air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第54話

海とピアノとペンギン
(後編)

中元彩紀子

 ペンギンという名前の店で、僕は捨ててきたはずの音楽と、置いてきてしまった恋人と同じ名の子どもと出会った。そこでの日々は、夢と現実のあわいを縫うように過ぎていった。
  その日の仕事を終えると時刻に関係なく、僕はペンギンへ顔を出した。まるで雨の日に軒下を貸してくれた民家の主人の優しさに、分をわきまえず図々しく甘える宿無しだ。
  僕がやってくるようになって、ママはピアノのまわりを一掃した。人形や花瓶の物置きとなっていたそこは、名もない作曲家のためのステージになっていた。からっぽで埃をかぶっていた花瓶には、見たことのない南国の花が挿してあった。
  僕がママに頼まれたのは、浜でまどろむ時間を早めに切り上げて店に顔を出し、注文があったらピアノを弾くことだけだった。だけど酒屋のアルバイトの青年は、店の奥へケースを運ぶこともなく伝票を受け取るとすぐに帰ってしまう。だから力仕事もそこに加わった。
  南の島の風は冬であっても気の抜けたサイダーのようだ。「島風に吹かれていると、人生がみな過去になる」と言ったのは、ママに執心の男だ。彼は島に一番近い本土の雑誌記者だったが、何年か前に取材で島に訪れたとき“時の声を聞いた”とかで、仕事を辞めて住み着くようになったらしい。光太郎さんというその四十過ぎの男は、僕がやどり木で本を読んでいるときにやってくる。初めて出会った時、彼はひとつ空けた席に腰掛け、こちらを値踏みするような顔で下からのぞきこみ「そこは俺の席なんだけどなぁ、青年」と言った。中肉中背で浅く灼けた顔は、良くいえば人好きのする柔和な、うがってみれば若干の軽薄さを帯びた印象だったけれど、カウンターに灯ったろうそくの光が時折、その頬や目の下に諦観にも似た思慮深さの影を作った。彼は、僕と目が合えばすぐ「ママにちょっかい出すんじゃねえぞ、青年」と言い、からからと笑った。出しませんよ、と返すと必ず「知ってるよ」と面倒くさそうに答えた。
  店にやってくる顔ぶれはほとんど同じだ。時々旅行者や大学などの研究機関から海洋調査でやってきた人たちも顔を出したが、それ以外はほとんどが島の、しかも近所の住民だった。
  一見さんが口にするのは「ここのみなさんは、何をやっておられるのですか」という台詞だ。それに対して職業や身分を答える者は常連客のなかにはおらず、みな「何って、飲んでんだよ」と笑って答えるのが常だ。すると彼らはみな一様に笑い「のんびりしていていいですねぇ」と言う。光太郎さんだけは「実は、五年前に宇宙船が不時着して以来、ここに居着いてるんだ」とか「ママをどうやったら落とせるか作戦を練ってるんだ」などと言って、場を和ませていた。
  そんな人たちの間で、昔のフォークソングや演歌やアニメソングを弾いて喜ばせたり、酒で調子の外れた歌声の伴奏をしたり、時にはその人のための曲を即興を奏でて感心されたりしている僕を見たら、かつての恋人や友人たちは何て思うだろうか。しかし、いつしかそんなことも考えなくなっていた。無為に見えるだろう毎日が、今の僕のすべてだった。ママと光太郎さんが言うように、島風に吹かれていると全部が過去になるのかもしれない。
  「センセイ、しおりが言ってたけど、」
  師走のある日、客のはけた店内を片付けながらママが言った。光太郎さんは飲み過ぎと歌い過ぎでカウンターに突っ伏していた。
  「なんですか、」
  「センセイが遠くに行っちゃう気がするって」
  とたんにイッチマエー、とカウンターからこもった声がする。
  「遠くって、」
  「うちのしおりってね、人が去ることに敏感なのよ。父親と別れるっていう経験をしているからかもしれないわね。勘が鋭いの」
  英語教室の窓際でえんぴつを齧っていたしおりの横顔を思い浮かべる。
  「そんな予定ありませんけど」と答えると、彼女はそう、とつぶやいた。
  東京からその夫婦がやってきたのは、その数週間後のことだった。それが僕にとっての“時の声”だったのかもしれない。

