第45話
野良猫ノ十五夜祭
中元彩紀子 |
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あの日、いつも通りお客が満員だったら、僕はあの公園の存在を今でも知らなかっただろう。もし、バイトの椿くんの足の上にレーンの洗浄マシンが倒れなかったら、僕は彼らに会うことはなかったろう。そして、僕がばあちゃんの孫でなかったら、僕は彼らに気づくこともなかっただろう。
朔月から満月に向かうある秋の日のこと。それはひどく曖昧で、そして不思議な出来事だった。
市の西端にある古いボウリング場が僕の勤め先だ。山が迫っているせいで、日暮れは早い。週末や休日ともなると、カップルや家族連れで賑わうけれど、平日に26本のレーンがいっぱいになることなどまずない。こういう日は、ふだん忙しくて出来ない作業に手をつける。
フロントまわりの整理、受付票の作成、壊れかけた傘立ての修理。この日はフロントや出入り口に貼られたポスターをきれいに貼り直した。会員募集や地域の防犯、猫の里親募集、指名手配犯などのポスターなど、雑多なそれらが、はがれかけていたり破れていたり、みすぼらしいことこのうえない。なかでも、数匹の野良猫の写真が貼られた里親募集のポスターは、常連さんにむりやり頼まれて先週貼ったばかりなのに、すでに破れかかっている。
キジトラや三毛、茶トラや白猫。この近くの公園に住んでいるらしい。『助けてあげないと保健所に連れていかれて殺されてしまいます』とあるが、確か最近は保健所も犬猫の処分はしなくなったはずだ。こう書けば愛猫家の心に訴えられると目論んだんだろう。
このおばさんは、遠くからわざわざ餌を持ってやってきては、野良たちに餌をやり、餌をそのままにしておくものだから、その近所からひどく嫌われているらしい。残った餌にはナメクジやゴミムシがたかる。たらふく食べた猫の糞尿は自然、多くなる。おばさんの猫を愛する気持も分からないではないが、近所に住む人もたまらないだろう。ご近所と反目すれば、そのとばっちりが猫に行くのは当然といえば当然で、おばさんの所業は猫の首を絞めているのだ、というのが僕ら従業員の共通の意見だった。
野良にとっては野良が一番だろうに、と僕はひとりごちながら、セロテープで修復を続けた。不意に、死んだばあちゃんが言っていたことを思い出す。
「秋の夜には、野良たちの祭りがあるんだよ。その一年に死んだ猫の弔いと、生き延びた猫のお祝をみんなでするのさ。そんときばかりは、一斉に姿が見えなくなるんだ。どこで遊んでいるんだかね。でも、あたしはいっぺんだけ見たことがあるんだよ。子供の頃にね」
人馴れした野良の三毛猫に餌をやりながら、ばあちゃんは縁側で教えてくれた。
「あたしが四つか五つの頃だったかねぇ。お宮さんの裏に、いつも何匹か猫がいたんだよ。ふだん通り、親に内緒で餌をやりに行ったら、その日はいなかった。おかしいなぁ、と思って突っ立ってたら、近所の隠居が通りかかってね、猫ならいないよって言うじゃないか」
満腹になってヒザの上で丸まる三毛の背を撫でながら、ばあちゃんは続けた。
「なんでって聞いたら、じいさん食っちまったって言うのさ。あたしはびっくりして泣いたね。そしたら、嘘だよ、十五夜祭りに出かけたよって教えてくれたんだ。その夜さ。夜中に用足しに起きると、厠の向こうの林から人の声がするじゃないか。厠の格子窓からそーっと覗くと、ろうそくの灯が五つ六つばかり見えてね、ときどき小さな笑い声が上がる。木々のあいだに着物の黄色い帯が見えかくれしてるのも、この目でちゃあんと見た。びっくりして、出るものも引っ込んじまったね。心配して様子を見に来た母親に教えても、そんなものいやしないって言うんだよ。おっかしいねぇ、確かにあたしには見えたし、ちゃんと聴こえたんだよ。手を引かれて母屋に戻るときにだって、あたしにはちゃんと灯が見えたんだ」
