手の言動にいちいち動じない。僕が若い頃にやらかした悪事も、周囲には平身低頭だったが、いっぺん叱りつけたら数分後にはけろっとしていた。またじいさんだって散々好き勝手したろうに、自分が苦労したなんて恨みごとは一切口にしない人だった。一度聞いたことがある。
「ばあちゃん、なんでじいちゃんと結婚したのさ」
「ふた辻向こうの駐在の隣によろずやがあったろ」
何の話か分からずに頷くと、ばあさんはぬか床から茄子を掘り出しながら言った。
「あすこのくじ引きで、たこ糸引っぱったら先っぽについてたのがじいさんさ」
そしてやはりニヤリと笑うのだった。
「ハズレだったわけか」と僕が調子をあわせると、ばあさんは急に真顔になって振り返り、「大当たりだよ」と言った。
飲み屋の女に担がれて帰ってきた時も、電柱相手にケンカして駐在に連れてこられた時も、商売で大損した時でさえ、「やれやれ」の一言で片付けてしまったような女だった。腹が立たないのかと聞けば、「面白いじゃないか」と答える。ばあさんが泣いたのは、一度だけ。高校の時、彼女の息子である僕の父親が死んだ時くらいだ。母親の方はもっと前に鬼籍に入っていたから、僕にとっての母親はこのばあさんだった。
相手の反応でいちいち傷付いたとわめくような、些事にこだわる女を嫌うじいさんの好みは、いわば自分の妻に対する賛辞でもあった。幸子はそのじいさんが気に入った数少ない女だった。じいさんが好むかどうかなんてことに拘泥する気はさらさらないが、あのばあさんの夫だった男の審美眼には間違いがないと思っている。
問題は、空の体にあった。
空は歩行がうまくない。生まれつき背骨が曲っているために年々歩行が難しくなる。体には茶色くて固いゴム製のコルセットを装着していた。大袈裟な腹巻きのようなやつだ。同い年の子供に比べて幾分小さく、そしてそのためか引っ込み思案で大人しい子供だった。
ようやく僕になついてきたある日、僕と空は、幸子が買い物をしている間、近所にある児童公園に行った。敷地内には遊具が点在していて、子供たちはてんでに散らばって遊んでいた。ほらおまえも遊んでこいよ、と促す。ジャングルジムやのぼり棒の類いは無理だったが、ブランコやシーソーくらいなら問題がないと聞いていた。手を引いてブランコの傍まで行くと、空はおずおずと鎖に手をかけて台に座る。押してやり勢いがつくとコロコロと笑った。自分でやる、と空がそのうち言い、一旦揺れをとめると今度は自分で漕ぎはじめた。白い顔に赤みが射し、頬をむっくりとさせてにこにこしている。その時だった。
「あっ! ロボットがいるー!」
とたん、空の顔は怯えたような表情になり、次の瞬間、漕ぐ足を止めてしまった。声がした方向を見ると、砂場にいた三人の子供がこちらを指さしていた。空よりも少し年長のようだった。彼らは口々にロボットロボットと叫び、体をぎくしゃくさせている。空を真似ているのだ。からかっているのだと知った僕は、体じゅうの血が沸き立ち、掌を強く握りしめた。空のことなど目に入らなかった。しかし、それでどうしたかと言えば、僕は何もしなかった。どうしていいか分からず、何も出来なかったのだ。子供たちは、僕がじっと見ている間に駆け出してどこかへ行ってしまった。ケタケタと笑いながら。一瞬の出来事だった。
それから我にかえり、空を見ると、彼の乗ったブランコはもう揺れていなかった。泣いているわけでもなく、怒っているわけでもなく、その表情からは何も読み取れなかった。あるといえば、それは幼さには到底似合わない諦観のようなものだったかもしれない。小さくため息をついて、足元を見ている。僕が何か言うのを待っているようだった。
「あんなの、気にするな」
言った瞬間、しまったと思った。それじゃあ、まるで空が気にしているようではないか。幼くても男だ。見栄もプライドもあるにちがいない。焦って何か付け足そうと頭をフル回転させていると空が小さな声で言った。