 南国の小さな島で迎える新年は、年明けの実感などまるで伴わず、とても安穏としたものだった。三日の日にはふだん通りに店を開け、常連客も一人二人訪れる。里帰りの予定もない僕は、いつもの時刻に顔を出し、挨拶だけ済ませるといつものように掃除を始めた。カウンターを拭きおえた手をそのままついてやどり木に腰掛けると、カウベルの音がした。光太郎さんかと思って振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ熟年夫婦だった。旅行者らしい。
  「いやぁ、ここは喫茶店ですかな」と男が言う。
  「…のようなものですけど、この時間ならお酒も料理も出しますよ」とママがカウンターからにこやかに答える。
  すると夫婦は顔を見合わせ、顔をほころばせた。
  テーブル席に案内し、注文を尋ねると二人は「珈琲を」と言った。「いやなに、珈琲の味を忘れそうでね」と夫の方が言い訳のように言う。聞けば、年末年始を本島で迎えたはいいが、人も景色も料理も酒も、ものめずらしくて浮き足立っていたのは最初だけで、さすがに連日ともなると飽きてくる。それなら、と人に勧められてこの島まで足を伸ばしたのだという。
  「何にもありませんよ、ここは。とくに冬は遊んでるようなものですからね」と苦笑していると、彼らは一瞬虚をつかれたような顔をして「もしかして東京の方?」と聞いてきた。ママが「私も彼も東京からきてるんですよ。もっともいっしょに来たわけじゃなくて偶然ですけどね」と言うと、彼らの顔に笑みが浮かんだ。
  慣れない正月旅行で少々疲れたといった面持ちの彼らだったが、珈琲を飲み始めてからしばらくして光太郎さんがやってくると、ママも交えて談笑しはじめた。僕はカウンターで本をめくりながら、ラジオのノイズのような波の音を聴いていた。
 

 「…でね、私らはこういう南の島の海というのを見るのは初めてなんですよ。しかもこんなに広いときてる」
  夫婦の言葉に光太郎さんが反応する。
  「海を見に行くってよく言うでしょう。でもオレは、海に見られに行くってのが本当なんだと思うんだなぁ。なんていうのか、こう、海に自分を確認してもらいにさ」
  いつになく気取ったことを言う光太郎さんが可笑しくて僕が振り向くと、彼の方でもこちらを見ていたので、僕らは見つめあう恰好になってしまった。
  「なるほど、そういう言い方もできますなぁ」と夫の方がつぶやいている。
  遠くでまた波の音がした。
  この男は面白いんですよ、と光太郎さんが僕を顎で指し示しながら夫婦に言う。「彼は作曲家のくせに音楽を置いてきちまったらしいんです」
  夫婦が同時に僕を見る。
  「こいつも海に見られにきたくちなんですよ」
  勝手なことを言う光太郎さんを睨んで、僕はカウンターのなかに逃げ込んだ。ママは遊びから帰ってきた娘のしおりといっしょにラビオリを作っているところだった。
  「ねえ、ママ。これペンギンの形してる」
  しおりがパスタの切れ端を持っている。
  「ほんとだ。お店の名前と同じだからちょうどいいね」と手を動かしながらママは答えた。
  テーブル席からは時折、光太郎さんと夫婦の笑い声が聞こえてくる。東京では何を? 店をやっとるんですよ。たまには正月旅行もいいんじゃないかって、手伝いの女の子に留守を任せてね。なるほど、お店をしてるんじゃぁなかなか旅行にも出られないでしょうからね。なんのご商売を? いやなに、手伝いの女の子ひとりと私らだけの小さな文房具屋ですよ──。
  聞くともなしに聞いていた彼らの会話に、僕の手が止まる。「センセイのは車の形だ」としおりが僕のこねるラビオリを覗き込んでいる。
  テーブル席の彼らの声は聴こえず、口だけが動いているのを僕はぼんやりと眺めていた。その向こうに、東京の片隅の小さな文房具屋で働く恋人の姿が浮かんで消えた。
  センセイ、どうしたのー。いや、なんでもないよ。
 
  気づいていなかったのは僕だけだったのか。仕事と恋人と音楽と誇り──置いてきたはずのものたちが、傍でじっと、何も言わずに僕の息の吹き返すのを待っている。虚無と諦観の日々にそっと現われたペンギンの人々が、何気なく差し出してくれた時間のかけらが像を結ぶ。
  「おい、青年。こっちきて、こちらのご夫婦に何か弾いて差し上げろ」
  光太郎さんの呼ぶ声にしたがって、僕は黙ってピアノの前に座る。皆の視線が僕の背中にあたたかく注がれるのを感じながら、僕は静かに鍵盤に手を置いた。
  僕の指は、彼らのリクエストする歌謡曲やフォークソング、ママとしおりの好きなアニメの主題歌を踊るように奏で、彼らもまた体を揺すって拍手する。
  「では、次は文房具屋さんのブルースを即興で」と僕が振り返ると、夫婦は「すごい!」と手を叩いて喜んだ。
  僕の指は忘れ物たちといっしょに踊り、奏で続ける。
  「青年、おまえ才能があるよ、うん。プロの作曲家になれるぞ。だから早く荷物まとめて来た道を戻れ」
  光太郎さんの言葉に、皆が笑う。カウンターではしおりがママのエプロンにぶら下がっている。 
  「ねえママ。ねえったら、」
  「なぁに、」
  「だから、どうしてペンギンは空を飛ばないの?」
  「きっと地上のほうが楽しかったからよ」
  「そっか!」
  南の海に浮かぶ小さな島で、息を吹き返したペンギンが奏でる音楽はいつまでも鳴り響いていた。

 
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