air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第42話

夏の終わりとアマガエル

中元彩紀子

 二日間続いた縁日の店仕舞いを済ませ、大方の荷物を積み終えた若いやつに、明日の予定と指示を告げる。町内会の役員らしき初老の女は、最後の提灯を外しにかかっているところだった。目が合い、どちらともなく軽く会釈する。
  女が去ってゆくと、辺りは夏の夜気にひっそりと包まれた。つい今しがたまで、子供や若者の喧噪や嬌声でごったがえしていた光景が、引き潮にさらわれたかのように寂寞としている。境内の最上部の石段に腰掛けると、尻にひんやりとした温度が伝わる。ごろりと横になる。
  頭上に広がった夜天を、北からの風にあおられた雲が急ぎ足で通り過ぎてゆく。茫洋とした気分でそいつを眺めていると、林の方から男の話声が聞こえてくる。大方、虫捕りにでも興じているのだろう。その声も間遠になり、「ジ、ジジ」と聞こえていた蝉の声も聴こえなくなった。どれ、もういい女でもつかまえて首尾よく御役を終えたんだろう、ちくしょうめ。しん、と静まり返った境内に寝転がり、首だけ動かして辺りを見回す。誰もいない。今夜はここで夜を明かすのも悪くねえな、とひとりごちる。
  夕方、孫娘の手を引いたじいさんが、禿げた頭をつるりと撫でながら苦笑していた。「綿菓子一ッ袋五百円とは時代も変わったもんだ、俺の餓鬼の頃はせいぜい五十円かそこらだった気がしたなぁ」
  それは俺のせいじゃあないぜ、と今になって答えたところで、湿った風が吹いてくるだけだった。

 
  「お父ちゃん、きらい。縁日もきらい」
  はっとして目を開け、ぐるりを見回す。娘の千寿子の声だった。なんだ、美紗子の奴はどこだ。こんな遅くまで起こしておくなんて…。起き上がり、手ぬぐいをつかんだ皺だらけの自分の手を見て苦笑する。あれが千寿子の声であるわけがねえ。あの子はとうに死んだんだ。三十年以上も前だ。それから子供は出来ず、女房の美紗子は他所の土地へ越してった。何年か前に、葬儀の案内も来てたじゃねえか。
  「…夢か」
  ひとりごちて、また横になると携帯電話が鳴った。明日の仕込みが終わったという連絡だった。
  ─オヤジさん、明日でいよいよ最後でしょ。引退式でもしようってみんなで言ってんですよ─
  そういうのはやめてくれよ。
  ─何言ってんですか、約半世紀の勤労感謝ですよ。主役が来てくんなきゃ始まりませんて。じゃあ、また明日─
  電話をしまい、ふたたび横になって目を瞑る。半世紀という言葉が耳にこだまする。そこへ、今し方夢うつつで聴いた千寿子の声が重なる。お父ちゃんきらい、か。春夏秋冬、祭や市がたつとなれば夜店はどこででも出る。夏休みにはそこいらじゅうで夏祭りだ。かきいれ時に子供の相手なぞしてはいられない。女房に任せきりでよかったのは幼稚園くらいまでだ。小学校へ上がる歳ともなると、周囲の友達の家と自分のうちはどうやら違うらしいと気づきはじめる。月給取りの家じゃあ、夏休みとくれば家族旅行だ。海や山や避暑地の貸し別荘なんかへ行った話を聞けば、子供の肩身も狭かろう。思い出してみても、連れていった場所といえば近所の公園と、動物園と…それだけか。
  夏休みも終わろうとするある日、海へ行きたいとごねる千寿子を叱りつけ、玄関の引き戸を閉めた。表の木戸を開けるとき、しゃくり上げながら千寿子は言った。「お父ちゃん、きらい! 縁日もきらい」美紗子のなだめる声に、泣き声がかぶさる。荷物を積んで車のドアを閉め、エンジンをかける頃には、幾分芽生えていた罪悪感などすっかりなりを潜め、その日の仕事へ向かった。ふた町ほど離れた新興住宅地の小さな盆踊りだった。食紅を混ぜたピンクのわたあめが出だした頃で、小さな子供の多いその地域での上がりはこれまで以上に上々だった。これなら最後の一日くらい誰かに任せて、千寿子をどっかに連れてってやれるなぁ、と考えたのを憶えている。
  それから後のことは切れ切れの記憶しかなかった。
  病院で頭に包帯を巻かれて横たわる千寿子に、チィちゃんチィちゃんと泣きながら縋る美紗子の声。「あんまり泣くもんだから可哀相になっちゃって、一日くらいお父ちゃんもお仕事お休みしてくれるよう頼んでやるよって言ったんだよ。そしたら、そんならチィちゃんも頼んでみるって。帰ってからでいいって言ったのに、あんまり嬉しかったもんだから、千寿子…チィちゃん、ごめんよ、」
  バスに乗ってすぐの新興住宅地だ。家からバス停までは百メートルもない。信号はひとつっきりだった。そのひとつっきりの信号が青になった瞬間、無茶をした白い乗用車の上をぽーんと飛んだのだそうだ。
  「なんでできもしねえ約束なんかしやがったんだ! なんでおめえがついて行かなかったんだ!」罵声はいつしか嗚咽に変わっていた。てめえの娘が担ぎこまれていたときに、新しい街の小洒落た家に暮らす勤め人の子供らに、愛想を振りまきながらわたあめを売っていた自分を、一生分呪った。
  葬儀はどうだったのか、その後どうして暮らしていたのかほとんど思い出せない。子供を失った夫婦がやり直すのは難しいという世間の声に従った訳じゃないが、数年後、美紗子は出て行った。あの時、俺はなんと声をかけたんだろうか。

