第40話
ヒヨコとたくあん
中元彩紀子 |
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私たちが新居に選んだのは、都心から離れた郊外の古い街だった。半世紀前までは東京の西部一の繁華街を誇っていたというが、さびれかけたアーケードの商店街は昼間でも人通りもまばらで、和菓子や金物屋などの商店の並びに突然マンションの瀟洒なエントランスが出現したり、かと思えば二軒続けてシャッターが降りていたり、どことなくでこぼこな印象の街だった。大通りから路地に入ると野良猫がお腹を出して昼寝していた。
「なんだかさ、この町って昭和っぽいよな」
草むしりをしている私に、夫が縁側続きの座敷きでごろりと横になりながら話しかける。猫の額より狭い庭とはいえ、はびこっていた雑草の根は思いのほかしぶとい。最近になって体調が変化したせいか、湿った草いきれに時々えづきそうになる。
「たとえばさ、商店街の柱のプラスチックの桜とかさ」
「木でできた掲示板も見つけたわよ」
「商店街の裏の映画館、まだ入れ替え制じゃないらしい」
「田舎だねぇ」
「でも近所に動物園があるってのは大いなる長所だな」
「…ねえ、たくあんの墓、この辺に作ってあげよっか」
庭の東側の、他より少しこんもりと盛り上がった場所を指してそう言うと、夫は目だけそちらに向け「ああ、いいね」と答えた。会話はそこで途切れた。寝てしまったのか、それとも寝ているフリなのかは分からない。
たくあん、というのは猫の名だ。結婚前から夫が飼っていた雑種の雄猫で、食の好みが変わっていた。一番の好物が、塩抜きをしてカツオ節をまぶしたタクアンだった。近所の野良猫が産んだ数匹の子猫のうち、一匹だけが親猫から疎まれていたのだ、と夫は言った。
「野生の猫はさ、人間の匂いのついた子猫はつまはじきにするんだ。こいつ冒険野郎だから、子猫のうちから単独行動してたんだろう。そのうえ人なつっこいから、きっと人間に撫でられて帰ってきたんだろな。それで親に捨てられたんだよ」
小雨の降り続く肌寒い秋の日に、当時住んでいたアパートの軒下で、ガリガリに痩せてニイニイ啼いて震えていたのがたくあんだったという。母親の経済事情で幼少期に養護施設に預けられ、就職するまでそこで暮らしていたという夫にとって、たくあんは初めてできた家族だったのだろう。
猫は家中で爪を研ぐし、洋服は毛だらけになるし、何より食卓やシンクの上に上がったり不衛生極まりない。そう言って眉をひそめていた私だったが、初めて訪れた彼の部屋で紹介された彼の相棒は意外だった。キッチンには入らなかったし、爪研ぎは決められた爪研ぎ用の板でしかやらなかった。部屋のなかを縦横無尽に走り回ることもなく、四肢を揃えてじっとどこかを凝視している様は、気位の高い若侍のようだった。タクアンをやったときだけ夢中になって齧りつくのがおかしかった。キュリキュリキュリ、と高い小刻みな音を立てていた。
「清潔で行儀もいい。な、これで問題はなくなっただろ」
その分かりにくいプロポーズが気に入って、それからわずか一ヵ月後に籍を入れた。そして、今の家に越してきて三月もたち、ようやく落ち着いたある日の朝、たくあんは突然死んだ。心臓に生まれつきの欠陥があったのだと言われた動物病院の帰り道、夫は声こそ出さなかったが、ぐっと奥歯をかみしめ、耳の下のあたりが時折ぴくぴくと痙攣していた。彼はその表情の奥で号泣していたのだった。
動物葬を請け負っている業者に頼み、火葬し読経をあげてもらった。結婚そうそう式を上げるどころか葬式を出すとは思わなかったな、と夫は笑った。
「俺たちさ、きっとうまくいくよ」
「突然なに、」
「御役御免ってことだろ。嫁さんもらって、中古のボロだけど一軒家を買って、そういう主人の幸せを見届けてから逝ったってわけだ、こいつ」
夫はそう言って、小さな骨壷を指ではじいた。
縁側でレモネードを飲みながらタクアンを齧っていると、通りの方から祭り囃子の笛の音が聴こえてきた。いつのまにか起きてきた夫が背後に立って、庇に吊るした風鈴をチリンと揺らす。
「夏祭りだな」
夕刻近くになって散歩に出ようという夫とともに表を歩いていると、街路樹のあちらこちらに提灯がかかっていた。近くには『夏祭りのお知らせ』なるポスターが貼ってあった。
