air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第44話

まつぼっくり

中元彩紀子

 バイト先の友人との長電話を切り、人心地つこうと窓を開けると、眼下にオレンジ色の一角が見えた。お向かいの家の庭のコスモスが、街灯に照らされている。街灯には大小様々な羽虫が飛び交い、残暑の名残りを感じさせる。湿気を含んだ夜気が、温度の上がった室内にひっそりと忍び込んだとき、つい今し方の友人の声が頭の隅に蘇る。「ミナミさん、まっちゃんが来てくれるの楽しみにしてるってさ」。
  テーブルの上のケータイを弄ぶ。何気なく開いたカレンダーのなかにケーキのアイコンをひとつ見つけた。
  ミナミさんはもうじき三十歳になる。彼はバイト先であるボウリング場の上司であり、年はひと回り以上離れていた。もともとの童顔に加え、物腰の柔らかさと心やすさからバイトの学生から経理のおばちゃんまで、すべての人に慕われている。
  「誰にでも好かれるっていうのは、男としては貫禄不足ってことにもなるんだよなぁ」
  それでも副支配人という立場のミナミさんは、気難しい支配人と不服ばかりの従業員の間には欠かせない潤滑油だった。その彼が、リンパ腺の病気で入院したのは半年前のことだった。彼のいない職場というのは、繁忙期である週末や連休中にあってもどこかうら寂しい気配が漂っていた。
  「リンパ線の分野は研究もすごく進歩してるから、治らないことはないんだってよ」
  レーンの洗浄機をあやつりながら、バイトのなかでは最年長の橘さんが言った。
  「こないだ見舞いに行ったら、案外よさそうだった。まっちゃんもたまには顔だしてやれよ」

 ミナミさんは死んだ父に似ている。面接ではじめてミナミさんに会ったときにそう思った。奥二重の垂れた目や眉尻の下がった人のよさそうな顔と華奢な体つきだけでなく、人の話に割って入ることもなくいつもウンウンと穏やかに頷いているところもよく似ていた。従業員同士のちょっとしたもめ事だって彼のフォローでいつもすんなり片付いた。ミナミさんのことを、ボウリング場の座敷きわらしみたいだといった人もいた。そういうミナミさんを見るとき、私は、父の若い頃にタイプスリップして覗くような気分だった。
  父は若い頃から体の弱い人だったそうだ。生きるのにどこか控えめな人だったと親戚の誰かは言った。
  父は幼い私にいろんなことを教えてくれた。鳥や虫の名前や、飛行機がどうして飛べるのか、なぜキリンの首が長いのか、こちらが訊ねなくても、散歩や食事の後の団欒のときなどに、ときには絵を書いたりしてていねいに説明してくれたものだ。自分の寿命が長くないことを知っていたのかどうかは分からないけれど、時折、命の話と称して、不思議な話をしてくれた。
  ある秋の日、公園に立ち寄った私と父は、お気に入りの青いベンチに座っていた。
  空は抜けるような青空で、南から吹く風が雲を北へ北へと押しやっているのを、私は半身を仰向けて眺めていた。
  「じゃあ、赤とんぼはいても青とんぼはいないのかぁ」
  「真知子は面白いことを言うね」
  「でも黒いとんぼはいるのに、黒とんぼって言わないんだね」
  「あれは羽黒とんぼって言うんだよ」
  「ふぅん」
  「あれは冥府の使いなんだよ」
  「メイフのつかいって何、」
  「死んだ人が天国についたよって知らせに来るんだよ」
  「ふぅん」
  そんな話をしていたときだったと思う。父が、「あっ」と声をあげ、頭に手をやると同時に、私たちの足元に何かが転がり落ちた。
  「まつぼっくりだ!」
  父は笑いながらそれを拾い上げて、私に手渡した。
  「まつぼっくりって、真知子はなんだか知ってるかい」
  「…わかんない」
  「まつぼっくりっていうのはね、種のおうちみたいなもんだね」
  私は手のなかのそれをひくりかえしたりしながら、覗きこむ。
  「どれが種?」
  「もう飛んでっちゃったよ。このカサのひとつひとつにね、種がついてたんだよ。種には薄い膜の羽がついてて、晴れてて風のある日にふわっと飛んでいくんだ」
  「羽が生えてる種なの、」
  「そう。柔らかい土のうえに着地するのを願いながら、うんと遠くまで飛ばすんだよ。ひとつのまつぼっくりから、たくさんの子供が生まれて、またそれがたくさんの種を飛ばすんだ。生きてるものはみんなそうやって、命をリレーしていくんだよ。人間もね」
  「真知子は羽ついてないね」
  父は松を見上げながら言う。
  「人間はね、死ぬときに見えない羽が生えるんだよ」
  「なんで」
  「羽ばたいて天国にいくためさ」
 
