air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第46話

夕焼けの石

中元彩紀子

 古い医院の裏庭に面したアパートには、越してきた当初から小さなグミの木が植えてある。暖かい季節になるとぷるぷるした赤い実がなり、時折小鳥がついばみに来ている。ついこのあいだまで残暑で寝苦しかったというのに、今では朝晩に限らず陽の高い日中でも風の冷たさにはっとさせられる。グミの木も幾分ちぢこまっているように見えた。
  さして重要でもない授業に関しては「ダイヘンとっといてやるよ」という坂本の言葉に甘え、昼日中から部屋でごろごろする日が増えた。足の包帯はまだ取れないが、ボウリング場のバイトにだけは顔を出している。清掃の仕事からは外され、フロント業務だけになった。重さ百キロもあるレーンの洗浄機が倒れてきたのにヒビも入らなかったということで、バイト先の面々は口々に勝手なことを言う。
  「労災っておりないのかしらね」
  「むしろ床のキズの弁償させられたりしてね」
  「ヒビ入ってないなら掃除もやってよ」
  「ちゃんと墓参りしないからご先祖のバチがあたったんだよ」
  やんやん言いながら、包帯の下を見せろとたかってくるので仕方なく外してみせる。ガーゼの下は紫色に腫れており、それを目にした瞬間、全員が痛痒そうに顔をしかめる。
  「なんかぶよぶよになってるわよ」
  「地震のときのアスファルトの液状化っていうやつみたいね」
  「やっぱりご先祖のバチがあたったんだよ」
  勝手ないいぐさにうんざりしながら顔をあげると、階段から降りてきた橘さんと目が合った。
  それをきっかけに蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの持ち場に戻ったおばちゃんたちを、彼は苦笑しながら見送る。
  「労災はおりないけど、はいこれ」
  差し出された封筒には「見舞金」と書かれていた。
  「みんなからカンパで集めたんだ」
  「すみません」
  学費も生活費も自分で賄わなければならない僕の事情を一番理解してくれているのは橘さんだった。実家の遠い僕は、盆暮れに帰省する金も馬鹿にならない。ただでさえ金欠なのに、バイトを減らすとなれば今年も帰郷できないだろう。上京してから一度も帰っていないことを知っている彼は「今年くらい田舎に顔を出せ」と言って肩を叩いた。
  封筒の中には治療費の分を引いても多すぎるくらいの額が入っていた。振り返るとフロアの端でおばちゃんたちがニヤニヤ笑ってこっちを見ていた。僕が頭を下げると、彼女らは「いい、いい」といったふうに手をひらひらさせた。