歩いてすぐの神社の境内は、すでに夜店の灯りと浴衣を着た人々で賑わっていた。隣接する駐車場に設置されたやぐらでは、兵児帯の子供たちが輪になって踊っている。
りんごあめ、金魚すくいにタコ焼きに射的。一つひとつひやかして歩く。途中、イカ焼きの濃い匂いと鉄板の熱気にえづきそうになったが、ここのところ喪に服していた感のある私たちは、久しぶりに華やいだ気分になっていた。そんなとき夫がふと「何か聴こえる」と立ち止まって耳をすませた。盆踊りや人々の話し声の背後に、細く高い音がせわしなく続いている。
音の出どころは、夜店の連なりの一番奥の屋台だった。ちんまりと座った小柄な若者の前に真黄色の平たいボール箱が置いてある。
黄色く見えたのは無数のヒヨコだった。それらがせわしなく動き、さかんにピヨピヨ鳴いている。
「珍しいね、今どき。まだヒヨコの屋台なんか残ってたんだ、」
夫が若者に声をかけると、彼はほとほと困ったという表情でこちらを見上げる。
「今どきヒヨコなんて、カラーヒヨコでも売れませんよ」
「カラーヒヨコなんてよく知ってるね、俺でもうろ憶えなのにさ」
「何、カラーヒヨコって」と夫に尋ねると、昔はよくピンクや水色に染められたヒヨコが夜店で売られていたのだと教えられた。
「数日後、色が落ちてただのヒヨコになったのを見てがっかり。しかもやがて可愛さとは無縁の、大きなニワトリになってしまうという悲劇つき。でもそうやって快楽主義の子供らは、先を読み冷静に判断することの重要さを知ったわけだから、あながち非道な商売とも言えないよな」
「あなたも買ってもらったことあるの、」
「え、ああ」
「お母さんに、」
「ああ、まあね」
ヒヨコを見ながら短い返事をくり返す夫に、若者はどれがいいか吟味していると勘違いしたのだろう、しきりに「安くするから」とか「こいつは状態がいい」などと言い始めた。だが、夫はしばらくしてついと立ち上がると、悪いね、と声をかけ踵を返して再び歩き出した。後ろから若者の深いため息が聞こえた。
浴衣の老夫婦がさい銭を投げる。小さい兄弟が綿菓子の取り合いをしている。カップルがヨーヨー釣りに興じている。それらの光景をぼんやり眺めながら、私たちは境内の石段に腰掛けていた。そして二人、黙ったままりんごあめを舐め続けた。やがて、夫が口を開いた。
「偶然、縁日と面会の日が重なったんだ」
私は黙したまま頷き、先を促す。
「水色のやつが欲しいって言ったらすぐに買ってくれたよ。今思えば、一緒に住んでないから後でニワトリになろうが騒ごうが知ったこっちゃないってことだったんだろうけどさ。俺は嬉しくて、その日ばっかりはかあちゃんと園で別れるときも寂しくなかったね。でも、翌朝起きてみたらヒヨコがどこにもいないんだ。箱のなかに入れて枕もとに置いておいたのに、空っぽなんだよ」
「逃げちゃったの、」
いいや、と夫は首を振った。
「鳥になってお空へ羽ばたいていきましたとさ」
「うそだぁ」
「もちろん先生の嘘さ。そこいらじゅう探したよ。そしたら裏の栗の木の下で冷たくなってた」
「逃げちゃったんだ、やっぱり」
「そのときはそう思った」
「ちがうの、」
「園の子供たちにとって親に会えるってことは何よりも嬉しいことなんだ。いろんな親がいた。約束の日に来ない親、行方知れずの親、子供の存在を周囲に隠している親。どんな親でも子供らは首を長くして待っている。そんななかで、ちゃんと約束を守って会いにきてくれて、縁日にまで連れていってもらえるんだぜ。しかもあんなかわいいヒヨコまで買ってもらえてさ。四歳の俺ははしゃいで自慢したんだよ、たぶん」
「誰かが意地悪して逃がしちゃったってこと、」
「今思えばそういうことだな。俺が林でわんわん泣いてるところに、年上のタツオがやってきた。園内一の暴れん坊で、俺は年中泣かされてたよ。タツオの親は父親だけで、そいつもほとんど顔だしたことがなかった。誰かの親が面会に来た日に限って、あいつは暴れるんだ。ところが、殴られると思って身を縮めた俺にタツオが言ったんだ。“なあ、ちょっとついて来いよ”って」
「何かされたの、」
「タツオは俺の腕をぐいぐい引っぱって、近くの畑まで連れてった。勝手に園を出て先生に怒られる恐怖と、ヒヨコが死んじゃったショックと、かあちゃんに嫌われるっていう絶望で泣きじゃくる俺の肩を、タツオは両手でつかんで、すごく真面目な顔でこう言った。“いいか、畑に埋めると生き返るって聞いたことがある”…俺たちは二人で穴を掘って埋めたよ。うっかり手を合わせたら“馬鹿、こいつは生き返るんだから”って頭をはたかれた」夫はりんごあめを舐めながら、ずっと正面を向いたままだ。
