第10話

ターニングポイント

文 /こばやしまさこ
写真/小林安雅



 魚にかぎらず海の生き物は、卵がふ化したところで大団円となる。
  例えば、磯でよく見られるホンヤドカリ。秋の終わりから春にかけての寒い季節が繁殖シーズンで、磯のあちこちでオスが自分より小さなメスを持ち歩くシーンが見られる。メスは卵を抱えている。しばらくすると、オスの保護のもとメスが卵をふ化させて、たくさんのゾエア幼生が放たれる。「元気で生き抜けよ〜」と子どもたちを見送る父母の図と誰もが思うはず。でも、ちょっと違う。
  オスは子どもたちの実の父親ではないのだ。実はオスは“あき待ち”−−つまり、メスが卵をふ化させた後交尾するために、メスをキープしていたのだ。確実に自分の子孫を残す方法といえる。


 メスは卵をふ化させた数日後に脱皮する。脱皮後の身体がやわらかいうちにオスは交尾して、メスを解き放す。自由になったメスはやがて卵を産み出して、ふ化するまでお腹にかかえる。すると、別のオスがやってきて、メスを持ち歩くのである。

 ホンヤドカリはシーズン中たくさんの生命をセッセと海に放つ。映画なら、水に漂うゾエア幼生のシーンでエンドマークが現れる。しかし、人間はこうはいかない。たった一匹の誕生から、物語の第二章が始まるのである。

 昼夜問わず2、3時間おきに「ぶぇぇぶぇぇ」と泣いて空きっ腹の赤ん坊にひたすら乳をやる。夜中から明け方にかけては眠気を紛らわすために、よくテレビをつけた。 
  朝5時のNHKのニュースの地方版。生真面目なアナウンサーが、北関東で起きた牛泥棒事件を伝えている。夜中に牛数頭が盗まれて、朝起きてみたら牛舎が空っぽだった。
「なお、この牛舎には番犬がいましたが、知らない人を見ても吠えない性格だったとのことです」
  ゆるぎない語調のナレーション…。画面にからっぽの牛舎に寝そべるワンコが映る。上目遣いの顔が情けない。乳を飲み終えた赤ん坊を縦抱きにしてトントンと背中をたたきながら、「こーゆうの、アリかあ」とボンヤリ思う。ケポッと赤ん坊がゲップする。
「やっぱ、ヘンだよ。このニュース」
  後でとーちゃんにこのニュースのことを話しても、信じてもらえなかった。

 赤ん坊が生まれてからしばらくは家にこもりきりだけど、やることは単純だ。
  おっぱい、背中トントン、おむつ交換、おっぱい、背中トントンおむつ交換、脱がせる、おふろ、着せる、ゆざまし飲ませる、背中トントン…。これが昼夜果てしなく続く。もしかしたら、永遠に続くんじゃないかと思うほど。
  世間とのつながりはテレビにたよっていた。とはいっても、すっかり脳みそがふやけていたのか、ワイドショーやドラマにはまったく興味がわかなかった。この時期はまっていたのが、NHKの「健康相談」。
  毎回、ひとつの病気をテーマに、専門医が視聴者から電話による相談を受ける。例えば「痔」。医師はいろいろな痔の相談に答えるも最後に必ず「やはり専門医を受診をおすすめします」と口をすっぱくして言う。でも、相談者で通院している人は一人もいなかった。どんなに状態が悪くても、である。最後の方では、「ですから、お医者さんに行けばいいんです!」と語気が荒い医者のひたいに青筋が…。
「だからさあ、みんな痔の医者にかかりたくないから電話するのよぉ」と突っ込みを入れつつ、くっくっくと涙目で笑う。
  今、思い返しても、あのころは別次元に暮らしていた感がある。