air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第43話

コスモスの秋

中元彩紀子

 夏祭りの提灯を外しにかかるとき、境内の石段に腰掛けた男と目が合った。軽く会釈した際、結わえつけた針金に指を引っ掛けたままだったせいで、指先を一寸切った。舌先で傷を舐めつつ、提灯ひとつを抱えて神社を後にした。
  町会館の裏の倉庫に、ひとつ残した提灯をしまい、鍵をかけた。カチリと鳴ったのと同時に、どこかでチリンと小さな鈴のような音が重なった。ハナブチ? と口をついて出るがそのはずはない。彼の小さな亡骸は、去年の秋口に神社の林の片隅に埋めたのだ。

 地方で子育てに忙しい娘が「一緒に暮らさないか」と言ったとき、その声にどこか硬質な響きを感じたのは、歳をとって偏僻になったせいだろうか。お母さん一人じゃ心配なのよ、と娘は言うが、別の家庭を得た娘に厄介になる気忙しさや相手方の親族への気兼ねを思うと、定期的に心配される煩わしさや時折感じる寂寥をやりすごす方がよほど安寧でいられる。そんな本心を月並みな断り文句で覆うと、娘もそう拘泥するわけでもなく口をつぐんだ。
  二十三で結婚し、娘が生まれると同時に家を購入した。子供はそれ以後は出来ず、成長したたった一人の娘が嫁いで行き、夫が定年退職したあとは夫婦二人で庭いじりや旅行などをしながらのんびり暮らしていたが、五年もしないうちに自分一人となった。男の平均寿命まではあと十年以上もあったというのに。ただでさえ、女の方が長生きするというのに。不平を言ったらきりがない。考えてみれば、一人きりではあったが子供を持ち、その子供はきちんと学校を修め、人柄のいい勤め人と結婚してくれた。夫を亡くしたとはいえ、長患いもせず、病みはじめの適度な助走をもって覚悟の時間をくれた。自分には住む家があり、食べるに困らず、適当な茶飲み友達もいて、そのうえ欲を言えば罰があたろう。それでも人生の玄冬を、誰もいなくなったこの家で一人過ごす夜は、年を経るごとに寂寥の色を濃くする。
  庭の草むしりをしているときに、頭上の雲がふと手許を覆う刹那、回覧板を隣家へ届けた帰りに門脇に張られた蜘蛛の糸がからんだ刹那、そんなことをつらつらと考えた。
  ハナブチは、そういった灰白の日々に突然「にぃ」と啼きながら縁の下から現れた。庭の黄花コスモスがぽつぽつと色づきはじめた季節だった。

 ハナブチ。
  彼は四肢に白い靴下を履いたような黒猫だった。鼻先のやや右にブチがあるので、そのままハナブチと呼ぶことにした。
  夏の暑い昼間に縁の下を覗き込むと、彼はそこで寝転がっていることが多かった。また冬の寒い時はエアコンの室外機の傍や、庭の日溜まりで何やら一人遊びなどをしていた。最初の頃は、持っていたハタキを何かの拍子でふりかざす恰好になった時には、俊敏な様子で飛び退いたり警戒している素振りを見せたが、こちらに何の意図もないことに気づくと、すぐにまた尻尾をおろして呑気に伸びなどしてみせた。ためしに煮干しだのかまぼこだのを敷石の上においてみると、おっかなびっくり近寄り鼻孔をひくつかせながら口にするようになった。手から直接食べるようになるのに一月くらいかかっただろうか。そうなると愛着がわいてくるもので、朝に夕に栄養のいい缶詰めなどを買い込むようになる。
  ハナブチは大食漢のわりにはさほど太らなかった。お腹に虫でもいるのでは、とこれまで何十年と近くを通っていたが存在すら知らなかった動物病院の戸を叩くと、駆虫薬というのを処方された。通うにつれ、こちらも随分と学習し、去勢手術だのワクチンだのノミ取りだのをはじめ、猫の栄養学などにも通じるようになった。
  「こんなに人なつっこい猫だと首輪をしておかないと、連れていかれてしまいますよ」と若い獣医師に言われた。「いいんですよ、野良だもの」と言いつつも、帰りしなに病院で売っていた鈴つきの首輪を購入した。オレンジ色の首輪と揃いの鈴は、ハナブチの黒に映え、とてもよく似合った。別段いやがりもせず、むしろ首を差し出すかのようにこちらを見上げたのだとあとで医師に教えると、彼は「だんだん親猫の顔になってきましたねぇ」と軽口を叩いて笑った。気恥ずかしくもあり嬉しくもあり、なんだか娘の小さい頃の気分を思い出すのだった。
  それからは一日じゅう家のどこにいても、耳を澄ませるようになった。庭でチリリと音がすれば、いそいそと縁側へ出てゆき、そこらのねこじゃらしで遊ぶ。どちらが遊んでいるのか分からないほど熱中しはじめると、とたんに向こうが飽きて今度は見向きもしなくなる。そうかと思えば足に力づよく摺り寄り、足元で丸くなる。肌寒い日には私の膝の上で寝返りなど打つこともあり、そういったとき、顎のわきや額のあたりを両手で撫でると、喉をごろごろと言わせるのが常だった。
 