この話は、確か小学生のときに聞いたのだと思うが、僕は大人になった今でも野良猫を見かけるたびに、そこに某かの妖しさを見てしまう。彼らがひた隠しにする彼らだけの慣習と、人間が手にすることの出来ない永遠の智慧のようなものを、その光る眼の奥に潜ませてこっそりほくそ笑んでいるような、そんな気がしてしまうのだ。たぶん猫は庇護されるような生き物じゃない。だからなのだろう、僕はその里親募集のポスターを半ば鼻白んで眺めてしまうのだった。
昼間こそほどほどにあった客の出入りも、夜になるとぐんと減る。それでも数組いた家族連れやカップルも三々五々帰っていき、今や場内は、一番端のレーンで黙々と投げ続ける作田さんという会員さんだけだった。
客入りの少ないこんな平日は、極少人数で回す。副支配人は長期療養中だし、支配人は出張中だ。メカニックのスタッフはすでに帰ってしまっていたし、残っているのは僕とバイトの椿くんとまっちゃんという女の子の三人きり。いつもより大きく聴こえる有線に、作田さんの投げる音が寂しく重なる。今日はもう誰も来ないだろう。ぼちぼち清掃でも始めようかという時になって、突然、八人の集団がやってきた。
青年や学生風の女性、それに初老の男女に小学生くらいの子供たちも混じっていたが、家族という雰囲気ではなかった。閉店まであと一時間しかないのだと告げると、それでもいいと言う。どこかで飲んできた帰りなのだろうか、皆ほがらかで上機嫌だった。おおかた酔い覚ましのつもりでやってきたのだろう。
彼らは三つのレーンに分かれてゲームを始めた。子供が嬌声を上げ、青年がストライクを出すと、少女は小さく歓声を上げて拍手し、球を外した初老の男は真剣に悔しがる。そうかと思えば白髪まじりの婦人はプロ並みのフォームで難しいスプリットを見事に倒す。喝采を浴びて得意満面だ。ふと見ると、子供がレーンの上を転がって遊んでいる。発見した椿くんがすかさず注意しに行く。
このバイトの椿くんという二十歳の青年は、頭は金髪で鼻や耳にたくさんピアスをしており、私服はブラックデニムにロンドンブーツといういでたちからだと、にわかには想像しがたいが、実は「学費と生活費を自分で賄う苦学生」という希少動物だった。
そんな彼が、レーンで転がる子供に注意すると、その場に全員が済まなそうに頭を下げているのが見える。
帰ってきた椿くんに「なんて言ったの」と訊ねると、彼は言った。
「レーンに入ったら、倍の料金いただきますって」
勝手なことを言われちゃ困るよ、と苦笑していると、彼はふたたびレーンを振り返って首を傾げた。
「…あの人たち、家族じゃないみたいですけど、どういう集まりですかね」
「一見さんみたいだね。記録もなかった」
「いや、去年も見た気がするんですよ。やっぱりひと気の少ない深夜。あのプロ並みのおばさん、なんとなく見覚えあるんだよなぁ」
つぶやくように言い残し、椿くんは空きレーンを洗浄しに行った。
入れ代わりに作田さんがゲームを終え、精算しにフロントに顔を出す。
「いやぁ、やっぱギャラリーがいないとやる気でねえよなぁ」と渋い顔だ。打ち出されたスコアに目を通し、なるほどと思いながら渡すと、彼はアクビをしながら帰って行った。
次の瞬間。