 
  どっちにも可哀相なことをしちまったなぁ、とぼんやり夜天を見上げていると、カランと下駄の音がした。町内会の誰かが忘れ物でも取りに来たか、と首を持ち上げると、音の主が仄暗い参道の入り口に見えた。近づくにつれ、白地に桃色の帯をしめているのが分かる。小柄な女だった。手には団扇を持っている。驚かしてはいけないと、寝転がったままひとつ咳払いをし、こちらの所在を告げる。
  それでも浴衣の女は立ち止まるわけでもなく、同じリズムでのんびりとした下駄の音が続いている。目を瞑って寝たふりを決め込んでいるうちに、足音が途絶えた。片目をうすく開けてみ…。
  「わっ、なんだい、」
  目の前に女の顔があったもんだからたまげた。女の手に下駄がぶら下がっている。
  「びっくりした?」
  女が笑いながら言う。
  「あったり前じゃないか、え。年寄りを驚かすもんじゃないよ、」
  女はごめんなさい、と言ったが、口元はまだ笑っていた。四十くらいだろうか。結い上げた髪の後れ毛が、汗で湿った首にまとわりついている。
  「あんまり寝苦しいんで夕涼み。ここは涼しいね、」
  「女が一人でこんなとこに来ちゃア、危ないじゃないか」
  女はそれには応えず、少し離れた場所へ腰を下ろし、黙ったまま団扇で扇いでいる。こちらもまたごろりと横になる。
  「知ってるよ、わたあめ屋さんでしょ。今夜はいっぱい売れたでしょう。夏は儲け時だもんねぇ…」
  女が独り言のようにつぶやく。
  「まあ、ぼちぼちってとこだなぁ」
  「今年の夏で最後なんでしょ…」
  え、と思い、起きようとするが頭が重たくて持ち上がらない。
  なんで今年が終いだって知っている。同業の誰かのかみさんだろうか。幾人か思い浮かべるが、思い当たらない。女は、くすくす笑っている。なんだい、人が悪いや。
  「さっき、考え事してたでしょう。店、いざたたむとなると寂しくなった?」
  見てたのか。ますます人が悪い。
  寝転がったまま「そうじゃねえよ」と答える。
  「娘のことを考えてたのさ」返事はない。おかしな女だと首を捻ったが、それならそれでこっちも勝手に寝させてもらおう、と目を閉じる。
  どのくらい経ったろうか。眠っていたのか起きていたのか分からないくらい短く浅い眠りだったらしい。「娘って幾つ、」女の声で目が覚める。今夜はやけに静かだ。虫の音ひとつしない。女の声はまるで耳もとで囁かれているようだった。
  「え、ああ、七つだ。ずっと七つのままだ。……事故で死んじまって、女房も出てった。働くばっかしでちいとも遊んでやらねえだめな親父が、いよいよ棺桶に片足突っ込む頃になって昔のことを思い出したんだよ。…生きてたらあんたくらいだろうなぁ」
  口を動かしながらも、頭はまだぼぅっとしていた。女は黙っている。座っているのは頭の方向だから表情は見えない。やがて女は言った。
  「ちっとも遊んでやらなかったなんて嘘よ」
  なんだぁ? しばしの沈黙が仄暗い境内に染み渡る。
  女が立ち上がる気配がした。
  とたんに辺りの景色がぐらりと揺れる。景色が輪郭を失う。聴覚ばかりが研ぎすまされて、視覚が覚束ない。石段を裸足でひたひた降りてゆく音がする。そして衣擦れが耳もとでしたと思ったら、
  「ほら」
  顔の前で突き出された掌の上に小さなアマガエルがちょこんと乗っていた。
 