 
 
  ミナミさんの結婚が病気のせいで延期になったという話を聞いたとき、私はとても哀しい気持ちになった。
  彼女は(桜さんという)同じ町の幼稚園の先生だった。幼稚園のイベントで園児たちをひきつれてくるときや、園児たちの書いた絵をボウリング場に貼りにきたときも、私はこっそり彼女を採点してみたが、余裕の及第点だった。美人というわけではなかったけれど、弓のような目に色白でふっくらした頬や柔らかそうな腕を見るたび、私はそこに母の若い頃を重ね、そこに抱かれるミナミさんを思い、どこかほっとした。ミナミさんと桜さんが並んで静かに話などしていると、その光景を「座敷きわらしの打ち合わせ」と言って笑う人もいた。悲しみなどとうてい似合わない二人だった。
  ミナミさんが死んでしまうということは、私にとって二度父を失うようなものだ。この半年の間、一度しか見舞いに行っていないのは、彼の命の危うさを目にしたくないからだった。
 
  翌日、駅前で巨峰と梨を買って、病院へ向かう。同僚が言うには、薬のせいで髪は抜け、幾分やせたという。それでも頭に巻いているバンダナのせいで、どこかの喫茶店のマスターにも見えると誰かが言っていた。
  病院の中庭のベンチに腰掛ける。ふと見上げると、病室の窓の向こうの人影が大きく動いた。手をかざしてこちらを見ている。桜さんだ。それに気づいてまもなく、その隣にもうひとつ人影が並んだ。その人は、青いバンダナを頭に巻いて、大きく手を振っていた。
  個室のドアを開けると、正面の大きな窓のところに桜さんが立っていた。振り向きざま、彼女が駆け寄る。
  「まっちゃん!」
  どんな顔をしていいか分からず曖昧に微笑んでいると、ミナミさんがベッドから体を起こして笑ってこちらを見ている。
  「やっと顔見せてくれた」
  私は見舞いの果物を桜さんに渡して、勧められるままスツールに座る。
  「ミナミさん、思ったより元気そうで」
  「うん、だいぶいいんだ」
  死にませんよね、とは聞けず、私は口籠る。
  「なにを緊張してるんだい」
  二人が顔を見合わせて不思議そうに笑う。
  だいぶよくなってきているということ、最近では中庭の散歩もできるようになったこと、仕事先の連中が毎週来ては支配人の悪口を言いにくること…二人が交互に話す。どちらが見舞われているのか分からないほどだ。
  「まっちゃんの話も出てるよ」
  「何言われてるんですか、私」
  二人は顔を見合わせて、そっちが言えとつつきあっている。やっと桜さんが口を開いた。
  「あのね、まっちゃんがこの人が死んでしまうんじゃないかって心配して、日に日にやつれてってるって」
  職場の人たちの顔を思い浮かべて苦笑する私に、ミナミさんは言った。
  「僕らね、来春に結婚することになったんだ」
  「ほんとに!?」
  照れ笑いするのは今度は桜さんだった。
  「じゃあ、ほんとにもう治るんだ。退院できるんだ」
  私がそう言うと、二人は同時に頷く。
  ふとベッドの枕元に目をやると、そこにはまつぼっくりがふたつ置いてあった。
  「まつぼっくりだ…」
  ミナミさんは「ああ、」と言って、それを手許に引き寄せた。
  「ここの中庭にね、大きな松の木があるんだよ」
  私は、それを手にとりしばし眺める。
  「ミナミさん、知ってますか。まつぼっくりの種ってこのカサの裏についてるんです。羽の生えた種が風にのって飛んでいくんです」
  「へぇ、種に羽がついてるんだ」
  「ええ。雨の日にはカサを閉じて種を守るの。そしてお天気のいい風のある日になると、子供たちが飛んでいけるようにカサを開くんです。人とは逆なんですよ。おかしいでしょう」
  「物知りだねぇ」
  「父から教わったんです」
  二人はまつぼっくりを手にカサのなかを覗きこんで感心していた。
  「結婚したら、かわいい女の子産んでね、桜さん」
  また近いうちに顔を出すと約束し、私は病室を後にした。
  門に向かって中庭に足を踏み入れた時だった。
  頭の上に何かが落ちてきた。足元を見ると、それはまつぼっくりだった。
  父がどこからか見ているような気がして、前方の空を見上げる。
  病室の窓から、若い頃の父と母が手を振っていた。

 
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