第8話 出産まぎわの産卵撮影
私がつぶやくのと、オットの塗り箸が宙に舞うのが同時だった。
一瞬の間をつくように、水槽ではキンセンイシモチの産卵と放精が始まっていた。はっけよい! 慌ててストロボON。チュイーンというチャージ音ももどかしく、バシャバシャとシャッターを切る。
「ああああ〜!!!! ちっきしょおおおお〜!」
間に合わなかった。オスはすでにからし明太子そっくりの卵をくわえている。
「なんなんだよおおおお〜!!」
オットは喜怒哀楽をほとんど表に出さない。飛行機が落ちたときだって、わめきも泣きもしなかった。オットの叫び声を聞いたのは、おそらくこのときが初めてかもしれない。
「まあ、まあ、私の決定的瞬間も近いことだしさ」などという、なぐさめの声も聞こえないみたい。それにしても、キンセンイシモチに遅れをとってしまったなあ。タハハハ…。
数日後が定期健診だった。私がかかっていたのは都立築地産院。
晴海のアパートの窓から運河を見下ろせる。東京湾が近いため潮の干満によって水位が変わる。毎日水を眺めながめられる生活が好きだった。築地産院を選んだのも、隅田川のほとりという立地条件からだ。建物は小さくてオンボロだけど、けっこう気に入っていた(今はない)。毎回、勝どき橋をてくてくと歩いて渡って、定期健診にかよっていたのだ。
予定日を過ぎても「大丈夫、大丈夫」と言っていた医師の顔が、この検診で初めてくもった。血液検査をしたり、レントゲンを撮ったりして出た診断は「過期産」。
「これ以上お腹の中にいると、胎盤機能が低下して赤ん坊が危険です。誘発分娩にしましょう。明日、入院してください」。誘発分娩とは、薬で子宮を収縮させ陣痛を人工的に起こすこと。
テキパキと言う医師に、「あ」としか口をきけなかった。
やっと気を取り直して、「少し考えさせてください」と言ったら、「もう、一刻の猶予もないんですよ! 考えている間に赤ちゃんが危なくなるんですよ」と非難ごうごう。
「だって、やなものはやなんだもん!」と心で叫びつつ、むーっと黙り込む私。キンセンイシモチみたいに、お相撲の最中でもなんでもいいから、産むべくして産みたいと切に思った。それに、なんで“定期検診”で“一刻を争う”になっちゃうのか。それもまた、飲み込めないのであった。
折衷案として、明日もう一度受診して、それまでに兆候がなければ明後日入院ということになった。
プンプンと怒りながら産院を出て、近所のカレー専門店に入り、極辛カレーを注文する。
お店の人は「大丈夫ですか?」と私のポンポコリンのお腹を見る。
「大丈夫! 刺激を与えた方がいいから!」
店員さんがおそるおそる持ってきた極辛を、怒りながらかき込んだのである。
家に戻ると、水槽の前でオットが背を丸めていた。もはや見慣れた風景である。オットの肩越しに水槽をのぞくと、キンセンイシモチのお父さんが卵をかかえた口を半開きにしている。それが、泣き笑いの顔に見えた。
水槽を見ながら、オットに「あのさ、全然出てくる兆候がないから、無理に出さなきゃいけないみたいなんだ」と告げたら、「あー、お前、カレー食っただろ。おれも腹へったなあ」だと。…萎えるなあ。出産直前であっても、オットの脳内は、見る、撮る、食べるぐらいしかコマがない模様。
ポコポコと泡だつ水槽がデンとおかれた狭小の生活空間、ひしめく撮影機材。飽和状態のこの場所に赤ん坊が加わったら、どうなってしまうのか。あ、ちょっとめまいが…。
しょうがない。こうなったら、とっとと赤ん坊に出てきてもらうしかない。ひとつ、オットにもキンセンイシモチのお父さんのような、泣き笑いの顔になってもらおうじゃないの!
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