air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第47話

柿の子の話

中元彩紀子

 福田外科医院の裏庭には金木犀がある。根元のあたりは散った花で橙色に染まっており、夕日で庭が照らされるとそこだけが強い蛍光色となり、寂れた庭が奇妙に華やいだ。
  老医者ひとりと初老の看護婦ひとりでやってきたこの病院も、今年いっぱいで閉めることになっている。敷地こそ広いが建物はもう築四十年という古さで、あちこちにガタがきているらしい。時折、離れた場所にある学校の校庭で遊ぶ嬌声や、年端もいかない子どもの笑い声などがすぐ傍で聞こえたりする。壁にできた穴、格子の壊れた通気孔、やはりこれも壊れたままの雨戸の戸袋、冬空の野良猫のために開け放った縁の下…、それらがうまい具合に音の通路を作っているのかもしれなかった。「なによりガタがきてるのは私だよ、うん」と言って笑う院長だった。
 

 私は福田院長のネクタイと格闘していた。幅広の部分についた醤油だかソースだかのシミは古くて、容易に取れない。三つ目の脱脂綿に水を含ませているときだった。
  「もういいよ、よしみさん」
  院長はアクビをかみころしながら言う。
  「それならネクタイ、他のに変えるんですか、」
  「いや、それでいいよ。十分だ」
  「どうしてこれでないといけないんです、」
  朱色地に茶の幾何学模様のそのネクタイは、みたところどうということのないふつうのネクタイである。裏を返して見ても高級ブランドというわけでもなさそうだ。
  院長は「ん、」と言い淀んだきり手許のカルテなどを見入っている。
  今日、彼は高校の同窓会に出かけるのだ。久しぶりに旧友たちに会うというのに、恰好はいつものままである。おまけにネクタイにはシミ。お洒落以前に無礼にあたると言ってようやっと外させたのだったが、今や院長は私から取りあげたそのネクタイをまたしめ直していた。
  待ち合い室の柱時計がボーンと鳴ると、彼は白衣のポケットから懐中時計を取り出して時刻を合わせた。柱時計の方だって正確かどうかあやしいところなのだけれど。
  「そろそろ行くかな」
  「気をつけて行ってきてくださいね」
  「きみももう上がりなさいよ」
  そう言われ、私がバッグに手をかけたとき、彼はカルテを束ねる手を止めた。
  「よしみさん、それはなんですか、」
  視線はバッグに注がれている。何ってバッグですけど、と言いかけたとき、口のファスナーのところからキーホルダーが飛び出しているのが見えた。
  「ああ、これ。鍵ですよ。キーホルダー」
  「そこについてるものは何かな」
  「柿の種の人形です」
  「柿の種」
  「ええ、祖母が昔作ってくれた柿の子です」
  顔と体と両手足の合計六個の柿の種でできたこの人形は、亡くなった祖母が昔に作ってくれたお守りだった。ぜんそく持ちで体が弱かった私に、祖母はよく柿の薬を作ってくれた。若葉を陰干しして煎れたお茶はとても苦かったし、もいで瓶に漬けた熟柿はすっぱい匂いが苦手だったが、私はそういう民間療法で元気に育ったのだった。秋になれば庭の柿の木に自分でのぼって柿をもいで来られるくらいに。
  柿の妖精が胸を撫でてくれるように、と作ったその人形を祖母は「柿の子」と呼んでいた。
  「柿の木はうちの神様なんだよ。葉っぱも実も薬になって、ぜんそくだっておねしょだって神様の手にかかればたちまち治っちまうさ。柿の子は柿の神様の御子だから、とてもありがたいんだよ。よしみの胸がぜーぜーしたらすぐにやってきて撫でてくれるよ。みておいで、すぐに楽になるからね」
  今にして思えば気のせいだろうけれど、苦しむ胸の上で柿の子をぎゅっと握っていると不思議と呼吸が楽になったものだ。
  「年寄りの気休めですよ、ただの」
  説明をしながら、私は柿の子をしまった。
  院長はしばらく何か考え込むポーズをしたのち「いや、あながち気休めだけとも限らないよ」と言った。
  「お医者さんもそんなこと言うんですね」
  すると院長は一瞬、憮然とした表情を見せて立ち上がりかけた椅子にまた腰掛けた。
  「よしみさん、私には実におかしな友人がおるのです」
  この人は何か言っておかねばならないことを言うときには必ずていねいな言葉を使うのだ。私は始まったぞ、と思い身を正した。
  「その友人は大学で教鞭をとっているのですが、大学の敷地内の森でメダカと暮らしているのですよ」
  「はぁ」
  「彼が言うにはね、メダカは月からやってきたんだそうですよ。かつて地球の一部だった月に残っていた者たちの子孫なのだとか。長い時間をかけて故郷に戻ってきたわけですね」
  「…そうですかぁ」
  「おかしいでしょう」
  「ええ」
  「ああ、それとね、冬の初めに見る雪虫は、魂を運ぶ飛脚なんだそうで…」
  「院長、お時間だいじょうぶですか、」
  話を中断された彼は大仰に懐中時計を取り出して目をしかめた。
  「大丈夫じゃないみたいだ。では行ってきます」
  外套を着込みフェルト帽をかぶった老医師の姿はかなり時代がかったものに見えたが、胸からのぞくケータイ電話には、お孫さんとお揃いだというクレヨンしんちゃんがぶら下がっていた。
  「だからね、何が言いたかったんだっけな」
  靴をはきかけたとき、また話を戻そうとする院長に、私は「医者にだって不思議なことを心にとどめるくらいの器はあるってことでしょう、院長」と言い、やっとのことで送りだした。