 バスに乗れば大きい整形外科があるのだけれど、僕はアパートの隣にある福田外科という小さな医院へ通うことにした。
  僕は病院というところがあまり好きではない。特に大きな病院で、しかも西日のさす待ち合い室があるようなところは落ち着かない。おそらく幼少期の思い出と関係しているのだろう。
  僕には正志という二つ年下の弟がいた。小さなカゴに入れられた赤ん坊を上から覗き込む自分を憶えている。乳ほしさに泣いたせいか、記憶のなかの正志の顔は赤い。もうひとつの記憶は、市立病院のベッドの上にいる正志の顔だ。西日に照らされて赤くなっている弟はうんともすんとも言わず、その代わり父と母がその傍らで項垂れていた。僕は祖母に抱かれていたのだろう。悲痛な面持ちの彼らをやはり上から覗き込むような恰好だった。
  父は腕のいい石細工職人だったが、酒のやめられない自堕落な男だった。今思えば酒は弟の急逝がきっかけだったのかもしれない。父は手先が器用で、根っからの子煩悩も手伝ってか仕事を休んだ日には、近所からとってきた竹でトンボや鉄砲を作ってくれた。時折、職場から持ち帰った瑪瑙(めのう)や純度の低い水晶で拵えた、小さな置き物や茶碗敷きなどをくれることもあった。端が欠けたり規格に合わず商品にならないクズばかりだったが、幼い僕にとってそれらは友達も誰も持っていない宝物だった。
  「瑪瑙はなぁ、空みたいやろう。見てると家に帰りとうなる」
  父の言葉は、仕事から早いうちに帰ってきてしまうへたくそな言い訳でしかなかったが、僕にとってその石は長い間「家路の石」だった。青い瑪瑙は青空に白い雲がたなびき、赤い瑪瑙は夕焼け空に雲がたなびいている。手のなかに空を握っていることが誇らしく、それを与えてくれる父もまた頼もしかった。そして学校のトイレや公園でポケットから取り出して眺めていると、本当に家に帰りたくなった。
  父は西日の射す部屋の窓辺から学校帰りの僕ににんまり笑って手を振る。それを見て「ああ、お父ちゃんは今日も仕事さぼったんやなぁ」と僕は思うのだった。酒のせいか西日のせいかは分からないが、父の顔はいつも赤かった。「海は荒海むこうは佐渡よ、雀なけなけもう日は暮れた」と歌いながら、節くれだった指を動かし、出来上がった細工をぽんと僕に向かって投げる。喜ぶ僕の顔をにんまりしながら眺め、やがてごろんと横になり鼾をかいて寝てしまう。
  父は肝臓を壊して、僕が小学生のときに死んだ。いよいよ入院するというその日、父は医者に向かって「ワシは手術もいらんし、高い薬もよういらん。はやいとこケツまくらせてくれや」と言って医者を困惑させていた。実際のところ家計は苦しかったにちがいない。それを知ってか、父は入院の翌日に息を引き取った。その日ばかりやけに赤い夕焼けが、枕元に転がった石や竹の細工を真っ赤に照らしていた。
  もともと体の強くない母は、父が死ぬと猛然と働きはじめた。主な仕事は病院の清掃で、僕は学校から病院へ母を迎えに行くこともあった。併設のフルーツパーラーでクリームソーダを飲ませてくれるからだ。夕方のクリームソーダは夕日の色と混じって妙な具合に染まっていたけれど、その気泡はいつまで見ていても飽きなかった。母はその向かいで何を飲んでいたろうか。おそらく何も飲まず、ただ僕がクリームソーダを眺めているのを見ていただけだったろう。
  家族の思い出はいつも夕焼けの色とともにあった。貧しくて、しかし不思議と穏やかな幼少の頃は、僕の記憶のなかで常に赤かった。それは悲しみとか侘びしさをはらみながらも優しく包むような赤でもあれば、受け入れなければならない現実を刻み付けるような強烈な赤でもあった。
  帰郷しないのは金のせいではなく、故郷の日暮れの赤い色に今の自分がからめとられてしまうのが怖いからなのかもしれない。それを知ってか知らずか、母が僕に帰郷を催促することはなかった。彼女は今でもあの病院の掃除婦をしている。それがまた自分のふがいなさを感じさせる。三月にいっぺんかかってくる電話だけが、今や僕と母のいる故郷とをかろうじて繋げているのだった。

 福田外科の裏庭はアパートの玄関に面している。待ち合い室の窓から見るそこは、いつも玄関先から眺める庭とは違って広く見え、庭の端に大きな金木犀を見つけた。福田医院は看護婦ひとりに医師ひとりの小さな病院で、しかも建物がおそろしく古かった。待ち合い室も廊下も寄せ木の床で、壁にはひときわ大きな柱時計が大きくて重そうな振り子を揺らしていた。ガラス蓋に刻まれた「寄贈」の金文字がところどころ剥げている。コチコチコチと刻む振り子の音が、誰もいない待ち合い室に響いている。目を瞑ると眠ってしまいそうだった。
  「…さん、どうぞ。……椿さん」
  気づくと看護婦が名前を呼んでいる。白い木のドアの真鍮の把手を回し、診察室にいたのは白髭の年老いた医師だった。診察と治療をおえて再びドアをあけると、待ち合い室にはオレンジ色に染まった粒子がゆっくりと舞っており、一瞬目が眩む。ソファに腰掛けようとすると、その端にちいさな影がちんまりと座っているのに気づいた。小学生くらいの男の子だった。
  僕の視線に気づいたのか、男の子は顔をあげた。
  「おにいちゃん、足ケガしたの、」
  不意に話しかけられて、僕は一瞬とまどう。
  「ああ、捻挫したんだ」
  「痛いの、」
  「そりゃあ痛いよ」
  「早く治るといいね」
  ああ、と頷きかけたのと看護婦に名前を呼ばれたのは同時だった。立ち上がり、受付の小窓に顔を出す。湿布薬をもらい、松葉杖の貸与と生活上の注意点を受けて精算をすませる。柱時計がボーンと低い音で鳴り、振り返るとあの少年の姿はもうなかった。この病院の子だったんだろうか。
  「お大事に」
  看護婦の言葉に頷き、帰ろうと振り返ると、さっきまでオレンジ色に染まっていた裏庭と待ち合い室は、今や薄暮の光がかろうじて照らしているだけだった。誰もいない待ち合い室に、コチコチコチと時計の音が響いていた。

