air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第60話

ハナミズキが咲く

中元彩紀子

 ホームの中庭に、ハナミズキが咲いている。表玄関の方の桜が散ると、こちらが満開になる。この季節になると、庭に面した窓の前に椅子が並べられ、集まった年寄りたちが好きずきに腰掛け、二回目の花見が静かにはじまる。歯の丈夫な者は柿の種、だめな者は大福などを頬張って、穏やかにひなたぼっこを愉しむ。
  時折、スタッフのだれかがピアノやウクレレを弾きはじめると、元気なものは勝手に踊り出したり、手拍子をする。これが椿ホームの春の光景だ。
  奇声を上げたり、徘徊したりするものがいないからといって、手に負えない人物がいないというわけではない。植松さんがその一人だ。
  僕がホームに勤めるようになってから三ヵ月が経つ。半年といっても、毎日毎時間いろんなことが起きるので、もう随分とここで過ごしているような感じがする。冷蔵庫のなかのプリンが足りないと思えば、それがいつもソファで紅茶を飲んでいる品のいいおばあちゃんのつまみ食いであったり、植木職人だったおじいちゃんは、目をはなしたすきに中庭のツツジを全部刈ってしまった。見た目はみな老人だけれど、子どもにかえった人もいれば、教師や重役のままでいる人もいるし、頭だけは冴えている自他ともに認めるれっきとした老人もいる。つまり全世代が集まっているようなものなのだ。
  ホームで起きることというのは、大概が僕らスタッフが頭を抱えることばかりだけれど、たまにはいいこともある。ついこの間は、長くホームにいる花代さんのところに、子どもの頃に別れた娘さんが訪ねてきた。彼女を門前で発見し、連れてきたのが自分だっただけに、僕はちょっといい気分だった。
  しかし、ついこの間まで元気だった人が風邪をひき、肺炎をこじらせて急に亡くなるなんてこともある。そういうとき、気分の案配を決めるのは、直前までその人とどう接していたかだ。日常の些事に追われて、頼まれていたことを先送りにしていたり、ついぞんざいな口を聞いてしまっていると、大きな後悔と罪悪感に襲われる。罪悪感を抱えたままで過ごしていると碌なことがない。失敗が続く。続けば、また嫌な気分になる。気がそぞろで、だからまた失敗をする。何をするにもこれが最後のお世話だと思え、と言った所長の言葉の意味がよく分かる。僕は、案外真面目なほうだから、それを胆に命じて業務にあたっている。
  勤めはじめた当初、日々の小さな事件を見せつけられてあっけにとられている僕に、洋二さんは言った。
  「つまみ食いだの、小競り合いなんてのはかわいいもんさ。もっとやっかいなのがいるんだ、これが」
  それが植松さんだ。

 植松さんは、五年前に奥さんを病気で亡くし、じきにホームに入居した老人だ。健康そのもので、昔話を繰り返すクセがあるくらいで、さほど問題がない。妻の介護をひとりでやってきて、その苦労が分っているからか、家族には世話をかけたくないということだったが、洋二さんからは、息子との折り合いが悪いのが本当のところなのだ、と教えられた。植松さんの息子は、ある日、勤めていた銀行を突然辞めてフランスへ渡ってしまったらしい。今は向こうのカフェで働いているという。
  「ギャルソンだかウエイターだか知らないけどさ、向こうじゃ老舗のカフェの専属になって客たちから認められると、すごい稼ぎなんだよ。三ツ星レストランのシェフと同じくらいに考えてもいいくらいだ。こっちとあっちじゃカフェの歴史が違うから、植松さんにはそこが理解できないのさ」
  洋二さんが言うには、何度か顔を見せたらしいその息子の風貌は「そりゃあ、洗練されてて物腰の柔らかい好青年」なんだそうだ。息子は二度ほどホームに顔を出したのだったけれど、そのたびに植松さんはボケたフリをするらしい。費用のことを言われれば「いえいえ、そんな他人さまにご心配いただくようなものではございません」と深々と頭を下げ、親戚や知人のことが話題に出れば「どうもその折はお世話になりまして」とあらぬ方向を見て頭をさげ、体の調子を訊ねられると、いきなり般若心経を唱えはじめるといった具合だ。
  その後、息子は向こうで結婚して子どもをもうけたらしいのだが、そもそも言葉の通じない嫁を、しかも相談もなしにもらったこと自体が許せない植松さんは、以来ますますヘソを曲げてしまった。ハガキが届いても「はて、知らぬ人ですな」ととぼけて見ることもなく懐へしまう。突き返さないだけまだマシだよ、と洋二さんは言うのだった。
  息子との折り合いの悪さは直接僕らの関知するところではない。問題は、時々やるボケたフリだ。都合が悪くなるとすぐにボケたフリをする植松さんを真似て、他の老人たちが真似るようになってしまったのだ。夜中に中庭に出て宴会を開き、見つかれば全員がボケたフリをする。なかには本当にそういう症状を持っている人もいるため、新米の僕などは幾度も騙された。フリをしている人にむかって、それらしく対応していると、当の本人に脇腹をくすぐられたり、そうでない人に向かってたしなめると、先輩スタッフから「バカ、彼女はちがう」と叱られた。洋二さんは「真似てるうちに本当になりかねない」と言いつつ、一緒になってとぼけて笑っているのだから始末におえない。しかし、彼がそうやって他のスタッフとはちがった対応をすると、みな可笑しくなって笑い出すからすぐにバレてしまう。相手を知りたければ同化すりゃいいんだ、と洋二さんは言い、新米の僕はメモを取るのだった。