  「なんだかお母さん子育てしてるみたいじゃない」
  娘との電話での会話も、ハナブチの話題が多くを占めるようになり、彼女は半ば呆れるように笑った。そんなに可愛いのなら、写真を撮って送ってくれというので、さっそく電気店でデジタルカメラというのを購入すると、それもまた娘の笑いを誘った。
  「活動的なのはいいことよ。お母さん、若返ったみたいね」
  デパートのペット用品売り場などを見て回ったり、テレビで猫の特集などをやっていれば食い入るように見、本屋では専門誌などをめくったりするようになる。獣医師や娘の言うように、本当に自分が子供を得た頃のような物事への目の向け方だった。
  しかし、私はペット用品や専門誌などを決して買わない。彼がいなくなったときのことを考えれば当然だ。喪失は、数を重ねれば慣れるというものではないだろう。首輪をさせ、餌は与えているが、あくまでもハナブチは野良猫なのだ、と日々自分に言い含めた。彼の方でもそれは分っているのか、家のなかに入ろうとすることはついぞなかった。
  それでもハナブチとの暮らしのなかで、私は、誰かや何かのために生きるということが、人間の生の支柱となっているということを知るのだった。だからこそ私は気をつけていた。いつまた一人になっても大丈夫なように。
  そして、その日はやはりやってきた。
  前々から腎臓が弱いと言われていたハナブチが死んだのは、病気ではなく事故だった。家の門前で冷たくなったハナブチを見つけてくれたのは、向かいの家のお嬢さんだった。車通りの激しくない住宅街でなぜ、と思ったが、朝になって通りを見てみるとそこには大通りから血の跡が点々と続いており、彼がはねられた後でよたよたと家まで戻ろうとしたことが分った。
  「猫なのに、野良なのに、やっぱりここがおうちだと思ってたんですね、この子」
  学校やアルバイトの帰りに時折寄っては、ハナブチと遊んでくれていた彼女は、私よりずっと動揺し、泣いていた。
  私の前に現れた時と同じく、彼は突然この世を去った。さめざめと泣く彼女の横で、私は冷たくなったハナブチをそっと撫でた。オレンジ色の首輪の鈴がチリンと鳴った。ああ、庭のコスモスと同じ色だったんだなぁ、と気づいた瞬間、鼻の奥がツンとした。
  動物葬というのがあると向かいのお嬢さんは教えてくれたけれど、私はハナブチを神社の林の片隅に埋めた。日溜まりの好きなハナブチのために、木々の途切れる平たんな場所を選んだ。大雨などで流されぬよう深く掘るのは骨が折れたが、黙々と掘り続けた。そして穴の底に彼を横たえ、少しずつ土をかけてゆき、最後に長く手を合わせると、すっくりと立ち上がり、振り返ることなくその場を去った。静かな、上出来な別れだった。