 時給の高い夜勤を外され授業のない曜日の昼間のシフトに変わり、パートのおばちゃんの話し相手が仕事に加わった。彼女らが物珍し気に奪っていった松葉杖を取り返し、午後の仕事を終えると橘さんが休憩室までやってきた。
  「治りそうかい、」と言って、顎で僕の足を指す。
  「大袈裟なんですよ、松葉杖なんて。今日で病院通いも終わりだし。来週あたりから夜勤に戻してもらえませんか。おばちゃん手当てって出ないんでしょう」
  橘さんは「たしかにそれは出ないな」と言ってひとしきり笑い、休憩室の窓を開けた。
  「すごい夕焼けだ」
  南の窓からも空がオレンジ色に光っているのが分かる。
  「俺の田舎の夕焼けはこんなもんじゃないですよ。もっと強烈な赤です」
  「そうかい? 田舎の方が空気がきれいなんだから、むしろこっちの方が赤いんじゃないのかな」
  「……そうっすかね」
  「椿くんの場合は、きっと帰らないぶんだけ記憶のなかでどんどん赤くなってくんだ」
  冗談まじりに橘さんは言った。僕はあいまいに笑ってその場を辞した。

 福田外科の裏庭は今日も夕日に照らされている。待ち合い室でいつものように診察を待っていると、時計の振り子のコチコチコチという音に誘われて眠たくなってくる。不意に腕をつつかれて目を覚まし傍らを見ると、通院初日に出会った少年が座っていた。
  「おにいちゃん、また会ったね」
  「ああ、そうだね。きみは…」
  「ボウリング場で働いてるんでしょ」
  なんだ、お客だったのか。どうりで気安いわけだ。
  「そうだよ。ボウリング好きかい、」
  「おにいちゃん、そこに住んでるんでしょ」
  少年は僕の質問には応えず、窓の外の裏庭の向こうに見えるアパートを指さした。
  「そう。よく知ってるね」
  「お父さんが教えてくれた。そのケガ早く治るといいね」
  ああ、やっぱりこの病院の子どもだったか。そのとき「椿さん、」と看護婦が呼ぶ声がした。
  じゃあ行ってくるね、と立ち上がり、診察室のドアに手をかけたとき、背後から少年の声がした。
  「僕もう帰るね、お父さん待ってるし」
  「あ、」
  振り返るまもなく、少年の姿は玄関へ消えてゆくところだった。

 「そろそろ松葉杖ももういらんでしょう」
  老医師はゆったりとした口調で、そう告げる。
  「あまり体重をかけないように、特に風呂場では注意して下さいよ。あと、そのレーンを掃除する機械でしたっけ、その仕事も当分はやらんほうがいいでしょう」
  たくしあげたズボンの裾を下ろしながら「先生のところのお孫さん、うちのボウリング場のお客さんみたいですね」と言うと、老医師はカルテに書き込む手を止めて訝しむような顔でこちらを見る。
  「…はて。ここには孫はいないけどね。私なら時々ボウリングしに行ってたこともあるけれど」
  「じゃあ、さっきの男の子は」
  「男の子? おいヨシミさん、患者さん他にまだいたのかね」問いかけられた看護婦が首を振る。
  僕が「いえ、もう帰ったみたいで」と言うと、二人とも不思議そうな顔をして僕を見る。
  待ち合い室に戻ると、すでにそこは夕焼けで赤く染まっていた。
  ソファに腰掛けると、埃がきらきらとオレンジ色のなかを浮遊しているのが分かる。ぼんやりとそれを眺めながら座面に手をついた瞬間、何かがコロンとついた手に当たった。
  拾い上げたそれは、縞模様の赤い小さな石だった。
  「赤瑪瑙…」
  不意に少年の声が蘇る。
  ──僕もう帰るね、お父さん待ってるし──
  「正志…?」
  看護婦の呼ぶ声にも気づかず、僕は手のなかの空を飽かずにずっと眺めていた。
  僕はその空の下で今日も働いているだろう母を想う。
  ──瑪瑙はなぁ、空みたいやろう。見てると家に帰りとうなる──
  それは、赤い空に白い雲がうっすらとたなびく故郷の夕焼け空だった。

 
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