突然、ガッシャーンという大音響がフロアに鳴り響いた。一瞬遅れて、まっちゃんの叫び声が聞こえる。慌てて飛び出していった僕の目に飛び込んできたのは、重さ百キロ以上もある洗浄マシンの下敷きになって呻いている椿くんだった。
「橘さん…椿くんが!」
まっちゃんが青くなりながら、必死でマシンを持ち上げようとしている。件の八人も駆け寄り、子供たちはおろおろしている。
僕も一緒になってなんとか持ち上げ、挟まっていた彼の足を引き抜く。眉根を寄せて天井を仰ぐ彼の口から「すいません…」と漏れた。少し動かすだけで痛がる椿くんの足に、白髪の婦人が手を当てている。ヒザを曲げさせたり、かかとに手を添えて足首を上下させている。その場にいた全員がそれをじっと見ていた。やがて婦人は、ひとつ頷くと、
「大丈夫。骨は折れてない。朝まで冷して、病院行きなさいね」と言った。
スタッフルームに椿くんを運ぶのを、青年と初老の男性が手伝ってくれた。フロントに戻ると、彼らはもう帰り支度を済ませ、精算を待っているところだった。子供たちは出入り口の辺りで、何やら可笑しそうにクスクス笑っている。閉店までの貴重な時間を台なしにしてしまったのだから、ゲーム代はサービスすると申し出る僕に、婦人も男も首を振る。そして、何故か全部小銭で支払いを済ませ、帰って行った。
妙な人たちだった。
「すいません。橘さんち、反対方向ですよね」
助手席で項垂れる椿くんは、足に冷却剤を巻いている。
「いいよ。それより当分はロンドンブーツは履けないな」
椿くんは「アー」と一声嘆くと、それきり黙り込んだ。
夜更けの通りには、車も人気もなく、静かに点滅する信号と街路の柳だけが僕らの車を見送る。
大通りを抜け、住宅街に入ったあたりで、椿くんがおもむろに口を開いた。
「あ、橘さん、あの公園ですよ。ほら、里親募集の猫のいる…」
彼の指差す方向へ進んでみると、民家の連なりが不意にとぎれた。遊具はなく、植物とベンチと水飲み場だけの小さな公園だった。
早いところ彼を家まで送り届けなければならないにもかかわらず僕が車を止めたのは、ぼんやりと灯る常夜灯の下に、猫が数匹いたからだった。
猫たちはみな、こちらには見向きもしない。じゃれ合ったり地面に体をこすりつけたり、そうかと思えば折れた木の枝を奪いあって芝生の傾斜をころがったりしている。じっと見ていると、笑い声が聞こえてきそうなくらいだ。
「八匹いますね、猫。小さいのから老いぼれまで、老若男女そろってる」
「一、ニ、三……、ほんとだ」
体勢を戻した椿くんが、痛みに顔を歪めたのに気づいて、僕は慌てて車を発車させた。
アパートまでの道に入ったところで、椿くんが言う。
「さっきの猫がじゃれてたやつ…あれって、またたびじゃないですか、ひょっとして」
「またたび?」
「ほら、猫が舐めたり齧ったりすると、ごろごろ転がったり、酔っぱらったみたいになる猫の好物です」
「ふぅん…」
上機嫌な八匹の猫。耳の奥でばあちゃんの声がする。
──秋の夜には、野良たちの祭りがあるんだよ──
やがて車はアパートの前に到着し、僕は部屋まで肩を貸す。
「明日、病院ちゃんと行くんだよ」
「はい。でも折れてないみたいですよ、ほんとに。そういえば、マシンが倒れかけたとき、足元になんかぶつかってきたような感じがしたんです。そんで俺、よろけたんですよ。そうじゃなかったら、ここ、もろ足首ぽっきりいってましたね」
もう一度確かめようと戻ってみた公園に、もう彼らの姿はなかった。
僕は苦笑する。
…ばかな。見たまんま、ただの猫だったじゃないか。
だけどあの八人は。
来年もまた、彼らはそろって来るだろうか。
「…あのポスターははがそう」
僕は、十五夜に浮かぶ不格好な月を見上げながら、そうつぶいやいた。 |