 そんな毎日が、それでも穏やかに過ぎていたある日の午後のことだった。
  「もうすぐ、植松さんの息子さんが来るぞ」
  洋二さんが、来訪者の予告を個人的にするということは、何かあるということだ。
  「ただの面会じゃないんですか、」
  すると彼は壁に貼られたポスターに目をやった。米軍基地の近くの街道に、何かの記念植樹が行われるらしい。めくれ上がった部分のセロテープを指で押さえて、困惑の表情を浮かべている。ポスターのなかで、木を植えている西洋人の夫婦とその子どもたちが満面の笑みを浮かべているのとは対照的だ。
  「かみさんと子どもに会わせたいっていうんだよな」
  「いいじゃないですか」
  「だっておまえ、いきなり連れて来られたら、いつものフリじゃすまないぞ。怒りだすに決まってる。おまけに、青い目の外国人なんか初めて見るんだぜ、きっと。植松さんの怒鳴り声に、見慣れない外国人で、他のじいちゃんばあちゃんたち、みんなおろおろしだすさ。ひきつけでも起こされたらことだぜ」
  「どうするんですか」
  「だからさ、その前に今日、ひとりで来てもらうことにした」
  彼がポスターから手を放し、くるりと背を向けると、はがれた部分が再びツンと反り返った。

 中庭のハナミズキを眺めながら、植松さんと同じく入居者のサクさんが、並んでソファに腰掛けている。今日の来訪を知らされていたのだろうか、スタッフや他の老人たちをからかうこともなく、穏やかにお茶などすすっていた。
  「おふたりで花見ですか」
  「いけねえか」
  じろりと睨む植松さんの横で、サクさんが笑っている。サクさんはハナミズキを見上げたまま、「ハナミズキはさ、」としゃべりだした。突然、長々と話し出すのがこの人のクセなのだ。症状といっていいかどうかは分からない。僕と植松さんは、そのサクさんに促されてハナミズキを見上げる。
  「ハナミズキは、あまり大きな木じゃあないけどね、咲き方がかわいいじゃないか。ちっさい子どもが指遊びしてるみたいに、輪っかを作ってから開くんだよ。かわいいねぇ」
  植松さんは、すくっと立ち上がり、ハナミズキの上方の枝を見上げた。そして、「ほぉ」とつぶやいた。どれ、と僕も背伸びをしたが、どれがその輪っかなのか見分けがつかないでいた。すると、サクさんがコホンとひとつせき払いをする。
  「花言葉」
  一言つぶやいて、彼女は目を細めた。
  「私の気持を受け入れて…だったかね」
  僕が「あれ、ひょっとしたら僕、おじゃまでしたか」とおどけると、サクさんはそこで植松さんのほうを見て言った。
  「バカだね。親子の話だよ」
  僕と植松さんは顔を見合わせた。

 
  午後になり、彼はやってきた。淡い灰青色のジャケットを脇にかかえ、ご無沙汰しています、とフロントで挨拶している。平均的な身長の僕より背の高い洋二さんが、高校生くらいに見えてしまうほど、植松さんの息子は上背のある男だった。贅沢な箱に入ったチョコレートの手みやげをスタッフに渡すと、彼は小さく頷き、「よし」と言ってレクリエーションルームに向かった。
  僕と洋二さんは彼の後を控えめについてゆく。彼はゆっくりとした足どりでソファのふたりに近づくと、床に片膝をついてしゃがんだ。
  「父さん、」
  消え入るような声で話しかけたにもかかわらず、植松さんは息子の顔を見ようともしない。息子が再び声をかけても、彼らは黙ったままだ。
  「父さん。父さんが怒っているのも無理はないって分ってるんだ。だけど、」
  彼がそこまで言ったときだった。
  「ねえ、植松さん。あの花はなんだろねぇ、」とサクさんが割って入る。なんて間の悪い人なんだ、と僕が連れ出すために前へ出ようとしたとき、洋二さんが僕の肩を押さた。「待て」と言う彼の視線は、二人に注がれている。
  「ハナミズキですよ、サクさん。ハナミズキは、咲きはじめには花びらどうしがね、てっぺんでくっついてんですよ。ほら、まるでちっさい子どもが指あそびをしているみたいでしょう。ピンと指をはじいて、手のひらをこうして広げるんです」
  さっきサクさんから聞いた話を、本人にくり返している。またいつものフリがはじまった、と僕は苦笑する。
  「そういやぁ、子どもっていえば、あんたには息子がいなかったかね」
  息子は何も言わずじっと父親を見ている。しばらくの沈黙ののち、植松さんが口を開いた。
  「ええ、たしかいましたねぇ。あいつは今フランスだかアメリカだかで仕事をしとります。結婚をして、かわいい年子の子どもがふたりいるんだとか…。そう、ちょうどあんな感じでしょうなぁ」
  植松さんの視線は、あの植樹のポスターに注がれていた。
  「植松さん、あんたハナミズキの花言葉はなんていうのかね」
  サクさんの問いに、彼はこう答えた。
  「ハナミズキの花言葉は、“私を受け入れて”っていうんですよ。だから、あれですな。受け入れてやらねばならんのですよ、私は」
  背中を丸めたふたりの老人の横で、床に膝をついたまま肩を震わせる男がいた。
  僕らは彼らを残し、中庭に降りてハナミズキを見上げた。
  てっぺんのハナミズキが、ピンと開いた──。

 
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