 
 
  翌朝、福田外科医院の近くで小さな女の子にでくわした。医院の角から飛び出してきた彼女は、熟柿をふたつばかり抱え持っていた。今どき柿泥棒でもあるまい、とそのままやり過ごそうとする私を見上げ、彼女は言った。
  「あっ、こんにちは」
  おかっぱの黒髪がさらさら揺れている。前に通院していたことがあるのだろうか、私の顔を見てにこにこしている。私は適当に「もう具合はいいの、」と尋ねてみた。
  すると彼女は、小さな手の熟柿を抱えなおしながら言った。
  「うん、柿の子が直してくれるから平気なの」
  「柿の子って…」
  「おばあちゃんが作ってくれるの。じゃあね」
  ヒザを軽く折ってみせたのは、抱えている柿のせいで手が上げられないからだろう。女の子は私が来た方角へ走って行ってしまった。
  祖母が考えた一種の偽せ薬だろうと思っていた柿の子の名が出てきたことも私の認識を新たにしたが、何より、昨日話したばかりのことに翌日出会った偶然を私は驚きをもって眺めたのだった。やっぱり見覚えのない子だった。

 
 
  院長は私のいれたお茶をすすりながら、そうそう、とヒザを叩く。
  「あのネクタイね、やっぱりしていって正解だったよ」
  「どうしてです」
  「あれをね、贈ってくれた人が来たの」
  「女性ですね」
  「まあ、女性なんだけれども」
  贈ったネクタイを何十年も持っていられるというのは相手にしてみれば、いささか気味の悪いことなのではないかとも思ったが、ここは黙って聞いておこう。
  「彼女は目がとっても悪くてね、ぼんやりとしか見えないの。朱色のように鮮やかな色なら多少暗くても分かるんだ。こんな明るい色のネクタイしている年寄りは私くらいだろう」
  「なるほど、目印だったわけですね」
  「そう。もう久しく会ってないからね、目印はこのネクタイだけなんだ」
  院長と彼女がかつて同級生というだけの間柄だけではなく、何が特別な関係にあったことは容易に想像できるけれど、ここでは詮索しない。あのシミ取りは、何十年ぶりに再会するかの人への礼儀だったというわけだ。
  「よしみさん、柿の子のことだけどね」
  院長の方でも決まり悪かったらしい。突然、話題を変えられた。
  「あの柿の子、たぶん身代わり人形だね。胴の部分に古い傷があるでしょう」
  私はまた柿の子か、と思いながらバッグから取り出した。それを院長はさっと取りあげ、メガネをかけた。
  「やっぱり」
  院長が指し示したあたりに、ちょうど胸から気管にかけて古い傷のようなへこみが出来ていた。
  「あら、ほんとう」
  しかし、老医師の目に一瞬老獪な笑みが浮かんだのを私は見のがさない。
  「担いでますね、院長」
  すかさずそう返すと、彼はしらじらしくキョトンとしてみせる。
  「いや、昨日聞いたんだよ、その件の彼女に。その人はお孫さんにハマグリ人形を作ってやったらしい。で、やっぱりハマグリの妖精のお出ましというわけ」
  「ほらやっぱり」
  そう言うと、院長はごほっとひとつせき払いをし、まあ聞きなさいと続けた。