 「アマガエル」
  アマガエル? …ああ、と声にならない声で相槌を打つ。くすりと笑う声。風が吹き、裏の雑木林から葉のさざめきが辺りを覆う。
  「あたしね、おんぶのアマガエル見つけたことあるよ」
  急に周囲の景色がぐるぐると回る。そのなかで、来し方のただ一点の記憶だけが鮮明に蘇る。ああ、あれか、おんぶのアマガエル。
  「そう、おんぶのアマガエル。縁日の帰りに、近所の池の畔でおんぶのアマガエルを見つけたの。草むらでじーっと二匹重なって、お月見してたのよ。つかまえようとしたら、野暮なことしちゃあいけないって、お父ちゃんが。でもその代わりに、家までおんぶして帰ってくれたの」
  ああ、そうだよ、カエルの唄を歌いながら月夜におんぶで帰ったなぁ。
  「跡継ぎになるって言ったら、カエルの子はカエルだって大笑いしてたっけ」
  それで、二人で遊んで遅くなって、お母ちゃんがひどく怒ったんだよ。あれはいつの夏の縁日だったかなぁ。
  「お父ちゃんきらいって言った前の晩だよ。お手伝いしたり射的をしたり、一日中いっしょにいられて楽しかったよ」
  そうか、前の日の縁日に連れてったんだったか。そうだ、りんご飴で真っ赤になった舌出してはしゃぎながら、店の手伝いしてくれたっけなぁ。
  ──ひとつさんびゃくえんでございます、まいどありがとうございます──
  ──なんだぁ、うまいことできるじゃねえか、千寿子──
  ──じゃあ、次はチィちゃんにわたあめ作らせて、お父ちゃん──
 
 
  「ほんとは海なんか行かなくてもよかったんだよ。…あの日があんまり楽しかったから、ちょっと調子に乗っただけ」
  お父ちゃんが悪かったなぁ。
  「お父ちゃん、ごめんね」
  そうかい、それでおっきくなった姿を見せにきてくれたのかい。
  「長いあいだのお仕事、おつかれさま」
  もっとよく見せとくれよチィちゃん。起き上がろうとすると小さな手が瞼に乗せられた。
  お父ちゃんも一緒に連れてっとくれよ。
  「だめだよ。まだもうちょっと先。お母ちゃんと待ってる」
  千寿子の声だった。その愛おしい懐かしい声が少しずつ遠のいていく。
  「いつかチィちゃんがおんぶして連れてってあげるからね、お父ちゃん」
  きっとだぞ、チィちゃん、きっと──。
  お父ちゃん、またね──。

 
  気づくと、東の空が朝焼けていた。目をこすると、目頭がつっぱっている。歳は取るもんじゃあねえなぁ、と苦笑する。膝に手をかけ立ち上がると、ふと足元で何かが動いた。
  しゃがんで目を凝らせば、それは小さなアマガエルだった。やっと起きたかと呆れたような顔をして、一声けろっと啼くと、茂みの方へ飛んでいった。
  今しばらく千寿子の記憶と一緒にここにいようか。
  見上げた空には秋の雲がゆっくりと漂っていた。

 
air BE-PALに戻る