 九月に入り、台風が近づいている。庭のコスモスが強風でおおきくしなっていた。勢いのある雨が庇を強く打つ。心配して電話をしてきた娘と長話しは、子供や夫の近況を経て、またいつもの話題へと移る。
  「一緒に暮らそうって話だけどね、」
  「だから、その話はいいってば」と苦笑すると、そうじゃないのよ、と彼女は言う。
  「二人目できたみたいなの」
  思いもよらない慶事の報告にひとしきり喜んでいると、娘はひとつせき払いをする。
  「それでね、お母さん」
  「なによ、」
  「彼が転勤願い出してたんだけど、来年の春あたりにようやくそっちに戻れそうなの。出産もそっちですることになる思うのよね。そしたらいろいろ忙しくなるじゃない。だから、今度こそほんとに一緒に暮らせたらなぁって思うのよ」
  「手伝わせようっていうわけね。現金ねぇ」
  「だってお母さん、こんなことでもなきゃ首縦にふってくれないじゃない。一人にしとくのが心配なのは本当よ。別に家賃ケチって世話になろうってのでもないから。もしいやなら近くに住むってことでもかまわないから…」
  これまでの同居話も娘なりに本当に気をつかってくれていたのだろうと、なぜだかこの頃は素直にそう思うようになった。
  「ありがとうね」
  「何言ってんの。どちらにしろ世話になるのはこっちなのよ」と笑う娘が、急に黙り込んだかと思うと妙なことを言う。
  「何、今の音」
  「ああ、雨足が強まったのよ。雨戸まだ閉めてないから」
  「そうじゃなくて、鈴の音みたいな…」
  鈴、と聞いていつぞやか夏祭りの日に聞いた音を思い出す。
  「また猫飼いはじめたの、」
  「いいえ。あの子だってべつに飼ってたわけじゃないのよ。通いの野良猫だもの。…空耳でしょ」
  ああそう、と訝しむ娘との会話を適当に打ち切り、私は寝支度をはじめた。
  その明け方に見た夢は色のついた夢だった。ハナブチが風に揺れるオレンジ色のコスモスを追っている。眠りと寝覚めの淡いを縫うような茫洋とした頭の片隅に、鈴の音が鳴って目が覚めた。
  雨戸を開けると、雲間に青い空がのぞいていた。雨は夜の間じゅう降って、朝になってすぐに止んだのだろう。庭はしっとりと濡れており、敷石に土が撥ねている。

 神社の林に足が向いたのは今朝の夢のせいか。買い物の帰りに、ふと立ち寄る気になった。あの日以来はじめてのことだ。
  林の入り口に立つと、辺りが静かな分、鈴虫の啼き声が大きく感じられる。奥へと歩みを進めるごとに啼き声は静まり、代わりにケヤキを通り過ぎた秋風が心地よく頬を撫でる。そして、目的の場所へ目を移したときだった。
  私ははっと息を飲んだ。
  「あれは…」
  あの日、奥歯を噛み締めながら穴を掘った、木々の途切れた平たんな場所。小さな黒い体を横たえた冷たく哀しい場所。のちの日々を考え、泣かぬよう心をしんとさせたまま立ち去った場所。
  そこに今、オレンジ色のコスモスが咲き乱れていた。
  「どうしてなの、」
  あの日、ハナブチの体についていたこぼれ種でもここまでたくさんの花は咲くまい。
  揺れるコスモスの花や葉の合間から、小さな黒い影がひょいと顔を出して戯れている。
  夢想とも幻想ともつかないその曖昧な光景を眺めているうちに、ふつふつと笑みがこぼれる。
  ハナブチ、あんたはほんとにおかしな子だねぇ…。
  秋の風に揺れる花群れのなかから、まるでそれに応えるかのような鈴の音が、チリンとひとつ聴こえたような気がした。

 
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