  「ところがね、そのお孫さんがあるとき事故にあって足と腰に大怪我をしたとき、病院で夢に見たそうだよ。手足の生えたハマグリがえっちらおっちら彼女の腰に上って行って、トンテントンテンとんかちで修理してくれる夢。不思議なのはそこからでね、翌朝目が覚めてみるとどこも痛くない。しかし、ハマグリ人形はついぞ見つからないというわけだ。どうかね、納得したかね」
  私は納得するより、まず手足の生えたハマグリがよちよち歩いているところを想像して、笑ってしまった。
  「年寄りが孫に持たせる手作りのものというのはね、どんなものでも身代わりの御利益があるんだそうだ」
  院長は冷めてしまったお茶を飲み干すと、よいっと立ち上がった。
  「よしみさんとこのお孫さんは元気かね」
  「ええ、来年から小学校ですって」
  答えてからふと思い出す。
  今朝がたの不思議な出来事を話してみた。院長は腕組みをしてしばし考えたのち、こう言った。
  「なるほどね。そういうのを心理学では共時性というんだそうだよ。意味のある偶然だね」
  「私はまた時空がねじれて少女時代の自分に出会ったのかと思いましたよ」
  すると院長は真顔で言う。
  「時空はねじれんでしょう」
  「そりゃあ……」
  「しかし」
  「はい、」
  「ないとも言い切れない」
  「ええ」
  「どんな顔をしてたかね」
  私はあの女の子の顔を思い出そうとしたが、浮かんでくるのは小さな丸いひざ小僧と橙色に熟れた柿の実だけだった。院長は私の顔をじっと眺め、今の聞こえたかい、と言った。
  「何がですか、」
  「天井の隅っこあたりから子どもの笑い声が聞こえたろう」
  私は上を見上げて耳を澄ませたが、聞こえてくるのはカラスの鳴き声だけだった。
  「ずいぶん、古くなりましたからねぇここも。院長も私も」
  そのとき、受付窓から「すいませーん」と声が聞こえた。
  「あら、患者さんですよ」と言う私の声が聞こえたのかどうだったのか、院長はまだ天井を見上げていた。
  「よしみさん、気は早いけれどここの最後の大晦日は柿の子を拵えましょう。我々の大事な孫たちのために」
  「はいはい、そうしましょう」
 

 何十年という時を経てめぐってくる一瞬というものがあるのかもしれない、と思う。過去から切り取られた永遠の一瞬が、そこここにきらきらと漂っている光景を思い浮かべる。気持の柔らかいところに蒔かれたその小さな種は、やがて大きくなって実を結び、そしてまた誰かに蒔かれるのを待っているのだろう。ただ、私たちがその合図に気づかないだけなのだ。
  そんなことを考えながら、私はガーゼを取り出し、母親の前でべそをかいている子どもに笑ってみせる。
  「だからよしなさいって言ってたでしょう。……先生、骨折れてませんかねぇ。この子、落ちたんですよ。庭の柿の木から」
  「何の木だって、」
  「柿の木ですよ」
  訝しがる母親をしり目に、私たちはつい顔を見合わせて笑ってしまうのだった。
  柿の子の秋がもうじき暮れようとしている。

 
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