第9話 ハッチアウト

 後日、子どもがいない友人に陣痛ってどのくらい痛いか聞かれたとき、「下痢の腹痛と生理痛を足して2を掛けた感じ」と答えた。事実、私にとってはその程度だった。確かに痛いのけれど、陣痛の場合は、なぜかその痛みに慣れてしまうようである。
  医師の宣告通り、キッチリ8時間後、いよいよ産まれる段に突入し、医師と看護士さんがワラワラと集まってきた。オットもカメラをセッティング。
  看護士さんのひとりが床に貼られた白いビニールテープを指さし、「この線からこちらに来ないようにしてください」とオットに告げる。「その線を越えると、気分が悪くなったり、失神されたりしますから」。なるほど、立ち会い出産にも結界があったわけだ。
「はい」と素直にうなずくオット…これがくせ者であった。

 何度か息んだら、やっと赤ん坊が出てきた。よかった〜、もう痛くない。
「おめでとうございます。女の子ですよ〜」と看護士さんの声。
  あーそうかい、どっちでもいいよ、痛くなければ(これ、本音)。 
  パシパシとフラッシュが光ってまぶしい。オットのカメラだ…。産んだ私と取りあげた医師と生まれたての赤ん坊を抱く看護士さんを撮っている。…あれ? オットは境界線をはるかに越えている。それも、かなりヤバイ領域に立っている。どさくさに紛れて。
  後日、このときの写真を見たら、笑う医師と看護士さんと泣き顔の新生児の後ろに、あられもない格好のアホみたいな顔をした私が…。この写真は封印した。 

 キンセンイシモチのお父さんは卵をくわえる約8日間、何も食べない。
  分娩室にいたオットは、約8時間、飲まず、食わず、吸わず(タバコです)、トイレにも行かず(自らの意志というよりツマが怒るので)。
  赤ん坊は新生児室へ。私は病室のベッドに落ちついたら、夜の8時をまわっていた。
落ちつくまもなくオットはそそくさとカメラバックを肩に、キンセンイシモチが待つわが家に帰っていった。これから、寝ずの番でハッチアウトを待つのである。

 キンセンイシモチのハッチアウトは、出産から3日後のことだった。
  夕方にオットが面会に来て、ポロポロと少しずつふ化が始まっていると教えてくれた。翌日、いつもより遅い時間に来たオット、「とうとうやったぜ!」と興奮気味。決定的瞬間をモノにしてきたのだ。
  オスが水面に浮上して、バフバフと激しく口を動かすと、卵が一斉にハッチアウト! たくさんの稚魚たちが水中に放たれたという。



  ギリギリまでお腹に居座っていた赤ん坊は、爪がしっかり伸びていた。
  看護士さんがやって来て「お父さん、よかったらお子さんの爪を切ってあげてください」と小さなハサミ型の爪切りを貸してくれた。
「あれ〜? この爪切り、オレが持っている鼻毛切りとまったく同じだよ」なんて言いながら、小さな爪を切るオットはホクホクとうれしそう。

 娘が5歳のころ、
「あのさ、男の人って、最初は『彼氏』で子どもが生まれると『パパ』になるんでしょ」と保育園で仕入れたらしい知識を披露した。
  プッと笑ったけれど、言い得て妙。キンセンイシモチのふ化を撮って生まれたての娘の爪を切ったとき、オットはパパになったのだから。