「いつものことだから。ぼく平気だし」
「いつもなのか、」
空が頷く。「保育園の子たち」
園では、バランスがとりにくくしゃがむことが困難な空だけ、職員用のトイレを使っている。お遊戯も見学することが多いらしい。ひとりだけ特別扱いというのは、子供たちの格好の興味の対象となる。
「言い返さないのか、」
すると彼はきょとんとした顔で「何を、」と言った。
「そんなこと言うなとか、バカやろうとかさ」
「…言わない。言った方がいいの? 言ったらやめる?」
そこで僕は困ってしまった。
「相手にしないのが一番だって、お母さんが言ってた」
そうなのか。僕は「そうかもな」としか言えなかった。
撤回しよう。問題は空じゃない。僕だ。
四歳にして人生に躓きかけている空に言ってやるべき言葉を持たない自分に、僕は悄然とするばかりだった。帰り道、空は僕の半歩前を歩き、上空を見上げて口笛を吹いていた。斜後ろから覗いた空の顔は、必死に見えた。必死に口笛を練習しているフリをしていた。
「口笛、うまいな」
「山羊のおじいちゃんに習った」
そうなのか。じいさんならこんな時、どうしたろう、とふと考えた。
そんなことをきっかけに、なんとなく、幸子たちと一緒になる自信が揺らいでいった。揺らぎは、空を見るたびに大きくなっていった。子供は成長する。そして困難は大きくなるかもしれない。体だけじゃない。あの日のようなことが続き、うまく対処してやれなければ、心にだって影響が出るかもしれない。その影響を与える某かに対する対応もてんで分からない。そこへきて幼馴染みに言われた言葉が脳裏を巡る。「おまえには無理だ」。
幸子も僕の様子がおかしいことで気づいたのだろう、ある日、買い物の帰りに彼女は言った。
「あのね、誤解しないで欲しいんだけど、私は自分の不幸を武器に人から優しくしてもらおうなんてちっとも思ってはいないの。こいつを守ってやろうと男の人に思わせるような女にはなりたくないの。私たちはこれで案外幸せにやってきたの。だから、あなたが私たちのことで悩むようなことにだけはなりたくないのよ」
だから距離をおきましょう、というこらしい。このとき、僕が何を言ってもそれは嘘になったろう、と思う。黙っている僕に、幸子はそれをも承知だという顔をして、爽やかに笑った。
うちへ帰ってそれとなく話すと、じいさんは「腹巻きが必要なのはおまえの方だなぁ」とつぶやいた。
うまく眠れず、昼までまだずいぶんある時刻に起き出すと、左半身が筋肉痛のように痛んだ。朝方、じいさんが貼ってくれた湿布が布団の端で汚く丸まっている。おそるおそる首を捻るとこれがまた痛んだ。休日でも診てくれる病院を探そうと階下に降りると、じいさんが台所で何かしている。
「何してんのさ、」
じいさんは「顔くらい洗え、この宿六が」と言いながら箸で鍋をつついている。覗きこむとそれはばあさんが祝い事のときによく拵えていた筑前煮だった。
「デートだ」とじいさんは山羊の顔で言った。
「誰とだよ」
「おまえには関係ねえ」
憤然としつつ電話帳で病院を調べ、電話をかけるとすぐに来いと言われた。行って来ると言い玄関を出ようとすると、奥から「ついでに根性も治してもらってこいよ」と返ってきた。
結局、首にコルセットを嵌めて帰ってきた孫をじいさんは心配することもなく、「こいつは丁度いい」と山羊の顔でニヤリと口を歪める。何がちょうどいいのだ、と怒るとしれっとした顔で言った。
「デートに付き合え」
「誰がじじいとどっかの知らないばばあのデートになんか、」
「ばばあじゃねえよ、さっちゃんたちだ」
耳を疑う。こっちが知らないうちに何をしてるんだ。
「空坊が動物園に行きたいんだとよ。パンダ見て、キリン見て、さっちゃんのうまい弁当とばあさんの十八番をたらふく食うわけさ。行きたくなきゃ来んな。根性なしに用はねえ。」
そうは行くか。