「それからどうなったの、」
「え、ああ、探しにきた先生にすげえ叱られたよ」「そうじゃなくてヒヨコ」
タツオはくすっと笑って続けた。
「ああ、それか。心配して毎日何回も見に行ったよ。だけど這って出た跡もない。掘り返しても湿った土が出てくるだけ。ある日、俺とタツオが先生に連れられて畑に行くと、ヒヨコを埋めたはずの場所に黄色い花が咲いてた。先生が植えたんだろうな。“あのね、あのヒヨコはお花になったのよ。だからこれを園のお庭に植えて大事に育てましょうね”だと。先生にしてみれば苦肉の策だわな。けどタツオは“知ってるよ、ヒヨコが生き返るわけねえじゃん! 花になんかなるわけねえじゃん! 馬鹿じゃねえの!”って叫んだんだ」
「ひどいじゃない。タツオくんはあなたに嫉妬してヒヨコを逃がしたうえに、悲しんでるあなたのことをからかってたんだ」
「ちがうよ。確かに逃がしたのはタツオの仕業だけど、あいつはいつも俺より先に畑に来て、埋めたところでしゃがんでたんだ。生き返るのを一番願ってたのはタツオなんだよ。どっから聞いたかしらないけど、タツオは本当に信じてたんだ。だけど、ヒヨコはお花になりましたなんていう大人のきれいごとは、タツオみたいに大人に裏切られ続けた子供には通用しなかったのさ」
夫は赤く染まった割り箸を胸のポケットにしまうと、尻をはたきながら立ち上がった。
「タコ焼きでも買って帰ろうぜ」
翌日、私たちは日帰りの新婚旅行に出かけた。
家を買ってしまったからハネムーンは近場にしよう、と言ったのは夫だった。行き先はまだ話し合ってはいなかったが、私は朝から弁当を作り、夫が起き出すのを待っていた。
「どこ行くの」
「新婚旅行に行こうよ」
「今から、」
「そう」
眠たそうに目をこする夫を急かして着替えさせ、私もおろしたばかりのワンピースに着替えた。弁当を入れたバスケットと水筒を持って待っていると、夫が庭に出ていくのが見えた。たくあんの骨壷を昨日掘った穴に埋めているのだった。こんもりと盛られた土のてっぺんに挿したのは、昨日のりんごあめの割り箸だった。私は弁当の蓋を開け、なかからタクアンを取り出して供えると、二人でしばし手を合わせた。行ってきます、たくあん。
「超格安日帰り旅行って、ここかよ!」
夫はげらげら笑っている。
「千円ぽっきりでゴリラもゾウもライオンもペリカンもなんでも見放題」
「新婚旅行が動物園とはな」
みんな昨日に引き続き祭りに出払っているのか、思いのほか園内は空いていた。だらりと寝そべるゾウに苦笑し、毛づくろいをするサルの器用な手つきに感心し、喉をふるわせ闊歩するペリカンに見入る。コアラは木の上で微動だにしない。巨大なネズミがウォンバットという名なのだと知り、孔雀の美しさに感嘆の声を上げる。なあ見ろよあれ、こっちも面白いよ、どれどれ、ゴリラってなんか哲学者みたいな顔してるね、ヤギってなんでいつも笑ってんのかねぇ──。
歩き疲れてベンチで休憩していると、夫婦と息子と祖父の家族連れが写真を撮っていた。
「ねえ、あのおじいちゃんなんか後ろの檻のヤギに似てない?」
弁当を広げていた夫が顔上げてそちらを見やり、とたんに吹き出す。「隣に立ってるの、あれ息子だろ。あっちもヤギ顔だなぁ」
見知らぬ、どこにでもいそうなひと組の家族を眩しそうに眺める夫に、わたしは「ねえ、」と話しかける。
「ここに、ひょっとしたらたくあんの生まれ変わりが入ってるかもしれない」
まだ少しも出ていないお腹をさすりながら言ってみる。
夫は箸をつかんだまま「え、」と言って口を開けている。
「男の子だったらタツオって名前にしようか。いつか三人で縁日に行って、もしヒヨコが売ってたら買おうよ。それでニワトリになっちゃう現実を教えて、毎年この季節にはたくあんのために迎え火を焚いて、動物園でお弁当食べるの。それで、毎日ふたりでタツオを抱きしめてあげるのよ。お父さんの迎えを待ってたタツオくんと家族のなかった小さいあなたの分も、死んじゃったヒヨコと捨て子のたくあんの分も」
ヤギ顔の家族連れを見ながら私は言う。
「それで、あんなふうに家族写真をたくさん撮ろうよ」
風上から小さく、祭り囃子と子供たちの嬌声が聴こえてくる。
いつの間にかうつむいていた夫はゆっくり顔を上げ、赤い目で「いいね」と微笑んだ。 |