休日の動物園は思いのほか空いていた。とはいえ、人気のパンダの前にはさすがに混んでいて、僕らは自然、その辺りを迂回するはめになった。孔雀や雉子、ペリカンなどあまり人気のない鳥類の檻の前を通り過ぎたところで、空がつたない足どりで駆け出す。「山羊のおじいちゃんだ!」
空の駆け出した先は山羊の檻だった。のんびりと寝そべり、草をはんでいる。
「おじいちゃんと同じ顔してる!」
近くにいた家族連れが、山羊とじいさんの顔を見比べて笑いを堪えている。つられて僕らも笑ってしまう。確かに同じ顔だ。
いつまでも口を動かしている山羊の様子に、空が「山羊も入れ歯なの、」と不思議そうな顔をしている。
「空坊、山羊の胃袋は一個じゃねえんだ。反芻って言って、いっぺん胃袋に入れた餌を、もういっぺん口に戻して噛んで、次の胃袋に入れんだ。すげえだろ」
うっかりそんなことを言ってしまったものだから、その後も「何個あんの」「なんでいっぱいあんの」とじいさんは質問ぜめにあっている。困った顔で解説を読みながら説明しているじいさんを眺め、僕と幸子は傍のベンチに腰掛けた。
久しぶりに会った幸子のふだんと変わらない様子に、僕はなんだか固くなってしまう。何をしゃべっていいのか分からず、事故やコルセットの説明をくり返した。心配そうに頷き、眉を寄せる幸子に、僕はますます早口になり、病院の事務員の対応の悪さから、病院のベッドが不足している問題だの、介護保険の問題だのどうでもいい話ばかり口をついて出てしまっていた。どうしようもない。
「こいつはな、さっちゃん会いたさに夜な夜なうちを抜け出しちゃあ、アパートの前までおんぼろバイクで通ってたわけさ。挙げ句にこのザマだ」
いつの間にか隣のベンチに腰掛けていたじいさんが笑う。憎らしい。
「そうじゃないよ、寝付きが悪いから飛ばしてただけだ。余計なこと言うなよ、じいちゃん」
「眠れねえのはさっちゃんたちに会えないからだろうが」
うろたえる僕を気づかってか、幸子はポンと膝を叩くと、「さあ、この辺でお昼にしましょうか」と言って立ち上がった。
ばあさん直伝の筑前煮も思いのほかうまく出来ていたが、幸子の手製の弁当もそれはうまかった。食後のお茶を飲んでいると、空がこちらをじっと見ている。
「ねえ、それ、ぼくのとお揃いだね」
首のコルセットのことを言ってるのだった。
苦笑しながら頷いて見せると「それ、コンジョウが治るまで取れないんでしょ。おじいちゃんが言ってた」と嬉しそうな顔を見せ、ひょいとベンチから降りる。あのじじい。
空はといえば、また山羊の方まで駆けてゆき、幸子がそれを追う。
残されたじいさんと僕は間が持たず、もう満腹だというのにまだ弁当の残りを箸でつついていた。最初に口火をきったのはじいさんだった。
「山羊っていうのはな、高ぇところが好きなんだ。崖とかよ、山の斜面とか危ねえところでも、ニカニカ笑ってるわけよ」
「俺に説明すんなよ」と言うと、じいさんは真顔で続ける。
「根性すわってると思わねえか?」
黙っていると、じいさんは言った。
「おまえも山羊の孫だ」
園内を回っていた写真屋に声をかけられ、僕らは山羊の檻の前に並んでいた。空の後ろに、僕、じいさん、幸子と並ぶ。じいさんは曲りかけた腰をこの時ばかりはしゃんと伸ばし、しかめっ面で「男前に撮らねえと金払わねえぞ」と、写真屋を脅かしていた。
「そんな怖い顔して写るもんじゃないよ」
うるせえ、と答えたじいさんに、僕は言ってみた。
「じいちゃん、俺といっしょに子育てしてくれるか、」
自分でも驚いた。じいさんは何も言わなかった。
帰りしな、上機嫌なじいさんは「俺に求婚してどうすんだよ」と肩を押した。
後日、出来上がった写真。
名前負けの女と山羊。そして山羊によく似た男と、足を踏ん張って立っている小さな小山羊は揃ってコルセットを巻いている。出来は悪いが、これが僕の家族だ。
写真のなかの山羊は、これ以上ないくらいに満面の笑みをたたえていた。 |